講義名: 白話と文言
時期: 昭和17年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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 (三)然について
   たゞし然は専ら反●を掌るもので
    世無寧土然上海独寧  天下没有安静的地方却是上海一処安静
の如く可是却是を以て譯することができ文言では而または然而を用ひても好いわけである(勿論則はこの意味では用ひられない)。古くは然が以為然、然則のやうに順●を掌った例が多い。
 (四)乃について
  (イ)不幸●●乃顆粒無收也   ●相乃有鄙夫
の如きは意外の氣もちを示すもので句と句との中間にも用ひられ又主語を提起するにも用ひられるが後者はやはり那暁得大臣裏頭也有●●人とでも翻譯すべきもので文言としてつめた言ひかたである。前者は直に那暁得とか竟自とかで譯しかへることができる。
  (ロ)至於無可拒者乃往見之   志於仁仁乃至矣
前の乃は這才といへば好いので始とか而後とかの文言を用ひても好く特に

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後者は則、斯、始を以て代へることができ白話は就でも好い。
  (ハ)説明文に用ひて是または就是のばあひにあたるもの
     公君貴尊乃敬人之詞
 以上三つのばあひを通観するに乃を用ひる時は事がらが簡単に行かぬことを示しそのため一方は意外な意味となり一方は丁寧に説明することにもなるのであって古く「乃」にたいして「難詞也」といふ説明を下したことの妙趣を思はざるをえない。
(五)抑について
  (イ)人々祷神乞助神豈有●抑●人迷信之而以為霊乎
  (ロ)男未婚女未嫁平生之累未完者抑衆矣
のやうに(イ)は還是として二つのことを並べた疑問であり(ロ)は未完者といふ主語を提起した形式で却是ともいへ却還ともいへる。文言の●を以て代へても好い。
(六)但について
   出●無害但不●●非礼之地

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のやうに専ら不過、只是に相當する。もし上句に用ひられるばあひは只要とか只管とかの條件を示すこと云ふまでもない。但と同様に用ひられるものは第、顧などである。惟、独もよく似てゐるが只有といふ氣もちが近い。すべて制限を加へる文字である。
(七)況について
 一歩を進める時は況を用ひる(況且、況乎、況於)。
(八)尚、●について
 その外にといふ氣もち 還、●●にあたる。[brm]

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 支那語が厳重な意味で文言と白話とが區別されたのは所謂文言がその修飾の能力を発揮してからと云って好いと思ふ。然らば所謂文言が何時から修飾の能力を発揮したかと云へば文に四六の法が定まり詩に律詩の平仄式が完成してからと云ふことができる。文における四六の法は六朝において既に完成され文選の如きはその代表的な集録である。文選の昭明太子の序にも姫公之籍孔父之書などは日月とともにかゝり鬼神と●●ふものであるから之を切りとって文集にかへるわけにはいかず老荘之作管孟之●は立意が主であって能文を本としないからこれは省略する。又●父之美辞忠臣之●直諫夫之話辯士之端はそのまゝ一時にもてはやされそのことば●載に省いてゐるが書物によって事もちがひ文章も合はないから取らないし記事之史繋年之書などは是非――褒貶――異同を区別するもので文学とは●●その中の●や序は事は●●に出で義は翰●に●するから文學の中に收めるといふやうに編纂の主旨を述べてゐる処を見ればその重んずる所は内容よりも●采に在りその取るところは単よりも對になったことは明かである。事実當時の文学評論を見てもたとへば文心雕龍の麗辞篇に[br]

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造●●形、支体必復、神理為用、事不孤立、夫心生文辞、運裁百慮、高下相須、自然●對。
といって對句が天地自然の精神に発することにきめこんでゐる。從って単に言語には発してある主意を述べようとする白話と路を異にして歩まうとするものであること云ふまでもない。さりとて白話が當時全く存しなかったわけでは勿論なくいはゆる文学の論が盛んに行はれたのも所謂白話ではないにしても尋常應用の文飾が別に考へられたことを示すに外ならない。ことに文字に惠まれない社會に對しては更に白話に近い記録が存在し文選の任者●奏弥曹景宗の前半がまったく當時の判決文をそのまゝ載せてたとひ白話と云へないまでも筆の姿をそのまゝ残してゐるのはたしかに文選全●の異彩であって唐人が他の文については事細かに注釋をかへてゐながらこの文には一語として注をかへないのも面白い対極である。今その一節をあげると
去二月九日夜失車●夾杖●牽疑是整婢采音所偸、苟奴與郎逡往津陽門●●、遇見采音在津陽門賣車●●牽苟奴登時欲●●取逡

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語苟奴己爾不須復取……。
と云ふやうに全く口がきの体を存してゐるのは極めて面白いことである。[brm]
すべて六朝までの白話資料は最も多く史書に見えたとへば蜀志龐統傳に[br]
先生謂曰向者之論●誰為失統対曰君臣倶失先生大笑
といふ如く又は五行志に引かれた童謡とか皇后傳などに見ゆ。又婦人のことばなど豐富なものを舍●更に世説新語を見ればむかし陳寔が荀淑を訪ねた時貧乏でボーイを雇へないで長男の●方に車を御せしめ●●から季方に杖をもたせて後から從はせたが
  長文尚小載著●中
といひ又荀淑のがはでも子どもの叔●が門のとり●をし慈明が●のお給仕をしたが
  文若亦小、坐著膝前
とあって今日の著の字の使ひかたに通じてをり華韻陳元方の二軒のことをほめて
  二門之裏、而不失●過之軌焉

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と裏の字を内の意味に用ひ又陳遺といふものがその母が焦げ飯を好んだのでいつも焦げ飯を集めて母に送ったところある●賊が●●●たのでちゃうど貰ひあつめた焦げ飯をもって逃げた。おかげで生命を完うした話に[br]
  遺已聚歎得数斗焦飯
といふ如く今日の口語法の面影を見ることもできる。從って清代の學者でこの類の史料を●用した人も少くなく[br]
  銭大昕の恒言録  銭大昭の邇言  瞿灝の通俗論
  郝●行の晋宋書故  梁同書の直語補●
など有名な学者の専著もあり日知録 陔餘叢考 ●● 水曹清服録などの一部分にもさういふ記事が多い。更に経部について見ても最も面白いのは詩経の寤言不寐致言側●の鄭箋に今俗人●云人道我此古之遺語とあることで鄭玄の語録とも云ふべき鄭志が唐の五経正義に引かれて傳はってゐるのがその中にも俗語と覺しきものが認められる(不復……の如き)。[brm]

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 これにも増して六朝の俗語を含んでゐるのは唐の五経正義そのものであって元來唐の正義は六朝の義疏を整理したものであって六朝人が佛教の疏に傚って互に問荅したあひだに作られたのが今の正義の前身であり経典釋文の著者たる陸徳明の如きはさういふ問荅の尤も巧な人物と称せられてゐる。從て表面は文語で書かれながら往々にしてその中の口語がすかして見えるばあひが多くことに尚書正義においては呂刑の多火近於●宮也とか勿得軽耳断之とか二字づゝの句きりにて上字を重く下字を軽く今の白話文を讀むと同じ呼吸にて鮮かに切れるばあひが非常に多い。而かもこゝに云ふ多少とか又呂刑の将入五刑之辞更復簡練核実知其信有罪状典刑書正同則依刑書断之の将の如きものによって今日の語法の源を知ることもできる。最も尚書●●は毛詩に比べて樸素であり自然口語資料とするに適してゐるが毛詩正義はいはゆる辞又●●の嫌ひがあることを知らねばならない。[brm]
これとともに唐詩にふくまれる俗語も夥しいもので孟東野の詩に[br]
  面●口頭交 肚裏生荊棘

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とある。これについて邇言に寓園雑記を引いて大理少●の楊先生が南京にゐた時分貧乏で豕三●●ふのに●をしていつも太平門の外の後湖で●を●やった所が司法官の召し使ひと喧嘩した。そこで先生が詩を作った。[brm]
  太平門外後湖辺 不是君家祖上由 一點浮●容不得 如何肚裏好●船
とこれらは詩が俗語を用ふるに自由なことを示すものである。盧●鄰の有名な長安古意にも[br]
  生憎帳額●孤変、好取門●帖雙●
の様に俗語を取って美しき對語とし●中●人の状を横為してゐるのが却て生き生きしたさまを添えてゐるのも面白い。[brm]
 かういふ昔から廣く知られたものの外に近年燉煌で発掘された夥しい史料は白話の重大なるものを含むのみならず當時の民間に行はれた白話そのものが現れたことはまことに驚嘆すべきことで從來純白話の●●が宋以後の如く考へられたに反し唐にもこれに[wr]先だ

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つ[/wr]豐富な史料の存したことが確認された。特に変文の発見は興味の多いものでたとへば●子●孝変文の如き通俗のかたりものであって中には[br]
瞽叟打●子、感得百鳥自鳴、慈烏灑血不止、舜子是孝順之男、上界帝釋知委、化一老人、便往下界來至、方便與●、●如不打相似、舜即帰來書堂裏、先念論語孝經、後讀毛詩礼記。
といふやうな素朴な矛盾さへ平氣で示してゐる。元來変文は曼陀羅の繪ときであって目連救母変文の如き佛教説話がもとであったに違ひないが後には孟子に見えるやうな純支那の物語りをさへ変文として作りあげてゐる。[brm]
 況して宋以後のものはたとへば京本通傳小説の如く宋時代以來の小説家の態度を殆ど目に見えるやうに描寫したものもあり又元に発展した北曲などは白話を駆使してあれだけ人を驚かす文学を創作しさらに水滸伝金瓶梅から紅楼夢儒林外史のごとき長篇小説に至るまで白話こそは近世文学史において已に著しき收穫をあげてゐた。一方哲学的思索を必要とするいはゆる理学者の間でもその精密