講義名: 支那文芸学
時期: 昭和19年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
はゞ刺眼な表現は、同時に品のわるい含蓄の乏しさを生ずるもとであるから、か[br]
ういふ文藝の缺を補ふものは、いはゆる神韻の説であり、かつて王漁洋が唱道[br]
し、さらには宋の厳羽の滄浪詩話にその源を見出すものである。厳滄浪の説は、[br]
盛唐諸人、唯在興趣、羚羊掛角、無跡可求、透徹玲瓏、不可湊[br]
泊、如空中之音、相中之色、水中之月、鏡中之象、言有尽、而意無窮。[br]
とあって、さらに唐の司空▲表聖の詩品における、[br]
味在酸鹹之外、不著一字尽得風流。[br]
と相連なるものがある。されば、王漁洋が唐賢三昧集を選んだ時も、この二説を[br]
標準として、開元天寳諸公の篇什を讀み、別有會心のもの、尤も雋永超詣な[br]
る者を録したのが、王右丞を筆頭とする四十二人であって、李杜はあづからない。その[br]
三昧とは即ち禪家の三昧であって、滄浪の禅も詩もともに妙悟にありとするに出[br]
でたものである。今、これらの説に就ての詳細なる考証や証明は、鈴木先生の支[br]
那詩論史に譲るべきであるが、現代の詩に於て、やはりかゝる態度に出た詩人が[br]
認められる。[br]
たとへば王獨清の如き、馮乃超・穆木天とともに後期創造社の三詩人として鳴ら[br]
したものであるが、その作の一例をあげれば、春愁と題して、[br]
春雨凄淋在我窗前、[br]
窓外透進了無限春寒。[br]
這不可抵抗的春愁▲、[br]
▲好像使我又退回去了幾年![br]
可是這満天的春雨、[br]
像壓着我傷春的過去、[br]
我無限希望的未來▲、[br]
快換去我這無用的春愁情緒![br]
と歌ってゐるし、甚しいのは、泣濃獄断章と題して、[br]
來夢[br]
明浄[br]
溶々、[br]
泣濃[br]
倒影[br]
水中、[br]
和風[br]
軽々[br]
吹送、[br]
閃動[br]
波鏡[br]
朦朧、[br]
牢宮[br]
破成[br]
飄蓬……[br]
といふ風に、二字づつで観念だけをぶつけて而かも二種の韻を使ひわけてゐる。これらはも[br]
とより西洋の詩にヒントを得てゐること疑ひもなく、穆木天の如きは、わが大学のフランス文学専攻[br]
であり、王獨清もパリに耽溺した人間の一人で、その我在欧洲的生活に、自分が始め[br]
てパリと接觸した時、自分の両眼はほとんど眩暈を覚えんばかりであった、自分が初めて[br]
セーヌ河のほとりを歩いた時、自分の胸には言ふに言はれぬ膨漲の快感にふくらんだ、[br]
といふとほり、西洋の影響を十分に蒙ったもので、時にフランスの象徴派の詩を學[br]
び、軽●詩人と称せられた。その主張としては、詩は説明であってはならない、暗示が一[br]
番必要である、ヴェールを通して見、ヴェールを通して感じた世界を歌はねばなら[br]
ない、といひ、相當の反響を起した。王獨清は陜西長安の人で、その「長安城中的[br]
少年」はその自傳であるが、少年時代の悪劣な環境の中に藝術と旧社會[br]
反抗の根を植ゑられたことを詳述してゐる。貴族的画家を父に持つ。画譜に親しみながら、[br]
自分の影をみとめて、駱駝の画に影をつけ、親父からは駱駝駕雲といって叱[br]
られ、親父の友人から西洋画を見たのかときかれたが、実はさうでない、自分の發明だ[br]
といふと、そんな餘計なことをしてはいけない、画は謝赫の六法を守れば好い、真物と似せることはいらない、と云はれる。[br]
それを楯にとって、六法の中の應物象形といふのは真物に似せることぢあないかと[br]
逆襲して、その画家からは、六法の中に影をつけるなんて書いてないとどなられ、親父[br]
からはさがれ!とどなられた話があるが、さういふ性格は詩の中も表はれ、一つ一つの[br]
文字を以て画の一筆一筆の如く働かしめてゐる。自分でも、我文学生活的回顧に、單字を綴り合せて有韻の句を作るのが何より楽しかったといってゐる。そこには詩画二●の境界がある[br]
といふことは否定できない。[br]
彼の詩について穆木天は、王獨清及其詩歌といふ論文王獨清詩歌代表作に[br]
於て、詳細に批判してゐるが、彼は五四から五▲までの詩壇を代表する人物と[br]
して、郭沫若・徐志摩・王獨清の三人をあげ、この三人が同じ時代の潮流の中に泳[br]
ぎながら、違った空氣を呼吸し、違った心理組織を代表し、[br]
中でも王獨清の立場は、當時の浪漫主義全盛期における貴族的浪漫主[br]
義を代表すべきものと称してゐる。これは前述の家庭の環境から来るものの、殊に、[br]
ヨーロッパに流寓して當時流行した惡魔主義とか伊達ごのみ(Dandysm)の影[br]
響をうけるとともに、象徴派・頽廢派にも接近した、前者は貴族的浪漫詩であり、[br]
後者は世紀末的な感傷詩であるが、その作たる「聖母像前」の如きは感傷主義の氛圍氣[br]
に包まれたもので、一面過去の沒落した貴族的世界を憑吊するとともに、現在の[br]
都市生活の頽廃的●楽の陶酔と悲哀とを寓してゐる。而かもその創作[br]
は幾たびか稿を改めたと傳へられ、ローマに遊んだ弔羅馬の如きは、たしかに大作[br]
と称するに足る。[br][brm]
かういった回顧的な行きかたとは違って、同じ浪漫派でも徐志摩の如きは、[br]
資本主義的と称せられるだけあって、憑吊の作よりも、現在を賛美する方[br]
向をとり、これも穆木天の評によれば、始終生命の信徒であって、生活が即藝術[br]
といふ信仰のものに、あくまで理想主義を肯定し、自我実現に努力した詩人[br]
であるだけに、夢幻的な詩に甘んぜず、種々の新しき技巧を用ひて、種々の實験[br]
を試み、陳●の評にも、志摩の詩はほとんどすべて体製の輸入と試験とであ[br]
って、その試験を経たものには散文詩あり自由詩あり無韻体詩あり駢句韻体詩[br]
あり奇偶韻体詩あり章韻体詩ありで、その成功と失敗とは俄に判定しがたいが、少[br]
くとも新しい路をひらいたことは確かであるといふ。されば、もし王獨清の詩に神韻の匂がある[br]
とすれば、徐志摩の詩に格調の影がさしてゐるといって云へないこともなからう。[br][brm]
これに對し、己が心をそのままにつかみ出して訴へるところの性霊の詩は、郭沫若に於[br]
て認められる。沫若の主張は、詩の本職は抒情にあり、自我の表現にあり、詩人の利[br]
器はたゞ純粋の直観あるのみ、といふことで、形式をいとひ、自然の流露を上●とし、詩[br]
は作るものではない、書くものだ、といった。その女神に、[br]
只要是我們心中的詩意詩境底純真的表現、命泉中流出来的[br]
Strain、心琴上彈出来的 Melody、生底●動、霊底喊叫、那便[br]
是真詩、好詩、便是我們人類底歓楽底源泉、陶酔的美醸、[br]
慰安的天國。[br]
といってをり、從来の傳統にない汎神論と二十世紀の動的反抗の精神を持ってゐ[br]
た。支那には瞑想詩が乏しい。詩人は多く人本主義者であるが、人生の根本[br]
問題を摸索したものがなく、而かも自然に対しては初めから理會しえなかった。そ[br]
れが理解されてもたゞ山水を見るだけで、詩に入れてもたゞ背景として用ひるだけで[br]
あったが、自然を神とし友としたのは郭氏の詩が最初であった。そして、動的にして反抗[br]
する精神は、静的にして忍耐する文明の中ではもとより存在しなかった。すべてそれ[br]
も外國の影響だ……と朱自清は新文学大系の導言の中で述べてゐる。[br][brm]
郭氏の劇詩集に、三個叛逆的女性と題して、卓文君・王昭君・聶▲の三人を描[br]
き、古代の女性の中から自分で自分の運命を開拓した女性をとり出した。それには、[br]
ワルイドのサロメや、イブセンの人形の家の思想が多分に影響してゐようが、かくの如く古代の人[br]
物をとり出したのは、ちゃうど魯迅の故事新編のやうに故事をとって現在の種としただ[br]
けで、復古を夢み、少くとも過去を憧憬してゐるのではない。この点は、昔を今にな[br]
すよしもがなと詠歎し咨嗟する王獨清の態度とも違へば、現在の力に溺[br]
れてゐる徐志摩の態度とも違ふのであって、つまりは社會改革の精神に達[br]
するのである。それ故、この三人の詩はそれぞれの世界に生きてゐるのであって、徐志摩[br]
の如く新月雑誌のサロンに談笑した人たちが郭氏一派の槍玉にあがったことは云[br]
ふまでもなく、同じく創造社に據った王獨清とも決して相容れなかったことは、郭[br]
氏の日記「離滬之前」の中に、獨清のことを獨昏と称して、その名利心を嗤ひ、獨[br]
清は獨清で創造社の内幕を暴露してをる。文人相軽んずといふことばは永久[br]
の真理であるが、これとともに文藝は畢竟性格と環境との産物たることを[br]
反省せしめられるのである。[br][brm]
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