講義名: 白話と文言
時期: 昭和17年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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言語文字の偉大なる力である。[brm]
かやうに等しく言語文字の力に負うてゐるものであるが言語文字の性質が時に異同ある以上その基礎に立つ文學にも相當な型の差異を見ることは當然であって試に司馬遷の史記と班固の漢書とを取って例証するに史記の項羽本紀で(馬氏文通四ノ卅六)[br]
  天破秦●東阿[br]
といふところを漢書では●の字を東阿の上に加へ史記では[br]
  王●不安席掃境内而專属於将軍[br]
といふところを漢書では掃境内而属於将軍といひ史記高祖本紀では[br]
  ●皇帝位汜水之陽[br]
といふところを漢書では於を汜水の上に加へ逆に史記蕭何傳では[br]
  ●●種爪於長海●●[br]
といふところを漢書では於の字を削り史記張良傳で[br]
  昔湯伐桀封其後於杞●●伐紂封其後於宋[br]

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といふところを漢書では二つの於字を削り史記張耳陳●傳では[br]
  然而慈父孝子莫敢●●公之腹中者[br]
といふところを漢書では公の字の上に於字を加へ史記韓信傳では[br]
  不至十日而●之●可●於麾下[br]
といふところを漢書では於字を削り史記樊會傳では[br]
  東攻秦軍於尸●攻秦軍於犨[br]
といふところを漢書では於尸を尸●と改めてゐる。これは微妙な語氣に基づくものであって馬氏もたとへば尸といひ犨といひいづれも単字にすぎないから於字を●せば好いがもし尸●といへば二字になるから於字を加へないのだらうと云ひ又封其後杞などでは杞や宋は一字であるがその上の封其後に合せると四字になるがもし東攻秦軍尸といへば五字の端数になるから●称してゐる。そして総体の評として[br]
  史記之文紆餘漢書之文卓●於字之刪而不刪其省以夫[br]

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とあるのはいかにも文法の問題すら文學を以て説かれるといふ点に支那語の特質を発揮してゐるといふことができる。[brm]
 於の一字すらかくの如く考察されるのであるから況して史記と漢書との優劣乃至比較は久しく考へられたことで劉知幾の史通にも張輔の班馬優劣論を引いて優劣を定めがたいといってゐるがこれはむしろ史記の問題に重点があるので文章の方面から云ふならば古來史記を宗とするもの漢書を好むものそれぞれの好みがあることを免れない。しかし大体支那における作文の模範として授けられるものは史記よりは漢書が多くわが國にてはたとひ左國史漢と併称されるにしても史をあげ漢を忘れるものが多いのはどういふことであらうか。史通一の中に漢書を評したことばに[br]
  言皆精練、事甚該密[br]
といふ八字があるがこの言皆精練といふことが正に漢書の特質を射とめたものと云へるのであってつまり史記に比して文飾に意を用ひてゐることであり逆に史記は素朴であると云って好い。しかし史記の素朴さは何から出來漢書の文飾は何からできるかと云へばこれは當時の文学界の大勢を参照しなければ解決のつかないことである。[brm]

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 凡そ物が変遷するのは必ずある点に過不足を生じた結果その埋め合せをする必要に應じたものでちゃうど空氣が熱のために暖められると上昇しその代りに冷たい空氣が流れこんで風を生ずるやうなものでさてこそ風潮といふことばもできるわけであるが文學界の風潮といふのも正しくこの現象であって時代とともに文學も変遷してゆく。支那ではこの現象を説明して或は文と質といふことばを用ひあるひは駢散といふことばを用ひ或は内容から載道言志などの表現を用ひる。元來文質といふことばは古くから時代思潮の動きを説明するために利用されたもので特に孔子はじめ周代の人物が自分の時代を文といひこれに先だつ殷を質と称したことによる。これは一面周の文化の優雅さを誇る考があると共に所謂文質彬々といふことばの示すやうにその両者の調和を考へることも當時の指導者としては決して失ってゐなかった。尤もこれは文學の一面に拘泥するものではなくして全面的に文化の傾向を論ずるものであった。しかるにこれを現実の文學問題にもって來ると周時代の文學はまだ文といふには相當な距離がある。これを周作人先生は中国韻文学之源流の中で称せられた言志載道の分にあてはめて考へても私にはまだはっきり分けられないや

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うに思ふ。支那において文學らしい文學が自覺されたのは何といっても魏晋時代でその時代の文人として有名な建安七子乃至陳思王●●などの如き領袖の考はまさに藝術としての文學が要求されてゐた。これはちゃうどこれとあまり遠くない竹林七賢などが人間といふものを要求したやうなものでこれぞ周先生のいはゆる言志的傾向である。しかしこの傾向とて●●●●するものではなくこれに先だつ後漢時代からの純粹性を求める傾向にたいし拍車をかけたにすぎない。この傾向はすでに前漢末より相當顕著になってゐて例へば経學の方向でも前漢は専ら経を引用して政策を論ずることに急であったが後漢の経學はこれと趣を異にし経典の真の解釈を知るために主観的傾向を排して客観的に見つめ又その工作にたいし必要なる文學音韻學乃至校勘學などの発展をも招いたわけであってその点はちゃうど明清の経學の発展とよく似てゐるのであるがかういふ傾向は當然文學においても最も強力なる創作●を●たしめる方向をとりその作品はたゞある内容を表現するだけの形式たるに止まらずその様式自身が徹底的に美化されねば已まないといふことになって行く。甚しきは●●●その様式から生み出された文學であるかも知れない。しかしかゝる文學は文學以外のもののために作られたのではなくして[wr]明

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かに[/wr]文學そのものを目ざしてゐるところに重大な意義があった。それ故三都賦を作るために少年の歳月を費して悔いない精神も●これから生ずる。[brm]
 かういふ時代の風潮はたとひ歴史を記述するにしてもその行文に文飾を努力させるに至ること當然であって班固の漢書が司馬遷の史記と違ふ点はまさにその文飾に在りといへる。今試に郭紹虞氏が學文擧例にあげたものを以て説明すれば●侠列傳の●解の一條において漢書は全く史記の文を裂いたのであるが単に文字の数のみより云へば相當の減少を見てゐるがしかし事実はほとんど一つとして削られてゐないと云って好い。然らばどういふ点が減字を見たかと云ふに者、以、固、必、乃、之、至、也、其、此、雖、身、卆の如き文字が多く刪略されてゐる。元來これらの助字的性質を持つものは有っても無くても意味は通ずるがしかし何故之を加へるかと云へば文の姿態を取るのである。変化の要素をかへるのである。いはゞ濃淡をつけるとも云へよう。同時にこれらを刪除すれば全体が●制的になり一元的になって來る。つまり史記の妙味は濃淡に在り漢書の妙味は整斉に存するわけである。従って支那人が文を作るについてその

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模範となるべきものは整齊であり規格である以上ちゃうど支那では杜甫の詩を讀む者が多くて李白を讀む者が少なきやうに漢書を讀んで文の型を悟らしむることはあっても史記を讀んで規準を知ることは無理である。わが國では支那文學を研究するに多く●●によるためかゝる微妙な文章道について考へる人が少なく自然史記と李白とをあげて漢書と杜甫を次におくに至るのである。こゝに支那人が難しとするものを易しとするやうな誤解が生じ得るのでたとへば支那人ならば律は極めて作りやすいのであるが日本では律をむつかしいとし日本人は絶句なら簡単に作るが支那人は絶句を難とする。つまりこれも整齊なるものは作りやすく錯●せるものは作りにくいからであって初學の進むべき課程をふみ誤まる時は終生救ふべからざるに至るのはこの点に在ることを知らねばならない。[brm]
 而して整斉なる文の特色は句をとゝのへてその中に緩急濃淡を寓するに在り、公殺之固當、吾兒不直といふよりも固の一字を刪ればその句は両者同じ音節となりこの二句の親密さが確定され自然上の句は必ず下の句を起すことになるから必ずしも「固」がなくとも暗にその心もちを含み得るわけになる。これに反し錯●した文は一方に偏した[wr]文

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勢[/wr]に釣りこまれてその方に傾いた反動でたとひ整斉ではなくともその間の関係が結ばれるといふわけでその特色を発揮するものである。その整齊なるものは人為的であって修飾を事としその錯●したものは自然にまかせた姿である。これが即ち前漢の文と後漢の文との相違であるし散文と駢文との差とも云へるであらうし載道と言志との差とも云ひうるが同様の意味で之を白話型と文言型とに分けて考へることも許される。[brm]
 勿論史記と雖も文言には相違ないこと論語といへども文言といひ得る如きものであるが言語が持つ姿態を文字の持つ姿態と比較する時史記が前者に近く漢書が後者に近いことは否●がたい。[brm]
 元來正史の編纂は初めは全く個人の手に出でてたとへば史漢の如くそれぞれ特長の文体をなしてそれぞれのファンを持ってゐたが後世は次第に●●となり文章の特色が減退して一定の型に嵌められた。假に唐以前の歴史について縦横の評論を行った史通について見ても真の歴史はかゝる型にはめられてしまふべきでないと云ひ[br]

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夫三●之説、既不習於尚●、両漢之詞、又多違於戦●、足以験甿●之逓改、不同而後春知歳時之作●通●遠識、記其當世口語、罕能●実而書、方復追效昔人、示其稽古、是以好丘者則偏模左傳、愛●長者則全學史公、用使周秦言辞、見於魏晋之代、楚漢應對、行乎宋斉之日、而●脩混沌、失彼天然、今古以之不純、真●由其●乱。[br]
  といふのはまことに名言であって史実を伝へるにはできるだけ模擬の文を避くべきであることは模擬の文がたゞに現実の状態を描寫するに不十分であるのみならずその文によって●●極めて現実●遠ざかった夾雑物が混入されることも免れない。つまり文字や言語はやはり時代の風潮によって動くもので現代の内容をもち現代の精神を述べようとするものが必ず古代の型を墨守せねばならないと云ふことは結局●●の衣冠にすぎないことでこの点古代の型に近づきやすい素質をもった文言に於て極めて危険なる陥穽となるもので多くの文言が一定の形式に堕して空疏な内容を他人の言辞によって●●するといふ危険が伴ひやすい。[brm]

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たゞ史籍が次第に増加するとともに次第に形式も整ひ史記が紀伝体の初めをひらき漢書が
断代史の祖となって以後ほとんどすべての正史はこの体裁をつぐに至り自然積み重ねられた勢に立って一種の威厳を生じその文体も古に近きものを以て雅正とすることは支那にあっては已みがたきものであると云へる。しかしこれらの歴史といへども特に文言型のみで表現し切れないのは生々した會話の描寫であってそのためにたとへば江芉の商臣を罵って[br]
  呼役夫●君王●汝而立●[br]
と云ひ漢書が酈生を叱って[br]
  堅儒●敗乃公●[br]
と云ひ●固が稽康にむかって[br]
  老奴●死自●●●[br]
といひ楽●が衛●のことをほめて[br]
  誰●生得寧●兒[br]