講義名: 支那学概論
時期: 昭和15年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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くして支那文化が欧洲文化と伍をなすことでありそれだけでも支那文化の顛落であるが更に[br]
一歩を進めると支那文化をものの数とも思はず新文化の旗幟をかかげて極力西洋文化を[br]
倡へることになる。[br][brm]
支那の近代化に耐へ兼ねて清朝の□落は急速度に実現したことに袁世凱の卒去によって帝[br]
制も失敗してから即ち民国五年以後は新しき支那に驚天動地の運動が始まり八年の[br]
五月四日のいはゆる五四運動は遂に国民の大部分に思想的革新を注文したことにおい[br]
て重要なる意義を持つものである。胡適氏も云へる如くこれより以後国内の知識階[br]
級はこの新しい潮流に対して或は歓迎の態度をとり或は研究の態度をとり或は容認する[br]
態度をとり次第に従来の敵視する態度が減少した〔五十年来中国国文学〕ことはこの運動が如[br]
何に時世を指□する力量をもつてゐたかを物語るものである。[br][brm]
支那の外国に対する接触より後れて外国に接触しないから却て支那に先んじて近代化に成[br]
功した日本はたしかにこの意味において支那の先進国となった。長い間支那文化に服従した[br]
かに見えた日本が一朝にして支那を抜いて先進の地歩を堅めたことはたしかに支那にとっては[br]

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驚くべきことでもあり同時に最も手ぢかに模倣すべき一つの好き先例でもあった。日本へ[br]
留学生が正式に派遣されたのが日清戦争の翌二十九年であると云ふことはこの戦争[br]
の意義が如何なるものであるかといふことを覚るに十分で爾来□□の末年まで留学生の数は夥しきもので、即ち支那の近代化と之に応ずる[br]
政体の変革はほとんど日本がその策源地であるといふも過言でないと同時に日本は西洋[br]
文明を模倣したために富強を試したのみで曾ては支那文化を模倣し今や西洋文化を模[br]
倣したのみで一つの固有文化も持たないといふ様な観察と日本人が先進たる地位を[br]
鼻にかけ事ごとに支那を侮り支那の研究を怠ったことが相より相たすけて日支両[br]
国の根本的不和といふものにまで発展して行ったことは歎かはしいことである。[br][brm]
此と同時に日本においてもその高速度の近代化が行はれるとともに支那よりももっと簡単[br]
に旧文化の体制をかなぐりすてて西洋文化の吸収に努力しかの和漢文科が東京大学[br]
に設けられたる時代においてすらただ此を憐憫する態度が示されてゐるにすぎない。学制にお[br]
いても教養の標準においても東洋文化は西洋文化にその地位を譲り外国語とし云へば英独[br]
仏に指を□し勿論支那語など顧みるものもなくたとへ支那語を論ずるものがあってもただ[br]

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実用一点張りでいはば徳川時代における長崎支那語と大差なき状態であり□英語の大[br]
家が支那語などは実用語だから日本人には必要がない、必要なものだけ支那人を呼んで来て学ん[br]
だらそれで好いと云ふ様な無責任なことを平然と発表されたこともある。[br][brm]
われわれはここにおいて二重の問題を持つ。すなはち支那における旧文化ははたして将来性[br]
のないものであるか或は元来文化的価値のないものであるか或は支那におけ[br]
る旧文化の崩壊はただ近代化の一つの過程として起っただけで近代化がほぼ飽和的の[br]
状態に達した暁にはも一度見直されるべきものであるか或は旧文化と新文化との間に[br]
調和点が見出される可能性があるかといふ支那自体の問題と、われわれが支那学者[br]
として支那のことを研究する□に近代化した支那の研究と旧文化の研究と何れか重要[br]
であるか如何に此を組織して行くかといふ問題、さらにもっと重要なことは日本が将来[br]
支那文化を吸収する必要があるかないか支那人の発明した漢学といふものははたして将[br]
来の日本にとって益のあるものであるか害のあるものであるかさういった日本文化にとっての痛[br]
切な問題は正しくこの間に胚胎するのであってわれわれが徳川時代の漢学者と同じでない[br]

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ことの意義は正しくこの点に存するものである。もし支那も日本も近代化してゐない時代[br]
ならばたとへ学問に変動のあることは免れないとしてもかくまで大きな問題が波涛の如くわ[br]
れわれの面前に迫ることはなかったであらう。しかるにこの際に至るもなほ漢学科時代の不覚[br]
な態度で武陵桃源の夢を見てゐるならばこの波涛に呑まれてわれわれの学問は一瞬にして[br]
滅亡すべき危機にのぞんでゐる。われわれの責任はこの学問の維持のみには止まらない。又[br]
学問が近代化したる日本における存在の価値を明かにするところまで行かねばならないので[br]
ある。単に憐憫の情をもって飼はれたる小鳥ともいへ□足することは学者の意地だけで[br]
も許されない。[br][brm]
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支那学が支那と云ふ国土において支那人と云ふ民族において創められ発達して来た学問[br]
である以上支那と云ふ国土の支那人と云ふ民族の特質は即ち支那学の特質を形づく[br]
るものに相違ない。既に支那及び支那人が世界における厳然たる存在であってその位[br]
置が何かしら一つの注意に価するものがあるといふことはそこに一個の特質が存在する[br]
ことを意味するものでわれわれは先づその特質を知ることによって支那学の特質を[br]
認める手がかりを得よう。[br][brm]
然るに国民性といふ様なことは容易に議論できないことで内藤先生の新支那論の中[br]
にもかういふ話が見える。[br]
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民族生活、民族の生命は、やはり個人の生命の如く大体年齢がある。民族が[br]
発生してから四千年たって居るもの或は二千年しかたってゐないものも或は八九百年[br]
位しか経たぬものも同じく相並んで現代に生存してゐる。時に現代において見らるる各々の[wr]差[br]

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異[/wr]の点を捉へてこれが各国民の特別な性質本来の特性乃至は永久の性質と考へ[br]
るのは危険な判断の仕方である。去年の竹と今年の竹を根から一様の長さに切って[br]
去年の竹は中の空洞が特徴であり今年の竹には中の空洞のないのが特性であると判[br]
断するのと同様である。――これは勿論歴史家としての先生の立場を考へる[br]
時にこそその主旨が了解され易いものであって支那のごとき歴史の久しい社会をもった[br]
国民においては日本や西洋のごとき若い国家に見られる様な現象がたとへ同じ時代[br]
であっても決して同様に現れて来ないことを強調されたもので同じ竹のたとへでも根[br]
から一様の長さに切らずに頭から一様の長さに切って見ればその最も成長してゐる[br]
部分はやはり相当な類型を認められただ今年の竹は成長が早く今年の竹は成[br]
長がおそいと云ふことは歴史の力である。然しながら竹と国民性とは最初から縁□[br]
のないものでかういふもので譬へられると国民性はすべて竹の如しで形づけてしまふ危険があ[br]
って譬喩の恐るべきことを反省しなければならない。植物でも日影ではやせ衰へてゐ[br]
たものが日あたりの好いところに移されて俄に生育して見ちがへる様になるものもあり[wr]肥[br]

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料[/wr]の多いところと少いところとで同じ日あたりでも生育しかたが違ふ。種子にもより時節[br]
にもより決して去年の竹と今年の竹ぐらゐの簡単な条件で国民性は比較しきれるも[br]
のではないことは注意せねばならない。先生も云はれる様に日本[br]
の様な若い国家では政治軍治について全盛を極めるが支那の如き長い民族生活[br]
を送り長い文化を持った国は軍治政治にはだんだん興味を失って芸術に傾くのは当[br]
然のことであらう。しかしその若いと云ふことは一面に於ては民族としての活力を示すもので[br]
あらうが同時にその民族は文化的に長い歴史を持たないことであり自然将来に希[br]
望を持つものであり現状を容易に打破し得るものでもあるから動的な方向に興味を[br]
持ちやすく老大なる民族は長い文化を持つが故に過去に対するあこがれが強く過去[br]
が生み出した現在に対する執着もつよく自然静的な方向に興味を持ちやすい。この点[br]
は正に青年と老人との相違である。[br][brm]
同じ政治にしても日本の政治は施設することに特色があるが支那の政治は無為といふこと[br]
を至上と考へる儒林外史八回に蘧公子が王太守をからかって云ふ中に「父はここに務めまして[br]

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格別な働もございません。ただ裁判沙汰やおしをきが少くなっただけのことです。そのため家の幕[br]
僚がたも役所に来て詩ばかりうなってをられました。今でも覚えてゐますが前の按察使が父に申[br]
されました詞に『お役所には三通りの音がしますさうで』と」王太守は「三通りと申します」ときく。公[br]
子は「詩をうなる音、棋を打つ音、うたひを歌ふ音」と答へる。王太守は「この音はとても面白[br]
うござりますな」公子「これからは老先生が御骨折り下さいましたらきっと別の三通りの音になり[br]
ませう」王太守「三通りと申しますと」公子「はかりの音、算盤の音、板子の音」と王太守は[br]
自分のことをあてこすられてゐるとも知らず真がほで「ただ今お上の御印〔申?〕を承りまし[br]
た以上には□□かやうに真面目にいたさねばなりませぬ」と言ったと云ふ話が伝はってゐる。つまり政[br]
治は役人が手を下さぬことを以て理想とし事務をとることは決して賞賛されない。事[br]
務をとることは自ら□といふものがあって□□してゐるので官はただなるべく事を起さず清[br]
虚である様にするのが□れる。それでも三年清知府、十年萬雪花銀といって非常に儲[br]
かるものである。清朝時代の大官が夥しき学術上の著作を残したのも事務を施ない[br]
からであり第一、官を採用すべき試験は経書の中から一句二句をとり出して自分が[wr]聖[br]

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賢[/wr]になったつもりでこれを敷衍した文章を書かせる。六法全書を暗記したりする様なことは[br]
やらせようともしない。それ故ただ今満州国に赴任した日系の官吏は真に満系の官吏と[br]
衝突するのは日系の官吏は満腹の経綸を抱いて奉仕し道路の開発図書館の設立育[br]
兒所の創立などを実行しようとするが満系の官吏はこれは税を重くして民を悩ます道[br]
であるとして反対する。そこに動静の差が鮮に見られる。[br][brm]
かくの如く政治が消極になったのもつまり社会組織の紐帯が非常に堅固にできてゐて政治の[br]
変動によって社会組織を変化せしめることは困難であるのみならず政治による変化を拒[br]
否せんとするものでそこに久しい間支那民族を支配した階級の強い地盤が築かれて[br]
ゐる。曾てある清朝の遺臣が語られた言葉にも清朝が亡びて共和になっても支那には何[br]
の変りもない。ただテーブルを圍んでゐた人が少し入りかはったといふだけのことで人民には更に痛痒[br]
のないものであると云はれた。つまり政治は一定の階級の間に独占され[br]
てゐたのであって人民は何等の関係もなく興味もない。ただ政治の変動によって□□不[br]
測の禍または苛斂誅求などの起ぬ様に希望するだけである。曾て蒋介石の北伐軍[br]

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が北京に迫り張作霖の軍と一戦を交へさうな形勢になり琉璃河あたりでは砲聲が轟[br]
き恰かも濟南事変の後のこととて如何なる不祥事が突発するやも知れない在留民は[br]
洶々としてゐた。しかるに北京の長老たちが会議をして何程かの金□を調達し張軍が[br]
立ち退いてから北伐軍が入りかはりに入城することに話をつけて場内では鐵砲の音一つせず[br]
に□□を引きつがれた。つまり若干の金□は北京を戦場とされることの禍から見れば物の数に[br]
もたらぬことにすぎず人民は最少の犠牲を以て安全を買ったのである。軍閥といへども人民の[br]
恨を求める必要は更になくただ南軍が競技に勝って青天白日旗が優勝旗として[br]
掲げられたといふ様な気持で覇権が譲られて行くのである。結局人民は邪魔されな[br]
い様に政治家を買収して政治とは縁のない生活を続けてゆくだけである。[br][brm]
しかしかく云へばとて人民の自活に関する組織は非常に鞏固であっていはば双葉山が勝[br]
っても負けても生活に関係ない様に人民自身が一種の自治制を築きあげて時によってはそ[br]
の自衛組織が全く政府をはなれて人民の利害を擔保して来た。つまり家族が単位で一[br]
つの家が牆をめぐらす様に一つの都市が単位で城壁をめぐらすといふ工合に行ってゐる。[br][brm]