講義名: 支那学概論
時期: 昭和15年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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牢騒を発するものである。哀しみや楽しみによって歌詠することは人情の自然でもあり[br]
人々の娯楽慰安の一面を持つべきものに他ならない。[br][brm]
漢志では更に兵家を特立して兵書略として権謀、形埶(勢)、陰陽、技巧に分ち特に専[br]
門家を聘して整理を行ひ又術数略として天文、暦譜、五行、蓍亀、雑占、形[br]
法の六種に分ち又方技略として医経、経方、房中、神僊の四種に分ち□専[br]
門家に委任して編輯せしめてゐるところを見ると、これらの三略は普通の読書人は一々[br]
通ずることのできない専門的訓練が必要であったことがわかる。今はその詳を語る略が[br]
ないがこれらに於ても兵家は古の司馬の職に出でて王官の武備であると云ひ術数に於て[br]
は明堂羲和史卜の職であると云ひ方技は然るべき職をあげないが生々の具で王官の[br]
一等であると云ひ、やはり古の官職より流れたものであると考へたのは正しい意味に於て[br]
その源流を的中することがなくともそこに支那の社会の必要から生れた制度乃至官[br]
職と云ふものが百般の学術の起原であるといふことが窺はれそれが伝へられてそれぞれの[br]
学派をなしてはゐるもののその綜合的な必要は支那の制度支那の社会が生み出してゐ[br]

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ることを想ふときこの拘泥したと見える議論の中にも津々として味ふべきものを見出すのである。[br]
これと同時に別に支那学を総括したものは司馬遷の史記であって太史公の自序にも六経異[br]
伝に協ひ百家雑語を整斉して十二本紀十表八書三十世家七十列伝およそ百三十篇五十二[br]
萬六千五百字の大著を成し上は黄帝から下は太初までのことを総録したわけで亦一[br]
種の国故整理といふことができるがもとより簿録ではなくして叙述であるから六経百家の[br]
説を収録するのはなくして一種の社会変遷史としての必要な記事だけを集めて之を編[br]
纂したものである。つまり一定の角度より見て書物並に学問の総決算を加へたものである。従[br]
って漢志の如く各の角度より見たるものとは一応の趣を異にするものである。その十二本紀はすな[br]
はち春秋の例にならふものと云ふことができるが特に十表八書の如きは破天荒の著述といふ[br]
べく学術の問題として興味を惹くのは八書の分類であって礼書、楽書、律書、歴書、天官書、封禅書、[br]
河渠書、平準書は少くとも当時の社会が要求したる学問であって礼と[br]
は時代の変化に応じて損益を加へるもので政治の指導方針を示すものであり楽は□□□による[br]
人心の慰安娯楽を□するものであり律は軍事の強化を考へるものであり暦はもとより暦術[br]

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を示し封禅天官書は天文から迷信にわたり封禅書は祭祀から宗教にわたり河渠書は[br]
治水から農耕にわたり封禅書平準書は経済より商業にわたって社会の各般必須の学問にわ[br]
たりその概論を試みんとしたもので遺憾ながら古くから欠けて伝はらぬ部分もあるが[br]
ともかくこの分類法はたしかにその頭脳に浮んだ社会の断層を示すものとして極めて面[br]
白くかの列伝の中に朝臣たちの外特に扁鵲倉公列伝をたてて医学を表出したり[br]
司馬相如列伝にあの長い賦をのせて詩賦家を出したり循吏列伝に[br]
政治の□澤を示し儒林列伝に経学の興隆を示し酷吏列伝に刻薄なる政治を[br]
出し遊侠列伝に官に代りて民を服せしめたる任侠者を表し滑稽列伝に俳優を[br]
出し日者亀策に卜筮を出し貨殖に□□□の社会を描いた如き時代の特色を[br]
抑へた手法と相待って不朽の名を残し名山に□するの意を万世に完うした[br]
わけであるがそれは漢書に至っても同様にうけつがれ、ただ史記は太古より今日まで[br]
のことを通史としてまとめあげたるに反し班固は前漢の一代に限ったところの断代史の祖[br]
本となったが漢書では書と称せずして志と称し律暦、礼楽、刑法、食貨、[wr]郊[br]

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祀[/wr]、天文、五行、地理、溝洫、芸文の十種に分編してあるが、その中史記になくして[br]
特に漢書において著明なものはすなはち芸文志である。そしてその芸文志の時はもとより史記が[br]
すでに作られてゐるのであるから史記は当然その中に著録されるわけであるが、どこに収められ[br]
たかと云へば実に六藝略の春秋に附載して太史公百三十篇〔十篇有録無書〕と云ふにすぎない。実は[br]
司馬遷自身も春秋は道義によって乱世をおさめて正に反するもので万物の散集はすべて[br]
春秋に在るといふことばを引き自分は六経についで故事を述べるにすぎないと称してゐるが[br]
そこに存するものはやはり六芸略の春秋類に附戴されることの誤りでないことを想はしめ[br]
るものがある。[br][brm]
しかるに史記のかかる破天荒な史学は忽ち漢書以下の多くの祖述者を出しその篇[br]
巻の尨大なるのを相須って次第にその一類の書物が膨張したことは漢志に見ゆる。六略の[br]
分類において改正を加へざるを得ない日が来たのである。魏が天下を定めたとき丁度後漢[br]
の末の大乱で宮中の書物はすべて軍人たちに奪はれて帛は嚢に作りかへられ王允がわづ[br]
かに収めて西に運んだ七十余□の書物も途中でのこらず散亡してしまった有様であったので[br]

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あらためて遺書を蒐め秘書郎鄭黙が之を整理して中経を作ったといふがその分類法ははっ[br]
きり分からない。ついで晋の荀勗が中経新簿を作りたしかに四部に分類してゐる。尤も隋志に[br]
よれば荀勗は中経に因ったといふことであるから鄭黙の中経が四部に分った始めであるかも[br]
知れない。その四部とは甲部(六芸小学)乙(古諸子家近世子家兵書兵家術類)[br]
丙部(史記舊事皇覧簿雑事)丁部(詩賦圖讃汲冢書)となってゐる。甲部は漢[br]
志の六芸略にあたり乙部の古諸子家乃至近世子家は諸子略にあたり兵書兵家は兵[br]
書略で術類は多分数術と方伎とを兼ねたものであらう。史記に至ってはもとより史書の総[br]
名であり舊事は故事掌故の書であり皇覧簿雑事などは後世の類書に相当する[br]
であらう。丁部は大体詩賦略であるが附録の意味で最後に圖讃や汲冢書まで加へ[br]
てあるのは恰もこの頃汲郡の冢中から古文竹書が発掘されたのでその整理中は最後の[br]
丁部に附録されたに相違ない。その後西晋の末永嘉の大乱にて国都陥り一物をあまさな[br]
かったので東晋になって李充が重ねて書物を整理して四部に分類したと称せられてゐる〔本伝〕。[br]
しかるに文選〔四六〕注に引かれた臧榮緒晋書には五経が甲部で史記が乙部で諸子が丙部[br]

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七録序に見ゆ

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で詩賦が丁部であると云ふから乙と丙とが顛倒したわけであるが何故にこうなったかはわか[br]
らない。しかしそれから以後少くとも四部の順序は確定しことに隋書経籍志に採用されてから[br]
と云ふものは永久変らぬ制度となった。もっとも宋の王儉の今書七志七十巻では経典[br]
志、諸子志、文翰志、軍書志、陰陽志、術芸志、圖譜志の七略に近い分類が[br]
行はれたが、王儉その人も別に宋元徽元年四部書目録四巻を上ってもゐるから、七種[br]
と四種と両様の方法が一人においてさへ交錯して使用されたわけである。圖譜志といふもの[br]
は後に趙宋の鄭樵が通志において激賞を加へてゐるがつまりかういふものは置き場所[br]
に困るほどの特大のものであらうから空に分類するのでなくして実際の書物の取扱ひを[br]
考へれば了解できるわけで或は荀勗の丁部の図讃といふのも図譜のあやまりかも[br]
知れない。今一つは梁の普通年間に処士阮孝緒の七録も七部に分ったもので経典録、記[br]
伝録、子兵録、文集録、技術録、佛録、道録となって数だけはたしかに七つであるが実[br]
は四部の順序であり技術録を加へたのは近く梁の天監六年四部書目録または文徳殿四[br]
部目録と並んで当時の天文暦数の専家たる祖暅々の術数の目録があったと云ふから正[br]

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しく先例があるわけであり仏道が別になってゐるのはかの王儉の七志でも七志の外に仏道を付見[br]
したのを中へとりこんだと云ふだけのことにすぎない。[br][brm]
北朝ではもとより南朝だけの書籍の蒐集もなく見るべき目録もなかったわけであるが隋が起ってから[br]
書籍をあつめ開皇九年には陳を亡ぼしてその書籍をも収め之を整理して重複を除き正御本三[br]
万七千余巻を抄して洛陽の修文殿に納れたかの隋大業正御書目録とはこの時の書目であり[br]
その正御書の装□は善美を極め新に観文殿の前に東西廂の書宝十四間を設け東廂に[br]
は甲乙の二部、西廂には丙丁の二部を藏し人の目を驚かす程豪華を極めたと云ふ。唐に至って[br]
又もや戦乱の為に多くの書物が失はれ唐初に隋書経籍志が編纂されたときは隋の時に[br]
できた目録を基準として編成したもので四部に分ち(一)六芸経緯、(二)史之所記(三)諸子(四)集[br]
とし経史子集の称も確定し道仏を附見としたのは七志の先例によった隋志の注にたとへば[br]
古文尚書音一巻の下に徐邈撰梁有尚書昔五巻孔安国鄭玄李軌徐邈等撰とあ[br]
る。梁とは即ち阮孝緒七録とを対称したものである。尤も漢書芸文志に於て班固がたと[br]
へば凡小学十家三十五篇〔入楊雄杜林二家二篇〕と云ふ様に注したのは七略に対して増補したことを明記[br]

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したもので即ち隋志の注の先河をなすものであるとは四庫提要に見える説である〔出入省加の法〕。[br][brm]
今日まで一般に漢籍分類の基準とされてゐる四部の制は正に隋志に至って確立したのであるが改[br]
めて漢志との関係を詳しく考へると最も異同の少ないものは経部であって漢志の九つに分け[br]
たのが隋志では十に分れ即ち小学の前に緯書を加へてあるのは緯書の起ったのは漢の[br]
哀平の間であると称せられる如く緯書が盛に行はれたのは光武帝が図讖によって[br]
起ったといふ様な関係もあって後漢以後非常に盛となり特に禁絶をうけたがともかく一つの[br]
学派をなしたことを物語るものであり分類としては同じであるが漢志では論語が先き[br]
で孝経が後で経の総論とか爾雅の如きは孝経の附庸であったのが隋志では孝経が[br]
先で論語が後にまはり五経総義が之に附庸となってゐるのは孝経の地位が内容的に向上し[br]
て家毎に一本を藏せしめると云ふ様な風気が蘊まれてゐた為か或は経と云ふ外形的な[br]
名称によって六経の後に接続したかは明でない。[br][brm]
次に最も異同の多いのは史部であって漢志の時には全然ないものが忽然として現はれてゐる[br]
のみならず書籍の部類から云っても経が六百二十七部五千三百七十一巻たるに比して史は[br]

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八百一十七部一万三千二百六十四巻と云ふ驚くべき多数でありそれがほとんど漢志には収[br]
められてゐない書物ばかりである。ただ漢志では前述の如く太史公百三十篇外四篇のも[br]
のが春秋類の附録である外に世本戦国策楚漢春秋などが春秋並に国語の後、太[br]
史公書の前に現われてゐたが隋志の春秋類は国語に至って止まり太史公書即ち史記[br]
は史部の第一正史の筆頭に録せられ以下これにならった断代の紀伝体史即ち漢書[br]
後漢書三国志晋書宋書斉書梁書陳書後魏書のごときものが列せられて[br]
ゐる。史部の第二は古史と称するが荀悦の漢紀長彦伯の後漢紀の如き編年史であ[br]
って、正しく春秋左伝の体をついでゐるから古史と称する。元来漢紀といふものは[br]
班固の漢書では分量も多く簡単に読みにくい為に編年によりて簡約にすることを試み[br]
たもので当時これが為に相当流行し後の司馬光の資治通鑑にも多く参考してゐる[br]
がこの類の一番はじめには紀十二巻がかかげてあるのは元来汲冡から発堀されたもので[br]
原著の年代が古いため発見されたのは後であっても之を最初に祭り上げたまでのもので[br]
ある。史部の第三は雑史で漢志に見えた戦国策楚漢春秋をはじめ紀伝にもあらず[br]

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編年にもあらずと云ふ一種雑駁にして一定の方針のない史料をおさめてゐるがやはり汲冡周[br]
書などを最書に祭りあげてゐる。この頃は既に汲冡書の整理も完了してかの荀勗の時[br]
代の如く丁部の末に附録すると云ふ様な状態は改められてゐたに相違ない。第四は覇[br]
史であって統一国家でない覇者の史実であり第五は起居注とて天子の身辺のこと言動[br]
を記録したのでこれも穆天子伝を祭り上げてゐる。第六は旧事篇とて西京雑記の如[br]
き掌故に関するもの。第七は職官篇とて官制に関するもの〔漢官儀の如く〕。第[br]
八は儀注篇を漢旧儀の如く礼制に関するもの。第九は刑法篇とて律令をおさ[br]
め第十は雑伝とて伝記に関するもの。第十一は地理之記とて山海経水経をはじめ地理の書[br]
で第十二は譜系篇とて系譜氏姓に関し世本などがその筆頭にな[br]
ってゐるが閥に関する観念の強かった魏晋六朝時代には特にその発達を見たものと[br]
思はれる。第十三は簿録篇ですなはち七略別録以来の書目である。この構成も[br]
必ずしも隋志に始まったわけではなく大体は少くとも阮孝緒の七録によったもので七録[br]
の紀伝録は国史、注歴、旧事、職官、儀典、法制、偽史、雑伝、鬼神、土地、[wr]譜[br]