講義名: 白話と文言
時期: 昭和17年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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のやうに上句の條件により下句の結果を云ふのに断定の意味が強いばあひは白話では的の字を以て結べば好いし詠嘆のきもちのある時は哪吧で代へても好い。
  (ハ)上の句の末に對して文の中途に加へること
      風之流也月之明也吾将出●而●●
      悲乎清之亡也竟無為之死者
の如きばあひは●(連續的のばあひ)とか的時候(●句が時間を示すばあひ)とか時宜に應じて加へる。
 (二)矣について
 也と矣とはすべての面にわたって共通ではないが同時に全くその範圍の違ふものでもない。中でも「矣」の持つ特殊な味は(イ)完成の意味を示すこと(ロ)假定の意味を示すことで自然「也」における断定と詠嘆との面に觸れるのである。
   年漸長矣不速自謀此生休矣
    年紀漸々大了不趕快自己打個●●這一生●完了哪
の二つの矣も結果的間的完成の意味を前者に与へるとせば後者はむしろ[wr]假

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定[/wr]された事実についてその結果を推定したもので西洋文法の●●●に過去を用ひるのと一脈相通ずるものを覺える。ここに一つの面白い実例は(132)左傳成十六年に[br]
楚子登単●以●晋軍……伯為●恃於王後、王曰聘而左右何也、曰召軍吏也、皆聚於中軍矣、曰合謀也、張●●矣、曰虔卜於先君也、徹万布矣、曰将発命也、甚囂且塵上矣、曰将塞井夷灶而為行也、皆乖矣、左右執兵而下矣、曰●誓也、戰乎、曰未可知也、●而左右皆下矣、曰戰祷也。
の文で馬氏文通にも目で見たのを書いたところは矣の字で押へ何故か説明した所は也の字で押へたものである。これによって矣と也との呼吸を覺るべきである。[brm]
 (三)乎について
  (イ)疑問を示す  讀書善乎 ●商善乎 何者善乎 如子之愛我 ●不為 我計乎
  (ロ)将来のことを示す  此子不奉父母之訓 将無●乎
  (ハ)詠歎を示す  高哉言乎

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 (四)耶について
  乎の(イ)と同じ  子耶言伐莒者 呂氏
 (五)哉について
(イ)疑問を示すこと乎に近いがやゝ激しい。乎は穏激の両面を持ってゐるが哉は激の一面に偏するから哉は乎に更めることができるが乎はすべて哉に改められない。
     有是理哉(有這個道理嗎)
  (ロ)詠歎を示す  このばあひは乎哉または矣哉とも云ふ
 (六)焉について
  (イ)於●於●於是すなはち在這裏在那裏の語氣を示すばあひ
     吾有二子焉  中國●為四萬之人豈無●人焉可與共治中國者乎
  (ロ)動詞の目的になる人をふくむばあひすなわち他で譯するときは
     擧世皆●焉而●自得殆無心肝矣
   となり之也といふ氣分に近い。  吾國天下莫強焉=●有此他再強●的

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 時間を示すには文言も白話も原則として時間に関係する副詞を加へるのが常であってたとへば過去ならば已(已經)を加へ未来ならば将欲(要)恐或(恐怕、或者)を加へ過去の完了ならば曾(從前)などを加へる。しかし語尾に助詞を加へてその終了や推量とかによって過去未来の気もちを示すこともできる。白話で了を加へて已經到了といふ所は文言で已至矣と云ひ白話で今天恐怕不下雨●といふ所は文言で恐不雨歟のやうに云ふが白話で没看見過の如く動詞の直後に過を加へる方法は文言には認められずたゞ未曾見矣の如く云ふ外はない。すべて吃過(△)薬とか擧起(△)手とか戴着(△)帽子とかの如き言ひかたは文言に認められず如きは就中進行形の正戴帽のやうに云ふか動詞用の文として在讀書、正在讀書のやうな言ひかたが行はれてゐる。又 笑着説話 歇着怎麼様などのばあひは笑而言之とか飲之如何とかの云ひかたもあることは注意を要する。[brm]
白話において常に使用される所の介詞と名詞を用ひて述語の修飾にする形式は文言にも存在するが文言●●の形式としてはむしろ介詞を用ひるか或は述語+介詞+名詞の形をとる

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と思はれる。たとへば[br]
  他在那兒住  在上海做個小買賣
は 彼居於何処  負販於上海
  已經搬到南京去了
は已遷至南京矣といふ如く文言では大体述語が先行する。元來述語の前にかゝる修飾語を置くことは要するに述語の目的語を移して修飾的に用ひ下より上へ、重より軽へと文中の位置を変ずるものであって文言でもこのばあひに介詞を用ひてたとへば[br]
  明日向南行矣
といふことを同じ意味で更に簡単に而かも修飾的位置を変へずして南行の二字を以て現すこともできるが比較も比炭還熱といふ代りに熱於炭とも云へる。[brm]
とは云へ[br]
  以鐵為軌、以線引電   以雨不克奉訪
は拿鐵拿線、因為下雨と全く同じ構造であるやうに以においては全く白話と同様

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であるのみならず從、自、離、距、當、傍などを用ひることも稀ではない。抑現在の白話でたとへば站在門外頭と在門外頭站着といふ二つの形式は共に成立するが笑うやうなものになると在門外頭笑と笑在門外頭とは云へない。これは「在」の字が站のやうに位置を示すものとは密着するが笑のやうに位置を示さないものとは密着しないからであるが文言ではどちらも立於門外 笑於門外と云へる所に文言と白話の大きな差異を見出すことができる。いはゞ文言が「述語+介詞+名詞」の形を本体とするに反し白話では「介詞+名詞+述語」を以て本体とすることを示すものとして極めて興味ある事実である。[brm]
これと同じ形式に属するのは受身であって文言に[br]
  中國為西洋所侵略
とあるのは為の下の名詞が侵略といふ動詞の修飾となるがこのばあひは特に動詞の上に所といふ字が加へられ人と動作とを峻別してゐる。この形と最も好く似てゐるのは[br]
  中國叫西洋人給侵略

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といふ白話である。所を見ると或は所と給とが互に翻譯されたものだといふ疑も生ずる。これにたいし[br]
  中國被西洋侵略 又は 為西洋侵略
といふ形は被と叫とが互に飜譯されたものと見て好い。使役の形式は文言では使、令であって受身とは全然同じくないが白話では使役と受身とは叫+人+動作の形である限り両者はまったく同様である。[brm]
 唱得好とか沈重得很とかいふ類の構造は文言の本質でないがこの類の文の形式は前後二段になってゐるためこれを文言に譯するには歌之甚佳とか沈重之極とかまたは談之有理(説得有理)羞而面赤(羞得臉紅)のやうに之や而を利用して二段に述べることができる。ちゃうど笑着説話を笑而言之といひ喝着怎麼様を飲之如何といふと同じ要領である。
 次に前後の句と連續する助詞について述べると[br]
(一)則について

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則は大体白話の那麼、就、那就、那麼就、あるひは就要、那就要、那麼就要、就會、那就會、那麼就會のやうに上からの文義を順に受けたばあひと却是や却のやうに反對の意味になることがある。例左の如し。
    有學則有令譽 有令譽則無慮遺乏
    人皆嗜富貴 我則嗜學
 (二)而について
而も亦前の句と順接して這才、才、就、來、去、了と并●、●●のやうになることと却是と反對の方向を示すばあひとがある。たとへば
(イ)渇而飲は渇了(○)喝水と譯し學成而譽宏は學問講好這才(○○)聲名大起來と譯し草木當春而萠芽は草木到了春天就(○)発芽と譯し爾不對而去は你没荅應就走開了と譯し假田而耕は佃人的田來(○)做荘家と譯し説肆而賈は開個舖子去(○)做買賣と譯し羞而面赤は羞得臉紅と譯するといふ類(すべて句中に在り)中國●●廣而産物●を中国地方●●●●●●●●●●●●。

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(ロ)人而無志とか貴而不驕とかは句中のものとして別にしても有疑當問而●不問は有疑惑的該問却(○)是(○)不問と譯し世人皆酔而我独醒を世●人都喝酔了却(○)是(○)我一個人醒的と譯するやうな類
に分けることができる。この中(イ)の動詞又は形容詞の次にすぐ而の來るばあひは文言では則の字を以て代へ渇則飲、學成則譽宏と云へるし當春而の如く介詞を以て介紹するばあひも當春則萠芽といへるが假田而耕の如きは則を以て代へることができずこのばあひは以を用ひねばならない。これは恐らく一以貫之の以と共通し(用一來貫他といふ)てゐるものらしい。又(ロ)の却是のばあひも則には反對になるばあひがあるにより之代へることができる。たゞし則と而とは文中の●●が違って世人皆酔而(△)我独醒といへるが則はそのまゝの位置に坐りこむことができず我則(△)独醒となる。而你不問は你則不問といはねばならない。これから考へると而は順逆ともに一様であって主語の前に置かれるが則は●らず順のばあひは主語の上にあり

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逆のばあひは主語の下にあることが発見され文言の解釋においても有利であらうと思ふ。人而の而の氣もちは我則の則の氣もちと相通ずるわけであるがこれを互にとりかへることは許されない。而のばあひは雖然是人可是汲有意氣を最も短く表現した云ひかたでありつまり可是却是のばあひの而に●するのであって表面の形式は主語+而であるが実は二つの句の中の下句の首に出たばあひでその時は當然我則の形と相容れない。つまり二句の主格が共通のばあひであるからこれから見ると則が主語の次に来るのは別の主語を提起する形であることがわかる。[brm]
 以上の而と則との関係を見ると元來則は二句の間の順●のための助詞であり而はたゞ専らことばの継續を示すものであることが知れる。即ち而のばあひはことばを足すものであって順と逆とは定まってゐない。たゞ人而の如く雖然を略した形においては而自身が強く反発する気持ちを負擔するがこれは要するに文を短く意を長くしたといふことにすぎない。又句中の當春而とか説肆而賈の如きも句の中の●●を整へる作用を含むもので場合によってはこれを省略することもできる。[brm]