講義名: 白話と文言
時期: 昭和17年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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できたといふ考へかたを加へると支那語は単音節ごから複音節語に進化してゐるといふ考が導かれる。(これを以て進化と考へるのは西洋人の色めがねで歐洲語とあまりに違ふ特色をもつ支那語の中でたまたま歐洲語に近い現象を見出すとこれを進化と称する。まことに●しがたい人種ではある。たとひさういふことがあっても精々が変化といふにすぎない。)いかにも文言と白話との間における夥しい実例から云へば歴史的経過はいざ知らず現在の支那語に音節的差違ありと認めることはできるがこれとても單音節と複音節との相違と断定することは如何であらうか。つまり●子や房子や●●はいふまでもなく看見聽見にしても硯台にしてもみな二音節であるが必ず重点が第一音節にあって第二音節はたゞ軽く附属してゐるにすぎない。こゝに白話の二音節語の特色が存在する。さらに実例を加へるならば眼睛、耳朶、舌頭、嘴巴、衣裳、身●、地方、味道、知道など枚挙に暇ないほどである。しかもそれらは眼ならばこそ睛を附加し耳ならばこそ朶を、舌ならばこそ頭を、嘴ならばこそ巴をといふ如くそれぞれその特異な附加詞を伴ふところは西洋語の画一的なものと違ふところで東洋的精神といふものはかゝる末梢的なところまで●●してゐる。さてかゝる附加的音節を伴ふ

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ばあひは厳重なる意味にて一音節といふことはできないこと固よりであるが同時にこれを完全なる二音節語とするわけにもゆかない。(たとへば圖畫とか関係とか重要とか火車とか電車とかは勿論二音節で一つの概念を示すものであるがこれは元來文言として成立したものかあるひは一音節づゝの概念を二つ結びつけて一概念としたにすぎない。いやしくも純白話の性質をもつものは外来語などの特殊な例をのぞいてはすべて前にのべた例にあてはまるのみならずたとひ文言から発生したことば「太陽」のごときものでもこれを口語として頻繁に使用するにつれ何からかういふことばが発生したといふやうな考をすてゝ一つの詞と考へる以上自然に第一音節を重く讀むこと月亮星々と同じく更に●頭と同じものにさへなって來るのは興味ある現象ではないか。)[brm]
 しかるに物は考へようであって(同じ)西洋人の出でもドイツの●●●●●●氏の如きは(まったく逆なことを考へる。その考へかたは)世界の言語は実用●の摩擦に●●●複雑から簡単へと流れるまで西洋語の如き複雑なものはむしろ原始的であり支那語の如く単純なものは最も進歩したものであると考へる。これは同じ西洋語でもドイツ語の性や格の変化、フランス語の

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動詞の変化に悩まされたものにはイギリス語はずっと簡単に見える。その簡単さが支那語と一脈通ずると考へるのである。何となれば世界の言語がいやしくも相當複雑な程方に達してゐるかぎりその難易は大体非常な差を認めがたくつまり一面に困難な點があるとともに一面には容易な點を持つのが常である。西洋語における如き文法の複雑性は支那にはまったく認めがたくいはゞ世界における最も簡易なる語法といふも過言ではない。しかるに支那における文字の発達は西洋人として云はしむれば実に「恐るべき」ものであってその数限りもない夥しい文字には手も足も出ないといふ感じをおこす。その實西洋語をよむ時もearlyとかmorningとか云ふ文字を讀むのに決して綴りの練習をするやうにe-a-r-l-yとかm-o-r-n-i-n-gとか讀むのではなくてそれだけのアルファベットの配列が一つの図案の如く一つの概念の代表者として目の中にとびこむのである。その點は漢字を讀むのとさして変りがあるわけではないがたゞ漢字はその構成要素が複雑であり西洋語は常に一定の少数のアルファベットに分解されるといふだけでその代り複雑な漢字を記憶した人はその熟練によって

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概念を一目で讀みとることに手間どらず自然豐富な内容を短い時間に理解できるといふ強みがある。(して見ると西洋語と支那語との間には最初から根本的な異同が存するとしか思へない。即ち西洋語の文字は大まかに考へて口語的要素に重点をもち支那語の文字は文語的要素に重点をおいてあるといふことである。)[brm]
 元來人間の言語はその一●古に遡って原始語にまで達すればどの國の言語といへども極めて簡単なものであるべきで音節も恐らく一音節が基本でありさらに語法のごときも極めて単純であったと推察される。しかるにかゝる単純なる言語が世の進歩につれて種々繁瑣な内容を與へられその一つ一つを區別して表現する必要が熾烈になればいきほい屈折作用も起るであらうし又一音節では概念が盛りきれなくなったばあひには複音節といふ形式も発達しやう。もしも一音節をすてきれないとすればその音節に殺到する概念を何らかの方法で識別しようとするであらう。支那語のばあひにおいては第三の方法がとられたに相違ない。その方法といふのはあるひはアクセントを利用することであって支那の四聲の発達がそれであった。一つの発音に同じアクセントの様式が数種類――長短上下乃至高温低音などの如き音楽的分別の方法が[wr]行はれた

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のも[/wr]正しく支那人の一つの発明といはねばならずそれは単に意味の分別に成功したばかりではなくその言語の韻律を叶はしめる上に非常な貢献をなした。又他の方法はさきに述べたやうな一音節語に附帯的な音節を添加することである。[br]
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こゝで一つ忘れてならないことはすでに言語を寫すための文字が存在してゐる以上
言語の発達●文字と切りはなし得ないことであってその点から支那の言語の特性も考へ白話と文言との差違も●●れることでもある。先に揚げたやうな白話の二字から成る詞はいづれも日常口頭の語であるがその口頭の語がまったく文字と切りはなして作られたものであるかは相當疑はしい。たとへば眼睛といふことばといひ耳朶といふことばといひ●●●とか●●●とか云ふ音はたとひ附加的なものであるにしても●●●は眼を離れて存在しがたく●●●は耳を離れて存在しがたいのみならず●●●は睛の文字を離れ●●●は朶の文字は捨てることはできないとも云へる。(むしろ眼睛といふ言語や文字の組織ができて●●●●●といふことばになり耳朶と組みあはせができて●●●●といふことばになったものと思ふ。)現に廣東語の如く音韻組織のやゝ複雑なものではたゞ眼といひ耳といふさへすれば通ずる。つまりある單音節で了解できるかぎり純単音節を用ひるのであるがたまたまその周圍の言語と
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 しかるに少なくとも二字――二音節による詞の発達は白話にのみ限るものでなくして今日常に使用される文語の熟語たとへば[br]
  宣言 ●● 収穫 ●● ●● 零落 印章[br]
とかくの如きものも二字のみならずこれは完全な二音節語になってゐる。これはいはゞ支那語の母音にも単母音と韻母音とあるやうに単音の詞と複音の詞といふことになるのでその発達は文字の方面から云って●●に値するものであるが支那語の単音節といふ原則にたいしては矛盾を生ずるものでなくむしろ単音節なればこそその必要が増して数を捕へるといふ方向に進むのであって白話の□+□とは違って白話の□□となることと●●●せねばならない。●に

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の混雑が豫想されるに●って新しい構図のもとに分別しやすい形を取りはじめる。このばあひに文字言語の助けを蒙るといふことはまことに面白いことである。つまり支那の文字は目で見るばかりでなく耳で聞くものでもある。――これは一見奇矯な説明の如くであるが支那の言語がかくも単純であることが文字の発達を促してゐる以上その單純さをいさゝかでも複雑にしようといふ●●文字言語も音聲言語も同様であって互に手をとって進むべき一條の大道に外ならないからである。――こゝにおいてわれわれが想像し得る単音節→単音節的への大道の発展はまったく文言と白話との協力になるものであるといふことを宣言してよいと思ふ。しかるに最初にも云ってをいた如く文言は目で見るものであり白話は耳できくものである。白話の筆に記されたものは別として全く発音だけを取って考へるときそれを発音記號で描寫するとせば必ず詞類連書すなわち分かち書きといふ方法を考へねばならない。これは発音を耳から聞けばその抑揚の呼吸によって自然の分かき●きになることを少しでも保存してゐるものである。しかし文言の方は目に訴へて了解するものであってたとひ音だけは同じでもその意味の違ふものは一つ一つ別の形式を考へてあるため詞類連書はもとより句讀さへも最近までは[wr]考へら

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れずに[/wr]何千年をすごしたと云っても好い。序ながら支那の書物で句讀を切って刊行したものの初めは宋の岳●の刻した相●五●などであらう。そのごも往々にして句讀を加へた書物はあるが多くは童蒙のためのものであった。ひとり学問的な意味において句讀の必要を論じその著書に句讀を施したのは高郵王氏父子であってその経義述聞の句讀などはたとひ童蒙のためでなくともはなはだ人に益を與へてある。段玉裁の説文解字注も第六篇上だけは句讀を施してあるがこの巻は阮元の子どもの阮●生の校正となってゐて●●は高郵校正となってゐて●●學の系統をこヽに見出すことができるかも知れない。これは支那で何故にパンクチェエーションが発達しなかったといふ興味ある問題にたいする一つの●として附加したことで●がかくの如く文言と白話は一見はなはだしく相違するやうに見えるけれども一面においては共通的な性質を持つことを忘れてはならない。それは元來は同じ單音語でありしおこれを明確ならしめむためには常に單より複へと動かうとする傾向までがまったく同一であることである。これを郭紹虞氏などは中國語詞之弥性作用●●●かつてこの表題をもって燕京学報に興味ある論文をのせ又最近「語文通論」といふ著述の巻頭にも掲げてある。もっとも郭氏のいふことは[brm]

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語言と文字との間の食ひちがひにより後からできた複音の語詞と共に原始的の單音語詞も保存され意味が同じでありながらことばに單複の差を生じこれが修辞上ことに音節の表面からいろいろ選擇の必要も生じ結局支那語の弥性作用が特に文字作品に顕著に現はれる[brm]
と論じてゐるので特に文字作品の問題は別に述べるとして先づ語言と文字との関係についてこの説を批判してみると語言と文字とが傾向的に見て単複の差があることは明かであるがその所謂單複の差は語言自身の中でも認められ文字自身の中でも認められ又語言と文字との交流においても認められるのである。郭氏の説は文學の問題をとりあつかふことに目的を集中してあるため他に及ぶ暇がなかったことと思ふ。(今語言自身の中について言へば筆といふ一音節は●●的に見て毛筆のことである。あるひは鉛筆や鋼筆粉筆などをふくむこともできやうが単に「筆」といふときは「毛筆」と同じ意味である。これは筆にいろいろの種類ができてからのことばと原始的なことばとの●である。ことに面白いのは「帽子」といふときは子を添へて一種の二音節化を見るのであるがもし「草帽」といへば「帽」[wr]だけ

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で[/wr]「帽子」の意味を持つことになる。)文字でもこの現象は一層明瞭であって單ともいへば●單といへるし複ともいへば複雑ともいへる。文といひ文章といひ言といひ語言といひする例は枚挙に暇ないほどである。而してその最も興味あることは文言と白話とが協力するばあひであって前にあげた眼睛の如き元來は単に眼といふだけのものでなくて「ひとみ」を●●たことば――あるひは特に「ひとみ」を言ふことであったであらうし耳朶の如きも耳だけでなくして特に「みゝたぶ」をいふことばであったであらうが眼と眼睛とが互に普遍性をもち耳と耳朶とが互に共通性を持つといふ事実は逆に両者を全く同一にとりあつかふのみならず両者の間に文言と白話との差を生じたのである。おそらく最初は文言も白話もともに眼であり耳であり別に「ひとみ」の時はいづれも眼睛であったし「みゝたぶ」の時はいづれも耳朶であったかも知れない。しかるにいつしか口語として二音節語を要求するに至り眼睛の睛を軽くし耳朶の朶を軽くして眼耳の代りにあてたのであってたとへば「ひとみ」といふ時には今ではまったく別のことば――瞳人兒――ができてゐるのも言語の変化移動を見るに興味のある点といはねばならない。この現象はつまりある文白混沌たるものの中から一つの分化が生じたことを説明する資料であってかなり原始語に[wr]たいす

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る[/wr]推定を要することであるが初めに述べたやうに日常の談話の中に豈有此理のごとき純文語が何の●●なしに使用されたり口語の語法を持った小説や小品文が筆にかゝれて一種の文語となるやうな現象が今日でも屡認められることは文白の差違を見るとともにその交流を見るべき一面の資料であってわれわれの周圍にあるかゝる現象を検討することは同時に支那語の本質を探究し文言白話の分岐する事情を推測するに極めて必要なことでなければならない。[brm]
 なほ一言注意したいことは古代に文言白話があり現代にも文言白話があることで現代語の白話と古代語の白話とはすでに古代語の資料が●●れてゐる以上これを詳細にしらべることもできないが一方現代の文言と古代の文言とは相當に比較できる資料がある。元來文言は目で見ることを中心とするものであるから視覺的約束を示す●からの相應の固定性を許される。たとひ語彙や語法に若干の異同があっても文字そのものが重大な変化を蒙らない以上その間の連絡はかなりつけられるのであって文言とくに漢字を以て書きあらはされた文言に不変化性が強いことは疑ひない。さりとて現代の文言は現代の環境において記載されたものでその時代に