講義名: 支那文芸学
時期: 昭和19年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
く変ってゐるのは、むかしの文藝家は支那語だけの世界に生活し、今の文藝家は[br]
支那語以外の外國語を呼吸し、知的に、または思考的に複雑になってゐたからで、飜[br]
譯とは云へないまでも、外國精神の混入――自然に近代精神の發生といふことが伴[br]
ってゐるだけのことではないか。之に反して、郭沫若のごとき創造社派の文藝は、あくまで[br]
外國精神の基調に立って、支那を如何にすべきかといふ點をにらみつゞけてゐたもので、近代[br]
の文學精神をもっとも好く身につけた人たちとし、又これを育成して行くことができるな[br]
らば、新しき日本の指導精神と最もよく共鳴すべきあるものが存在するやうに思[br]
ふ。かうした文藝と、その道程において、その目標において考へられるべき文藝學とが、新[br]
しき支那と新しき意味の支那學において重要な地位を占むべきことはいふまで[br]
もなく、それは勿論、近代的意味において、他の藝術とさへ、况してや科學や政治や經済[br]
と、一應独立した意味あるひは近代的に連関された意味において考へられるべ[br]
きものである。[br]
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支那の文藝は由来士大夫の文藝と云はれた。これは、文藝の創作はもとより、その鑑賞[br]
を許されるものが讀書人階級に限られることであって、自然、大多数の一般人民からは[br]
遊離してゐた。このことは一面から見れば、教育の普及しない時代の現象としてどの國にも[br]
見られることであるが、特に支那では教育の普及がたち遅れてゐたため、文藝の遊[br]
離も顕著に見えたに相違ない。それらを總合した原因として見るべきものは、勿論漢[br]
字が文藝表現の媒体になってゐたからで、これだけ多数の複雑な文字を自由に讀[br]
みくだし、その意味を知り、その興趣を理會することは、個人にとって相當大きな負担[br]
であり、これだけの負擔を荷ふためには、何等かの方法で生活が保証されてゐなければな[br]
らない。しかも、さういった生活の保証は多く仕官者に許されるといふことが、少く[br]
とも近世支那社會の常態である。つまり、國家に仕へるものが臣であり、國家に[br]
仕へないものが民であることは、昔からのしきたりであるが、一たび臣となれば國家はそ[br]
の生活を保証するし、民であれば國家に對して税をおさめねばならず、而かも官は尊[br]
ばれ民は賤しい。古のことばに素封とあるのも、たまたま商人が巨利を博し、多くの[br]
財産をたくはへた結果、官または封爵を受けたものと同様の身分を社會的[br]
に築きあげたのであるが、さうした財産家の子弟はさらに官となることを求めて、その[br]
財産と地位とを安らかにしたいと考へる。素封といふ程でなくとも、いやしくも子弟を[br]
漢字教育に沒頭せしめるだけのゆとりのある家では、一面に商業を營み――或[br]
は營ませたり、又は地租乃至田地の收穫によって家計を維持しながら、その子弟の[br]
中から仕官するものの出ることをいたく希望してゐるのである。今、かりに小さい例[br]
をあげると、夏丐尊といふ現に生存してゐる人が、我的中學生時代平屋雑文とい[br]
ふ文を書いてゐる中に、[br]
自分の家はむかしから商人であったが、父だけは秀才だった。十歳までは祖[br]
父のしごとも失敗せず生活もよかった。兄弟五人の中、自分だけが八字から見て[br]
讀書できるといふ占ひだったので、祖父も父も、この子はいつか擧人に及第し翰林[br]
を拜命して家を榮えさせるだらうと期待し、自分だけは商賣のことはやらせず、家の家庭教[br]
師も特別にしてくれて、自分の讀む本と兄弟たちの讀む本とは違へてあった。兄[br]
弟たちは四書がすむと幼學瓊林や尺牘などを讀むのだが、自分はぜひ左傳・[br]
詩經・礼記を讀まねばならない。兄弟たちは八股文を作ることもいらないが、自[br]
分はぜひ八股文を作らねばならない。それは、自分がいつか讀書人になるといふためであ[br]
った。[br]
といふ一節があるとほり、一般父母の希望はまさにこゝにあったのである。かくして、仕官して生活[br]
の安定を得るとともに名譽を贏ち得たわけで、さうすることによって、一家の地位を向[br]
上するとともに、その人自身が一種の特種階級に足をふみこんだのである。儒林外史[br]
の始めに、山東の田舍のさまを寫して、周進といふ田舍の家庭教師乃至私塾の[br]
先生が着任したとき、ちゃうど新に縣學に入った梅玖といふ人が席にゐたので、周[br]
進はへり下って上席に就かない。その時、梅玖が皆を方をむいて云ふには、[br]
皆さんは御存知ないかも知れないが、われわれ學校のきまりでは、老友はむか[br]
しから小友とは一所の席につかないものです――しかし、今日は周先生の着[br]
任式だから周先生を上席に。[br]
といふ儒林外史の作者は、そこに注釋を加へて、明時代の士大夫は儒學の生員[br]
のことを朋友といひ、童生のことを小友といった、そこで童生から學校に入ると、た[br]
とへ十五六歳でも老友といひ、もし學校の入學ができなければ、たとひ八十歳で[br]
も小友といったものだ、ちゃうど娘が人に嫁ぐとき、嫁入りのときは新娘●●と[br]
いひ、それから後で▲々・太々といって新娘といはなくなるが、もし、よそへ妾に行った[br]
ものは、たとひ髮の毛が白くなっても新娘といはれるのと同様だとい[br]
ってゐるが、こゝの周進は六十餘歳であったが、なほ童生であって縣學に入[br]
れないのに、梅玖は少年にして生員になったので、年齢とは正反對に若いものが[br]
老友であり老人が小友であるといふ現象が起こったのである。それ故、いやしく[br]
も文字を讀むほどの人で、この生員即ち秀才の資格を獲得し、さらに郷[br]
試に合格して擧人となり、又、會試・殿試を經て進士になることを以て無上の[br]
光榮であり希望であると考へていたのである。それ故、儒林外史の作者はこれ[br]
を誇張して、その周進がその後忽ちに進士に陞り、部属に在ること三年、御史に陞り、さらに[br]
勅命を以て廣東學道に任命される。學道は、一省の人物を見出し、學問・[br]
風教を維持する重大任務を帯びた官である。彼はそこで范進といふ人[br]
物を發見する。これは、すでに五十四歳に達したが入學できなかったものであり、[br]
名簿には三十歳と称した。この范進の妻は、町の胡屠戸といふ肉屋のおや[br]
ぢであったが、范進がそのおやぢに金をかりて次ぎの擧人の受験に行かう[br]
としたが、おやぢが、お前みたいな●●●●の貧相な男がそん[br]
な大それたことを望んでどうするんだ、相公(秀才)になったのもお前の文章[br]
が好かったためではなくて、先生がお前の年をとってゐるのを見られて氣の毒だと[br]
思って入れてくださっただけだ、それなのに今度は老爺(挙人)にならうなんて飛[br]
んでもない心得ちがひだと云って叱った。ところが、范進はこっそり人に金を[br]
借りて受験して帰って見ると、母親は何も食ふものがなくて目も見えない。た[br]
った一つの財産である鷄を賣るより外に方法がないので、范進に賣りに[br]
行かせる。范進がその鷄をかゝえてうろうろしてゐる留守に、范老爺の擧[br]
人及第を告げる早馬がやってくる。その貧乏家が俄に大さわぎになり、米を[br]
もってくる、卵をもってくる。しかし、肝腎の本人がゐないので近所のものが探しに[br]
行くが、本人は一向それを信用しない。やっとのことで持ってゐる鷄をたゝき落して[br]
むりに引っぱって帰ったは好いが、それが本當だとわかった途端に氣が狂って、[br]
噫好了我中了といって、頭髮をふり乱して町へ馳け出す。みんなはどうし[br]
たものかと相談した末に、范老爺の一番こはがる人をつれてきてスカンと[br]
擲りつけさせ、『それはみんな作りばなしだ』といはせたら、發狂がなほるに違[br]
ひないといふことになり、それでは胡屠戸に擲ってもらはうといったが、さすがの[br]
胡屠戸も尻ごみして、「わしの婿どのに違ひはないが、今では老爺におなりだ。[br]
そんなお方を擲ったら天罰が恐ろしい」といったものの、しかたないので、范進[br]
を見つけてスカンと擲る。范進はそれで氣がついたが、胡屠戸は掌が[br]
はれたやうな氣がして痛くてたまらない。しかし、婿自慢をはじめて、「うちの婿[br]
は才學も好し品貌も好い。やっばりわしの目が高かったのだ」と手のひらを[br]
かへすといふ話になってゐる。勿論、これには多くの誇張をふくむものではあるが、その社會[br]
の●構を暗示する所が極めて多い。[br]
元来、いはゆる舊来の文藝は、まさにこの社會を地盤としたものであり、その所謂社會を[br]
形成するものは讀書人である。この讀書人なるものは、その智能と地位と財産とを以て[br]
極めて鞏固なる相互組織をなし、一種の階級にあらざる階級を作りあげてゐるため、[br]
この階級の勢力は支那社會の中心をなし、天子と雖も、又武力といへども容易にこれ[br]
を消化してしまふ程の力を持つ。それ故、清朝の如き塞外から起こった天子は、この[br]
階級を懷柔することに非常なる努力と注意とを拂ひ、その結果、自分自身が[br]
この階級の誇りとする文化的鍛錬を体験し、又これらの階級にある人たちが甘[br]
んじてその勢力を消費するやうなしごと――たとへば四庫全書編纂の如きものを[br]
起こした。かくして、支那の傳統的教養はかゝる異民族の天子さへも消化して、[br]
その社會の後盾とし、彼等の安全性を保有した。これが支那文化の寓する所で[br]
あり、殆ど支那とともに存續するかの如く見えたものである。しかし、かゝる安全なる[br]
社會において、その装飾とも見るべき文藝は、果して健康なものと云ふべきであるかといふ[br]
に、余は遺憾ながら否定的断案を下さゞるを得ない。それはちゃうど、舊家が毎年[br]
の年始にきまった松竹をたて七五三を飾るやうなもので、見かたによれば、よほど嚴●[br]
でもあり景氣の好いものであるが、そこに存するものは傳統であって創造ではない。勿[br]
論、松竹や七五三飾りによる新しい氣分は、新しい年を迎ふるにふさはしいもので[br]
あらうが、社會が変動を生じた場合、かゝる氣分の表現は必ず懷疑を伴ひ、さ[br]
らに否定さへ伴ふ虞がある。それは、社會の動きに調和することを忘れた人の[br]
姿である。[br][brm]
これを文藝について見るに、清朝時代に最も盛行したのは詩古文辞であったが、[br]
例へば桐城派と称せられる文藝家の傳統においては、その最高の標準を唐の韓[br]
柳、宋の歐陽修三蘇、更に明の歸有光などにおいたことは、その古文辞類纂を見てもわかることであり、[br]
その標準とされたる唐宋八家の文は、さらに先秦乃至漢の文學を摸擬したもの[br]
である。かくして、先秦西漢より唐宋へ、又唐宋より明清へと模擬をくりかへした。[br]