講義名: 白話と文言
時期: 昭和17年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
れた[/wr]のも免れがたいことで而かもその間において単にある文字だけを考へるに止まらずその文字が使用された場合を考へるとその文字と他の文字とのさまざまの組合せが長い歴史と多くの文献とを●って一種のまはり燈籠のやうに現はれる。そこで今日の人がある文言を●むことはそのまはり燈籠のある一面を●へることでもしその一面だけを見て文字のすべてを知ったと考へるならば大きな誤であらうが同時にその一面が単に独立したものだと考へることも許されない。これはもとより白話においても同じことが云へようが白話はおほむねその方言地區における言語現象を横にくりひろげるに反し文言ではその長い歴史を縦にくりひろげるのである。又白話においての複音節的構造はむしろ言語の音●的注意が一つおきに強弱をなすことに本づきたとへば[br]
二爺是個好人[br]
とか[br]
為是叫我歇々[br]
とかの如く二音節の複合になるものも大体は強弱強弱の節奏がくりかへされる。
しかるに文言では誦讀の習慣が重要な契機をなしそれは多く四字の句から成り立ってゐる。これは支那の最古の韻文である詩経からしてこの四拍子を以て歌はれてゐることでもわかるとほり支那における有韻文の基本調子はまさに四拍子におかれてゐる。これは一面四音節を以て一呼吸を調へるといふ生理的現象にも本づくであらうが一面には単音節性が呼び出した複音節乃至複々音節の代表となるものである。しかも単に有韻文のみならずもし誦讀に便利な形式をもったもの●●ればほとんどこの形式を基礎とせぬものはない。その最も代表的なものは●賦の類であり四六であってさらには宋代からほとんど清朝の末まで長い修煉が積まれた八股文はまさにその典型である。元來八股文とは古くから文官の登用試験として知られた科擧における文章であって支那人がこれを學ぶために費した精力は非常なものであり支那に科学が起らなかったのは正にこの精力の濫用に●●とさへ云はれる。しかしこの文章に長ぜず自然その試験に失敗したばあひには一生を棒に振ってしまふわけであって利禄の道が之を●ふ以上にはこの文章がいよいよ鍛錬されることは明かである。今試みにたまたま手もとにある光緒九年會試中式の馮汝騤が年二十一にして殿試に
應じた時の策問の巻子を以て例とすれば[br]
蓋―王者―因革損益―不必尽同―而―其源則一―立綱陳紀―以●有為者振其機―恭己垂裳―以―無為者端其範―篇章具在―訓誡如聞―●厥心源―若合符節―也[br]
の如く四六を以て基幹としながら與へられた問題を解いてゐる。しかも殿試は古から燭を給せぬ習慣になってゐて一日の中にこの巻子を書きしかも極めて端厳な文字で書き終らねばならない。更に滑稽とまで見えることはたとへば皇帝陛下とか皇上とか制策とか事天下に関する文句に遭へばその文字を二字●●し國家などでは一字●●しながらその前の行はキッチリ文字を埋めてある細工のやりかたで勿論このため普通の一行は廾二字といふ偶数であるがそれにしてもかゝるモザイクとも見ゆる文章を書くために青少年時代を費したことは如何に氣の毒なことであるかとうたゝ同情にたへないが同時に漢字の文言的訓練はこゝにおいて●に上り●に入ってゐる。それ●●にもあげた焦循の易●籥録では[br]
有明二万七十年●心刻骨於八股故胡思泉歸煕父金正希章大力数十家洵可●楚騒漢●唐詩宋詞元曲以五一門戸而●何王李之●乃沾々於詩自命從古殊可不必者矣[br]
と論じ周作人先生も支那の大學の國文科に八股文の講義がないことを大きな缺点であると論じてをられる。その説に[br]
八股文は支那文學史上先を●け後をひらいた一大関鍵であってもしわが國の文学を研究しようと思ふ人が先づ八股文を明白にしなければ結果は一つも得るところがなく古い傳統の極●に達することができないばかりか新しい反動の起源を理會することもおぼつかない[br]
とあるのは一見奇矯に似てさすがに含蓄のあることである。つまり八股こそは支那における文言文の理想を壓縮してできたもので同時に古典をすべて吸収したものとも云へる。更に周氏の説に[br]
八股文を作る秘訣は多くの名家の舊譜をシッカリ暗記してその場に及んでその●に[wr]●●
て[/wr]行くことだ。填めながら歌ひ上の句の勢に附いてゆけば下の句の調子がひとりでに出てくるから適宜に平仄の字を填めて行けばちゃんと上等の八股文ができるわけである[br]
といってゐるのは八股文が文義を重んぜずして聲調のみを重んじたことを皮肉に云ったものでこゝまで修煉ができれば漢字を一つづゝ埋めて何字で書けといはれれば何字で書きあげるといふ藝當も朝めし前になる。これが支那の文學のある一面を誇張したものであり同時に支那文化の結晶――周先生による――とさへ言はれる所以でもある。日本人が絶句を作るときこれから考へたらよく●●できる。加之八股のごとき文章ではその一句を形づくる要素即ち文字には自ら定まった組みあはせがあってその法則はみだりに出入することを許されない。即ち古來の聖賢の残された典籍か又は八股の名家の模範文の中から取捨してゆけば一番安全であり又一番明白でもある。つまりそこに示された文字はある典型を持つものであり作者がその典型を知って用ひた以上読者もその典型によって解釋するその典型を知らないものは作者となることができないのみか読者となることすら許されない。いはゞその典型は一種の合ひ鍵であってこれを所有するものには難なくあく代りに之を持たないばあひは如何にしてもあけることができない。つまり合ひ鍵が頭の中にできる●●●
烈な訓練がないと一人まへにはなれなかったのである。更に文章における音楽的呼吸すなはち字数の調和乃至平仄のぐあひまで大体見當のつく人はたとへば音楽の譜だけ見てすぐに歌へるやうな音楽家であってどこで句が切れどこで息を入れるかと云ふことはほとんど読みくだしさへすればわかることであった。それ故かういふ文章には本來句読をかへる必要がないものである。それほど型にはまりきったものでもある。[brm]
以上専ら白話における明白の性質と文言における明白の性質を述べたがこの二種の明白さは一つは言語型の明白さであり一つは文字型の明白さであることを明にしたとともにその双方ともにそれぞれの文飾を持つことは以上の説述の中から自ら紬ぎ出されることである。つまり白話においてはいよいよ言語の●●をつくすことはいよいよその文飾をなす所以であり文言においてはいよいよ文字の●●をつくすことはいよいよその文飾をなす所以であって文飾の方法こそ異なれその文飾であるといふ点に変りはない。つまり言語といひ文字といひ一面人間生活の実用的方面を擔當するとともに又生活をうるほす所の藝術的方面をも擔當するいはゞ明白と文飾といふことは言語文字の本性であって敢て白話文言の何れかに固定したものではない筈のものである。[brm]
白話の白が文言に対する以上明白の白でないことは最初に述べたことであるが今は明白の方は問題がないとして文言が文飾を独●する如き名称であることはいさゝか疑問を生ぜざるを得ない。ひとしく文飾であり明白であるにたいしたとひ文飾だけでも文言に●●属することを怪しむこそ道理である。しかしそこにはこのことばの生れた時代と環境とが物をいふのであって今日の如く文言と白話とが平等乃至これに近い地位にある状態からのみ考へるべきではない。つまり●●●●●は文言を立てゝ白話を●んだ明代でありその背後に存するものは支那人が文字を重んじて言語を賤しんだことを考へねばならない。しかも更にその背後にあるものとして支那における文字崇拜といふことが結局一番根本の問題になると思ふ。[brm]
支那における文字崇拜といふ習慣は今日でも文字を書いた紙片を字紙●に入れるとか敬惜字紙とか云って普通の紙片とはまったく違った取りあつかひをすることでもわかるとほり廣く一般に行きわたり文字を知ると否とはその人の社會的地位を●●する力を持ってゐる。これはやはり文字を學ぶことが困難であり從ってこれを學びえた人を尊敬することになったに相違ないと思ふ。事実これだけ多数の文字を自由に読み自由に使ひこなすことは往昔の如く教育
の普及しない時代では當然珍しいことと考へられるのであって盗賊と雖も四書を●述したといふ話さへある。それ故當然その反動として何人も能くするところの言語は珍しからぬためこれを問題にせぬことになったらしくかくして文の一字は文字ともなり文飾ともなり文言ともなりしたことであってこれは當時の社會状態から考へて怪むに足らないことである。時に白話に文飾なしと考へることははなはだしい誤解であると云ふ外はない。それはつまり文字型の文飾がないといふだけであって言語型の文飾といふものに注意を拂ってゐなかった往昔としては●●●●た事実でもあらう。[brm]
なほ前にも述べた豈有此理とか不能一●而論とかのやうな文言が白話の中にまじって使用されてゐるのはこれ●文字型の文飾も文字そのものの性質として音聲を離れることができず自然文言における文字型の合ひかぎが音聲を媒介として言語型の合ひかぎに変形して行ったもので言語と文字との切っても切れない関係はこのあたりからも推測されることである。[brm]
文學とは言語文字の美しき系列であり少くともかゝる系列に便乗したものである以上文學の性格が言語文字の性質によってある牽制を蒙ること云ふまでもなくむしろ言語文字によって生み出されたとさへ云ふことができる。從って支那の文學を考へる人は當然支那の文字について十分な関心を寄せ又自ら相當な訓練を経過しなければならない。これと同時に支那の思想は多くのばあひにおいて文學に便乗してゐるものであり而かもその現象も●単に支那にのみ限定されるものでなくしてほとんどどの民族でも見られることで偉大なる思想が偉大なる文學と共存してゐることは珍らしからぬ事実である。又支那における歴史的事実を伝えた正史などの如きも司馬遷の史記、班固の漢書をはじめ多くは支那文學の精粹として歌はれてゐるのはたとへ歴史といへども文學を離れていないことでありこれ●西洋諸國にまたわが日本にその実例が乏しくない。あるひは水経注が叙景文の●●として称賛されるのは地理書が文學に便乗したものであり唐の陸宣公奏議が後世の文の手本として歌はれるのも政策が文学に便乗したものでありその他技藝といひ自然科学といひ今日に伝はる古人の精神はほとんど文學の力を藉らないものは無いのであり即ち又