講義名: 白話と文言
時期: 昭和17年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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の熟語としてゐるがその二つの間に存する結合の力はそれがたとひ反對であっても同種類のものであるといふところに存する。かやうに何かの紐帯が存在しさへすればそこに一つの熟語が成立するのであってその成立したものは或は聰明のやうに耳と目に限らず或は上下のやうに上と下だけに限らぬやうな意味までも発生して來る。かうした熟語の成立は即ち一面からは単音節の崩壊であり他の一面からはあくまで単音節が死守されてゐるとも云へることである。[brm]
 それのみならず支那語の熟語はかかる上下の二字が同じ力量を持つもののみでなくたとへば萬●とか五刑とか巧言とか令色とかのごとく上の字が下の字を修飾するものもあり更に知人とか安民とか有邦とか在●とか上の字では意味が足らずにその動かうとする心もちの落ちつき場所をその下の字で補ふといふばあひもありいろいろな形式になってゆく。しかるにかゝる文法的構成の同じくない熟語も支那の文章ではまったく同じ●●を以て組みたてられてゆく以上作者の書いた意思が果して●●に讀者まで通●かどうか心もとなさが免れない。現に●●の人たちはもとより相當な人までも支那の書物を誤讀することを免れないのは正にこゝにその原因が存する。又多くは極めて悠遠なる古典であって今日とその事情を異にしたとひその●●の人

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にはわかりやすかったことでも今日から見れば極めて知り難いこともあらうから少しでも古に近い人の注釋によってその手がかりを求めることはもとより必要なことである。これとともに注釋者自身の考も年代を経た今日では往々十分に知りがたいことを免れずいはゞ注釋者が書いておいたところはわかってもその他の都合がむしろ今日ではわかりやすいやうな實例がはなはだ多い。こゝにおいて更に活用すべきものは人としての論理の問題であり支那語の如く単に文字だけを無限に何萬字でも並べてその間に屈折らしき文法も示さず又句讀すら施さないものではまさしく常識が最も強い判断者となるのである。その常識とはいかなるものでありその常識を養成するにはどうすれば好いか。[brm]
 その所謂常識については二様の方向が考へられる。その一つは古代については古代の●實を知ること現代については現代の●實を知ることで●實を無視した常識といふことは考へられない。しかしかゝる●實についての常識を豐にするについては書物をたしかに且つ速く読むことが何より必要になってくる。そこで第二の方向としては語學としての訓練であってたとへばこの漢字には大体幾とほりの意味があるかといふことも知らねばならず又二つ以上の漢字が並んで用ひられたばあひにその間の

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連繋は如何にして組成され如何にして解きほぐされるかといふ一種のこつ(、、)を知らねばならぬ。このばあひにおける一つのこつ(、、)は支那語が多く對偶を用ひる習慣があることに注目することでたとへば孟子の仁人之安宅也義人之●●也 離婁 といふ如き句は一句だけならば仁人義人といふ読みかたを絶對に否認することはできないがもしこの二つがかやうに對句として書かれたものであるとすると必ず仁、義で逗となること疑ない。同じ様な例で君子之徳風小人之徳草といふばあひもある。昨年の支那文学概論の試験において焦循の易●●● 木●軒本 の一節を出題したがその中[br]
  易樸為雕、化奇作偶[br]
といふ二句だけならば誤を生じなかったであらう人たちまでその下に[br]
  然晋宋以前未知有聲韻也[br]
とある然の字に禍されて偶然とよみ全体の組織をすっかりぶちこはされたのもあくまで對句に注意することを忘れた結果に外ならない。[brm]
 かゝる熟語を作るについて今一つ重要な問題はこちらの要素たるべき漢字相互の音調の

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関係であってかゝる問題について特に興味あることは王國維氏の聯編字譜三巻である。この書は海甯正忠●公遺書二集に収められてゐるだけのもので●●もないがその上巻は雙聲之部と題しその中をさしに三十六字母によって分類したとへば●●ならば尚書の●々●々毛詩の俣々敖々、論語の●々闓々など重文のばあひの外易の劓刖、臲●、書の杌隍、周礼の危●、沂鄂、淮南子の垠鄂、説文の●岸、荘子の敖倪、淮南子の●●などをあげてゐる。その中巻は畳韻の部として古音二十一部によってたとへば陽部ならば易の蒼茛、書の滄浪、張皇、詩の倉庚、●●の商庚、方言の●●などを列挙し最後の巻は非雙聲畳韻之字となってゐる。王先生自身の企図がどこにあったかは今より問ふべくもないが支那の熟語における音韻の調和を窺うには極めて恰巧な研究であり更にこれを通じて支那の言語組織における音韻関係の重要性を知ることができる。[brm]
 特に本講義として考ふべきことはかゝる熟語化の種々相が文言白話において如何なる意義を持つかと云ふことである。抑熟語の成立から云へば普通その意義の明白と語調の諧和といふことが感ぜられたのであるがその意義の明白といふ点はまさしく胡適の説ける如く白話における特点で

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あり同時に語調の諧和を求めることは文飾に進む重要な●●●●●●●●●●●●特質となるものである。それ故支那語における單音複音の関係はひとり文言白話のどちらかが負擔する事ではなくしてその両者ともに負ってゐるといふことは即ち支那語における総括的特質としてその單音語たることに本づくものといって誤ないと信ずる。その點についてはさきにもあげた郭紹虞氏の論文は特に文物方面のことを説き湯浅先生の著述は明白の方面を説き両方相まって近年の好著として●士の閲読を望むものである。


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支那語が単音節であり屈折を持たないことはむしろ反對に複音節語を作りやすい條件になってゐる。これはちゃうど同じ大きさの煉瓦からできる建築の様式がシムメトリカルになるやうなものである。支那語は文言と白話とを問はず明白にして文飾ならんことを求めてゐることは先に述べたがその中特に明白を求める傾向は白話では音聲言語として識別しやすい方向をえらび文言では一つの文字の有する多数の意義についてある指定を加へる方向を取った。して見れば明白といふことはひとり白話のみの問題ではなく文言においても十分考へられることである。のみならずいやしくもある言語として明白を望まないといふのは何か特種の事由あってのことにすぎないこと云ふまでもない。[brm]
 しかし同じく明白をめざし同じく複音節の外観をとってゐても白話の明白と文言の明白とは自ら相違が存する。今これを詳説するに白話における明白さは正に言語を背景としたもので假にこれを●によって文字に表したとしても白話の明白さを表したものは必ず言語における律動を想起するものでなければならない。假に郭紹虞氏が新文藝運動的新途径において引用した老舎の黒白李の中の車夫王五のことばを孫びきすると[br]
我在李家四年零三十五天了!現在叫我很為難。二爺待我不錯;四爺呢,

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簡直是我的朋友。所以不好辦。四爺的事,不准我告訴二爺;二爺又是那麼儍好的人。論理説呢,我應當向着四爺。二爺是個好人,不錯;可究竟是個主人。多麼好的主人也還是個主人,不能肩膀齊為弟兄。他真待我不錯,比如説●,在這老熱天,我拉二爺出去,半道在他総説法上耽擱舍火,什麼買包洋火●,什麼看々書攤●,為什麼?為是叫我歇々,喘々氣。要不,怎●他是好人呢?他好,咱也得敬重他,這叫以好換好。久在街小混,還能不懂這個。[br]
といふことになりこれらの文字はまったく生粋の北京語の姿を如実に描寫するために選ばれたものであるが文字では●●●●●●●●新式標點といふものまでその姿をうつす助けとして十二分の活●をしてゐるのであって文語の名文のやうに大体四字で句が切れるといふやうなものとは性質がちがふ。郭氏も[br]
この生粋の北京語は実に面白いが標点●號をとり去れば句を切るのによほど苦労でありたとひやっと切れても北京語の歯切れの好さは失はれてしまふ[br]

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と評してゐるとほり北京語のいき(、、)の好さが目からと一所に耳からも飛び込んで來ないとこの面白味を逸してしまふに違ひない。つまりことばは單に真四角な煉瓦ではなくして極めて霊妙な音韻作用を縦横に駆使して成立するものである。勿論これはひとりことばとしてでなくて音韻作用を十分に徹底させればかの林嗣環の口技やうに夜の静けさ、子どもをねかす母、にはかに犬が吠え人が叫び、火災が起り、小どもがなく、家が倒れる物凄さがたゞ一つの咽喉と一本の拍板とで演出され又風の音をうつし鳥の聲を寫しあるひは戰場のさまをうつしあるひは月光の夜をうつすやうな霊妙な楽器のはたらきも根本的に音楽としての一路においてことばと相通ずるものがあるからである。[brm]
 白話における明白さは単に複音節のみに負うのではなくて文言には認められない文法的複雑性に負う所が多い。これを文法的複雑性といふのは厳重な意味での文法によらずたゞその場その場の分別性を示してゐるからである。たとへば前にあげた王五のことばについても四年三十五天といふことも何等さしつかへはないのであるがもし零の一字を四年の下にはさむときは読む人に「はし」のあることを豫想させるのみならず普通人なら四年了とか四年多了とか云ふべきところを細かく

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はしたまで計算し出すといふ王五の性格ひいてはかういふ文字も碌に知らない階級が案外数について強い観念を持ってゐるなといふことが下の三十五天が出て來るまでほんの一瞬間にも足らぬ間にまことにほゝえましく胸にひゞくのである。又什麼買包洋火●のばあひでも買の下に現はれる包の一字で何かと一包になったものを買ふのだといふ光景がうつり次の什麼看々書攤●の看々でブラリと立ち見をする光景がうつる。又逆にこれは郭氏も指摘してゐるとほり二爺是個好人,不錯をば二爺是個好人固是不錯といひ叫我歇々喘々氣を叫我歇々可以喘々氣といひ要不を要是不然といへば意味の明白を求めてことばの神氣を失ふものでこれらは消極的に音節を半減することによって文法をはなれた語気●●からず加へるのが文法的複雑性であるならば減ずることも文法的複雑性と云へる。ちゃうど詩から発生して複雑な音楽的效果をねらった詞においてもとの詞の末尾の調子を示すやうなものである。而かもその二つの作用が常に複音節との調和の上に立脚してゐることは興味ある事実であって什麼―買包―洋火●,什麼―看々―

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書攤●の如き元來の對●はいふまでもなく二爺―是個―好人,不錯;可―究竟―是個―主人とか要不,怎●―他是―好人呢などの組織を見る時その基調が如何なる線におかれてゐるかを知ることができることに二爺是個好人といった口のあとから他是好人といって個を省いてゐることは勿論文法上の制約にのみよるものでなく一つの美しきメロディーに左右されその自然に流れるまゝに動いてゆくさまを思はねばならない。これらの観かたは如何にも小さい所に拘泥してゐるやうであるが文學が言語の最大限に美しき組みあはせであることを顧みるときこれらを無視することが文學の錯覚にたいし如何に致命的であるかを知ることができよう。[brm]
 次に文言における明白さは如何かと云へばこれは多く文字に依存してゐる関係から文字の持つ普遍的概念をその場その場における最も適切なる範圍に限定することに向けられる。いはゞ白話における明白さが言語の律動を想起すると同様に文言では文字の持ち味を大切に●めなければならないのである。しかるに支那の文字はその特種な性格の下に古代から今までほとんど同じ形を以て伝えられその間に元來の概念が幾たびか伸長され幾たびか[wr]歪曲さ