講義名: 支那学概論
時期: 昭和15年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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尽在南瞿与北楊留得宋元書目在一偏中有小滄桑と詩があってその次に□志や[br]
藝芸書舎宋元本書目序の如き根本史料を列記してゐる。つまり藝芸書舎の[br]
蔵書は黄丕烈の百宋一廛の後を承けたものであって更にその蔵書は宋元本書目のみを残[br]
して南は常熟の瞿氏の鐵琴銅剣楼、北は聊城の楊氏の海源閣に分散した厂史を[br]
歌ったものである。黄丕烈の百宋一廛にしても顧広折が特に賦を作ってその美を称□[br]
してゐるので蔵書も一つの文化として芸術的な香りを放ってゐる。この葉昌熾はなほ語[br]
石といふ名著を残してゐるがこれは今の言ひかたを用ひれば石碑に関する学問の[br]
総論みたいなものであるがその開巻第一に三代鼎彝、名山大川、往往間出、刻石之[br]
文、伝世蓋尠、□□峯録、実道家之秘文、比干墓字、豈宣聖聖遺跡といふ風[br]
な美しい文章で書き出してある。述べてゐることも極めて雅正であるが人人は先づその端[br]
正なる文章によって此の書物に十二分な好意を寄せてしまふ故雪橘先生の雪橘詩[br]
話の如きもこの意味において内容を文辞とが最高度に化成したものとして秀読描く[br]
能はざるものであるがたとへば閻古古の屋上龍交生漢祖、澤中蛇斬応秦皇の句を評[br]

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して未免火気偈人了無意味といひ朱昌漢の詩を升垞老人が校定して家貧怯[br]
□年の句を題したことに因んでは亦足見其才豊而遇□□と云ひなどせられたことだけで[br]
もその簡単にして而かも余顔弼弼たる先生その人の語を耳にする様な心地がする。[br][brm]
元来漢字といふものはわづか一字であって極めて複雑な概念を示すものであるから特に目に[br]
訴へて他人にその意義を伝へようといふだけならば最少の文字を使用して最大の効果を奏[br]
する作用を持つものである。今の遇嗇の二字の如き之を耳で聞いてわかる様な方法で表[br]
さうとするならば非常に多くの文字を□さねばならぬところを僅に二字を以てかかる複雑[br]
な内容を示し而かも上の才豊の二字と字面は対句であり音は互に平仄を異にすると[br]
云ふ二重三重の効果を挙げてゐる。すべて支那の文章は目で見るためのものであるから極[br]
めて短い間に豊富な内容を盛ることが尚ばれここに於て雅潔といふ様な辞が常々使[br]
用される。これは一面漢字の筆画が繁雑であるためなるべく少数で済まさうといふ考も手[br]
伝ふことであらうが同時に少数ですむことができるだけ漢字そのものの内容が豊富である[br]
とも云へる。[br][brm]

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かくの如き文辞の雅潔と云ふことは文辞としての程度が高尚であるばかりではなく文辞に伴[br]
ふ読書の内容も同時に高尚になり相待ってその学術的著作としての□□が完成する。しかる[br]
にかかる文辞の雅潔なものは一般の学術に深く沈潜してないものには了解できない如くこの文[br]
辞で表現する内容も亦極めて高級なる読者を待つものであって自然とほり一遍の概説[br]
風のことを一々記載することは高級なる読者に対しては甚だ礼を失するものと考へられるた[br]
め支那の著述にはこれまで殆んど概論とか序説といったものがなくいきなり高級にして特殊[br]
なる事項が列記してある。もし西洋風の学問をのみした人がかういふものを読むならば全く[br]
断片的の記述であって全体の精神が理解されないとか□□様な無理解な批評を[br]
下すであらうが全体の精神などと云ふのは時局時局と云って時局□りものにさわぐ人たち同様[br]
なだれでもできることであってそんなことに今更多くの漢字を費すことが不必要に帰[br]
してゐる人たちに就て見ればその著述として必要なことは特殊なことがらでありその特殊な[br]
事柄こそ塀の上に咲き出た梅の枝をながめる様なもので塀ごしに枝が出てゐるからと云[br]
ってその梅は根がないと云へばこれは天下の没常識漢である。根までながめずともその枝[br]

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ぶりと花をながめることによって春の来たことを知れば見る人は十分の満足を覚えてゐるのを[br]
知らない野暮の言ひ草である。良□は深く□して空しきが如しと云ふ様に広き読書深[br]
き素養によって紬ぎだされたものを極く一部分だけ洗練を極めた方法で他人に示すとき、[br]
他人はその人の全部を見せられたよりも遥に奥床しく感ずるためその効果も[br]
自ら供蓰する道理である。一言にて□を断ずるとか一字千金とか或は呂氏春秋に国[br]
門にかけて一字を改むるものがあ□□といふ様な一言一字を重んずることこそ支那学の表[br]
現法としての極意である。即ち章学誠の云ふ如く六経みな史なりともいへるが六経み[br]
な文なりともいって差支ないわけである。[br][brm]
□□以来、かくの如く学問発表の形式が常に文飾を伴ふことは支那学の一つの特色として考へらるべき[br]
ことで孔子の語にも文質彬々といふことが理想とせられるのは正にその境地を示したものである。つま[br]
りかう云ふ学問であってこそ科学は容易に理想を一□し文芸と□手することができる。西洋の[br]
学問でも自然科学から出た哲学者が名声を博し得る様に支那学こそはさういふ続合が最[br]
も好く一人に於て実現する。従って智識の不十分なる民衆をあひてとする場合とは違って[br]

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常識的なことは概ね省略することができる故に一一の論証の場合においても屡々その過程が省略され[br]
る。これは過程がないのではない。その過程が教養であって発展でないからである。たとへば数学の知識[br]
のないものがある数理を説かうとするには一々その公式から計算までして見せないと了解ができない[br]
がその道の専門家ならば某某の公式による位のことは直に了解せられるため何等そんなことを書[br]
き出さずに他人も之を承認する。素人は一種の闇取引の様に考へようが□人にとっては日常茶[br]
飯事である。幾何学の初歩を学ぶものは定理まで一々証明を要するが少しく進めば定理として[br]
直に活用する様なものである。之を別の見かたから云へば直覚的の学問といへるのは即ちこの意[br]
味に外ならない。更にかかる統合的にしても而かも直覚的といはれるまで訓練を要する学問は[br]
その民族においても決して短い歴史では成功するものではなく必ず長き研究と不断の努力とを[br]
待つものであり自ら歴史が現実の上にも強大なる作用を及ぼすものでありそれは歴史に逆ふ場[br]
合でも歴史にさからふ場合でも〔ママ〕常に同様であってたとへば支那の天文学における計算の基礎[br]
となる数字は古来ほとんど変化しなかったり経書尊重が何千年ほとんど揺がなかったりする様[br]
な伝統の力はあらゆる意味において支那学の中に充ちてゐる。つまり支那学が栄えるのもこ[br]

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の伝統の力でありそれが世界に於て比類なき一面をもつのもその伝統の力である以上この伝統を[br]
維持するに最も適応した社会の階級が自らその担当者として登場し且つ此を演出[br]
するわけであって読書人の階級が破壊され□□□いかに変化した外見を持たうとも支那学[br]
の伝統そのものは必ずしも動揺できないわけである。[br][brm]
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支那の如き文字を貴ぶ国に於てはその人の思想なり芸術なりあるひは事実なりこれを後[br]
世に伝へようとするためには必ず文字によりその文字もこれを金石に彫むこともあらうが最も簡[br]
易な方法としては書物に書きのこすことであった。漢と云へば今より二千年前のことであるが[br]
その時代に朝廷に集められた書籍は秦の争乱を経てゐるにも拘らず萬二千二百六十九巻の[br]
多きに上ったことは漢書芸文志に明記してある。漢書芸文志は後漢のは班固の撰した漢[br]
書の一部であるが班固が漢書を作るときに必ずしも一々新に稿を起したわけではなく[br]
史記によって改作したりしたものが少くないが芸文志は一般に劉向劉歆父子の編した七略に[br]
よったものと認められてゐる。今芸文志によってその由来をたづぬるに「むかし孔子がなくなってから[br]
微妙な言葉もきかれず七十二人の弟子が亡びてから道の大きなすぢ道までばらばらになり春秋の学問は五通りに分れ[br]
詩の学問も四通りに分け易には五六種の伝へができてしまった。戦国になると真だ偽だと言ひ[br]
争ひそこへ諸子百家の説が入り乱れたので秦になると文字を焼いて人民を愚にする政策[br]
をとった。漢の世となってから秦の失敗にかんがみ大に書籍をあつめ広く書物を献納する[br]
方法をひらいた。孝武帝の時に至って天子が当時の書物が足らなかったりぬけたりして制度もわ[br]

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るくなり芸術も衰へたことを嘆いて蔵書の方法を設け本をうつす役を置き諸子伝[br]
説のたぐゐに至るまで天子のお倉におさめさせた。成帝の時にまだ本が足らないと云ふので謁者[br]
の陳農に命じて天下をめぐって珍しい本を求めさせその本については光禄太夫の劉向に命じて[br]
経伝諸子詩賦の校定をさせ歩兵校尉の任宏に兵書を太史令の尹咸に数術を侍[br]
医の李柱国に方技を校定させ一つの書物の校定ができるたびに劉向がその目録を[br]
かきあげその大意をまとめて天子に奏上した。向がなくなると哀帝はその子侍中奉車[br]
都尉の歆に父の仕事を完成する様に命じた。そこで歆は遂にこの多くの書物を整頓[br]
して七略といふものを作って天子に奏上した。七略とは輯略六芸略諸子略詩賦略[br]
兵書略術数略方技略である。」今日でもたとへば荀子の首に[br]
護左都水使者光禄大夫臣向言所校讎中孫卿書凡二十二篇以相校除復[br]
重二百九十篇、定箸三十二篇[br]
とあり晏子春秋の首に[br]
所校中多晏子十一篇臣向謹与長社尉臣参校讐、大史書五篇、臣向書一[br]

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篇参書十三篇、凡中外書三十篇為八百三十八章除復重二十二篇六百三十[br]
八章定著八篇二百一十五章、外書無有三十六章、中書無有七十一章、中外皆[br]
有以相定、中書以夭為芳、又為備、先為牛、章為長、如此類者多、謹頗略[br]
揃皆已定殺青、書可繕写[br]
とある様に非常な苦心を以て一々定本を作製したことが窺はれる。元来劉向劉歆の家[br]
は漢の宗□で先祖は楚元王から出てゐて学問を好んだ家柄でありその家にも相当の蔵[br]
書があったことは上にあげた晏子春秋の序録によってもわかるが劉向は穀梁春秋の学をおさめ[br]
て五経を石渠閣に論じたが歆は秘書を校して古文春秋左氏伝を見て大に之を好んだ。はじめ左[br]
氏伝は古い文字古い言語が多く学者ただその訓故を伝ふるのみであったが歆が左伝を[br]
治むるに及び伝文を引いて経を解し章句義理が備ったと云ふ。歆が太常博士に与へた有[br]
名な文章は従来の博士の学問が固陋であることを責めて古文の学も認むべきことを論じ[br]
たもので学術の変遷を考へるに極めて重要なる資料である。[br][brm]
劉向の作ったものを別録といひ劉歆の作を七略といひ班固の作を芸文志といひその名が変[br]

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ずるにつれて或は若干の変化もあるかも知れないが今日から見ればすべて同一の精神に出づるものと[br]
認めねばならないが之を外観のみより見れば一個の簿録であってたとへば尚書ならば古文経四十六[br]
巻経二十九巻伝四十一篇、欧陽章句三十一巻大小夏侯章句各二十九巻大小夏[br]
侯解故二十九篇欧陽説義二篇などを列挙したもので、極めて無味乾燥の如くであるがそ[br]
の実この書物は実に支那における著述の流派を考へ学問の源流を論じたるものとして不[br]
朽のものでありいはば一種の支那学概論と見なすことができる。[br][brm]
思ふに学問といふものは長い間に自然に発達したもので先人の努力を積みかさねて更に後世の[br]
継承を待ち変遷を生じてゆくべきもので之を概括的に考へる必要を生ずるのは既に学問が[br]
相当発達して複雑になってゐなければならない。すでに先進時代からしてこの意味ではいろいろ[br]
の学派が発達したとへば孟子の中に楊墨を攻撃したり告子を議論したり陳相を批判[br]
したりしてゐるところを見ても荀子の中に非十二子の説があって同じ系統たるべき子思孟子[br]
を批難し、荘子の天下篇のごときは各学派の長短を論じ、今日に至るまで特にこれらの[br]
諸篇を研究して支那の学術淵源を窺はうとする人々のあることも洵にそのいはれありと云[br]