講義名: 白話と文言
時期: 昭和17年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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な思索の過程をそのまゝに傳へようとして語録語類のたぐゐが多く作られこれよりさき佛教徒の語類の形式により遠くは論語の流れを引いた思想表現の工具として一時に盛に行はれた。それ故これらの史料から當時の白話を考へることはたとひ十二分に白話そのものを描寫してゐないまでもおよその輪廓をさとることには差支ない。まして當時の白話に現れたる語句やその語法などについては豐富すぎる程豐富な資料があり今は以後の研究に待つ所多大である。[brm]
 學にこれらの夥しき白話に盛られた文學なり思索なりは長い支那の伝統から見て必ずしも正しき價値判断を與へられることはなかった。これらは白話であるといふ形式であるがために一般に強い伝播力を持ちながら又白話といふ形式であるがためにこれを讃美することが許されなかった。これは一面において子弟教育のために必要な方法であったに相違なく文言による教養の減退から生ずる弊害も慮る以上にはたとひその真價を知る人でも●●大っぴらに之を子弟に勧めることはできなかったであらう。清朝の初年に出た金聖歎といふ人は支那の文學の中から才子書といふものを選び出して 一、荘子 二、離騒 三、史記 

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四、杜律 に加へて第五才子として水滸、第六才子として西廂をあげてゐることは當時の文學論としてはまさに破天荒であるとともに実は人々が云はんとして而かも躊躇してゐたことを率先して●快に道破したわけでもあった。もしその説をそのまゝ用ひるとせば支那の文學中宋元明以後において指を屈すべきものは全く白話文學であったことがわかる。
しかし一面において清朝の文壇の表面張力を持つ所の桐城古文派の説を見るに元來桐城派とは方苞 劉大櫆 ●●の三古文家がひきつゞき桐城から出たからその●ができたのであるがその開山たる方●●先生のことを書いた沈廷芳の方●●先生傳書●の中に方苞の語として[br]
南宋元明以來古文義法久不講呉越百遺老尤放恣或雑小説家或治翰林舊体、無一雅潔者古文中不可入語録中語魏晋六朝人藻●●俳語撲賎中板重字法詩歌中雋語有北史●巧語
といってあくまで穏健中正を旨としてゐるが桐城派の祖述する所は唐では韓柳の二家宋では欧陽三蘇といふやうな人々である。今こゝに興味のあることは舊唐書の史思所傳に[br]

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思●賢変踰牆出至馬榜●馬騎之説●至令●人周子俊舟中其臂落馬曰是何●●等告以壞王思●曰我朝來語錯今有此事然汝殺我大疚何不待我收長安終事不成矣因急呼懷王者三曰莫殺我却●曹将軍曰這胡誤我這胡誤我
との一段が新唐書では硃●の如く●明してゐるが中でも我朝來語錯を旦日失言と改め這胡誤我這胡誤我をたゞ胡誤我の三字に改めたるが如きは口語の趣を減殺することはなはだしく自然雅馴を主とした筆致を思はしめる。この新唐書の編纂にあづかって力のあった人物は即ち先の桐城派の推尊する欧陽脩であると云ふことが極めて興味ある事実であって文学においては才情よりも品格を重しとしたその主張の淵源すこぶる長いことを知るべきである。それ故方苞の如きもその点に批難があって[br]
  一代詞宗才力● ●●文章●●詩
といふことばさへできた位である。この点は今の文言体の文を作るばあいにも常に感ずる所で

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あって假に自分の経験を以て云ふも曾て東洋文庫に●する元徳鈔本の尚書の跋を作った時清原良●といふ人が[br]
  應●年祝●●常宗住浄居庵
と書いた所が住を●と直された。その話を●●先生に申し上げた所手を拍ってそれだそれだと連呼されたことがある。これといふのも文においては一字でも白話から遠ざかるといふことを尊ぶ習慣によるのであってかの舊唐書の●牆出玉馬槽の牆を垣と改めたのもまさにその呼吸のわからぬ人には古人の一字と雖もその味を領●せしめがたいと思ふ。[brm]
 しかるにかくの如く表現において口語に遠ざかることを努めた文學は同時に思想においても近代的感覺に遠ざかることは已むをえないことで而かも時代と共に人の心理が近代化を要求されることは支那とてもその例外たることは許されない。かくしてできた溝は白話小説の●●によって一つのはけ口を求めてゐたので近世の支那において多数の讀者層を獲得したものはやはり三國水滸紅楼のたぐいで三國は文言体といへるには云へるが口語を文言に塗りかへた程度にすぎない。そして詩文を作ることに學業として憂き身をやつしていた。[brm]

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 こゝに一つの大きな矛盾をはらんでゐたことは民國六年の文學革命によって端なくも暴露された。尤も當時の闘士たちの中にはその言論が必要以上に矯激であったため文言文學が一層不必要に軽侮された時もあったしかゝる雷同的なことばを弄する人たちの議論にはいはれなき浅薄さが感ぜられた。それ故鄭氏も云ふやうに今にして考へれば文學革命が相當に成功した以上は今なほ當時の陳言を●ひ故●を学ぶべきでないこと明かで同じ言論でももし陳独秀 胡適 周樹人 周作人 銭玄同 劉半農などの口から出たのは尤もだが今の人から出るとなると頭をかしげる餘地があるわけである。[brm]

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