講義名: 支那学概論
時期: 昭和15年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
大多数の人民はただ政治の害を知って政治の思想を知らない。曾て黎元洪が大総統と[br]
して北京を退去したときも北京の□は更に不安に陥ることがない。むしろ大総統がゐるために軍[br]
警に給与が渡らなかったのに□なくなると却って給与の渡りが好くなって兵隊も警察もみ□□[br]
につとめる。この時の規模を冰心女志が追懐して「支那の人民の最大の幸福は居ながら政府[br]
を離れて独立できることで去年の北京の如きも四十日間総統がゐなくても万民その業を楽し[br]
んだ」ものだがアメリカでは海抜一千尺の山中で毎晩新聞を見ながら共和党と民主党[br]
の大統領選挙の話で夢中になってゐると書いてゐる。清朝が人民に與へた最大の恩[br]
恵は康熙五十年に勅を以て、以後の増加したものは世滋生人丁□□□□□□を加へないと[br]
云ふことでこれが支那の善政であった。これならば人民の為の政治家は所謂政治的才幹は[br]
不用と云ふかむしろ有害であり左伝の注を書いたり詩を作ったりしてゐる人が民の父母[br]
として尊敬された。つまり人民は長いしきたりに慣れて現在の状態を変革する方向には[br]
従はぬものである以上その流に従ふことが人民の為の政治家となりかくして政治家と学者[br]
とが極めて自然に一人の人の中に共存するのであり政治と文化とが一つの支配階級に[br]
偏在するわけである。もとより必ず官のみが学問するものではなくて野にあるものも学問[br]
をすることを許されてゐるがそこに認められる読書人こそ官たるべき唯一の道で苟くも官と[br]
なるには学問をせねばならず学問をしたものは□□□□の状態では必ず官になる資格が[br]
開かれる。もし科目に応じて秀才となり挙人となり進士となれば必ず任官せられ進んで[br]
は大学士にも達する道はただ読書人にのみ開かれてゐる。つまり政治は事務官ではな[br]
くて学者を要求し学者は事務を弁ずることなしに政治に携はることができる。[br][brm]
支那の人民の中において読書人たる特権を持つものは極めて少数であり即ち官となり政[br]
治にも携はり学問をも修むるものはその一部分に限られてゐる。これは一体如何いふことで[br]
あるかといふにこれは支那の書物を読むといふことが決して容易でないことに原因を求めねばなら[br]
ない。支那の書物を読むことが容易でないのはつまり漢字で書かれてゐるからである。元[br]
来漢学は支那民族の発明した極めて霊妙なもので世界にかかる発達を遂[br]
げたものがないといふことは漢字の特異性を示すものである。即ち支那文化の特[br]
異性もこの漢字に本かねばならない。故にこの国民が漢字に対して抱ける尊崇の念は極めて[br]
著るしいものであって漢字を発明したといふばかりに蒼頡といふ假想の人物がいたく伝説化さ[br]
れ目が四つあるの何のといふ□□まで生じてゐる。実に漢字こそ支那人の発明した最高文[br]
化の象徴であってその発明者たる蒼頡はいかなる形容詞を加へてもその功労を賛美し切れ[br]
ないのである。さればこそかかる最高文化の象徴たる漢字を修めて古人を尚友できる様な読[br]
書人こそ支那人の中に於て選ばれたる人材でありこれこそ最高の賞賛と地位とが待ちかまへて[br]
ゐて然るべきものである。曾て前清の末年に日本のある支那浪人が尾羽打ちからした姿ながら四[br]
書を携へて路傍に假寝し賊に襲はれ衣類全部剥ぎとられた。然るにしばたくしてから賊の頭[br]
目が部下を率ゐてその浪人をたづね鄭重に無礼を謝し□は全て存じ寄らず部下の者が不礼を[br]
働いたが御持物の中から四書を発見して読書人であることを覚りいたく恐縮したと申[br]
しすっかり奪ったものを返却したと云ふ実話がある。それほど読書人が重んぜられる国[br]
柄こそわれわれにとって□しいばかりである。これと云ふのも一般人民と読書人との間に遠い[br]
距離があるからでその距離を作る主要な分子は漢字である。故に一面から見れば漢[br]
字があるために文化の普及が妨げられるといふことも出来る。[br][brm]
漢字が普及に困難な理由はその数の夥しいことである。漢字の数が夥しいことは勢ひさま[br]
ざまの形と音と義とを生ぜしめ形のみについて言へば相当筆画の複雑なものも生ずることに[br]
なり殊に発音の抽象的記号でなくして具体的象形から発達してゐるだけに必要以上[br]
筆画の複雑を生ずることもある。これを最小限度にても記憶しようとすれば相当[br]
の努力を要する。故に支那人が最初に漢字を学ぶ場合には何字何十字何百字記憶[br]
できたといふ数を□へること。丁度版本を彫むものが何字何十字何百字彫んだかといふ[br]
ことを計算する様なものであり写字生がその筆写した文字数を丁寧に計算[br]
するような心理に似てたしかに一个の労力□事であり又記憶できた数の多いことを以て労[br]
力に対する慰安をするものである。従って毎日の生計に余裕のない階級においてはかかる繁[br]
瑣(頊)な努力をなしとげることは不可能であり勢ひ文字の教育は少数の有力者の階級に限[br]
定され特別なる家庭又は塾の如き設□に□□教師と生徒との単調にして忍耐ぶ如き[br]
骨折を以て一字一字児童に記憶を強ひるのである。この意味において漢字が発音記号[br]
を以て文字とする場合に比して文化の伝播力が弱いことは否定できないことであるが他の[br]
一面を考ふれば発音記号を列べた言葉は一々その記号を順次に読み下してゆかなけれ[br]
ば了解できないのに反し漢字に於ては一つの漢字が一つの義を表すがために直観して直[br]
ちにその義を覚ることができる時には山の字を書けば□□と読まうとサンと読まうとセンと[br]
読まうとあるいはヤマと読まうと一見してその意味は読者の頭脳に刻みつけられる。もし假[br]
にthousandとかhundredとか書く代りに千とか百とか書いたならば如何に簡明に了解[br]
できることであらう。欧文のタイプでも$の符号を使用するのも同様である。ギリシア[br]
の文字ではたとへばααが一、ββが二、γγが三といってν〔ニュー〕が四百、φ〔ファイ〕が五百、χ〔カイ〕が六百、ψが七百[br]
と云ふまでアルフアベツトが一つの数字を示すことは一面から云へば記憶に困難であるだ[br]
け、一旦記憶できて自由に応用できるところまで行くと夥しく能率を増すものである。[br]
之に反し400、500、600、700と云ふ様な位取り式の数字は4、5、6、7だけではその[br]
数字が何の位にあるかわからないので、その次に零が何个あるかと数へなければならない。然るに[br]
ギリシア式の方法によれば一つの記号で位取りまで了解できるといふ便がある。殊に之を物に[br]
書く場合に他の方法ならば相似的な幅を要し又手間をも要することが真に成功する。[br]
しかも誤が少ない。天津に長い間商業に従事された日本の商人が述懐されたことに自[br]
分も昔は簿記といふものを重んじて大福帳の旧式なことを侮ってゐたが久しくして大福帳[br]
がずっと簿記に比して正確であることを知ったと云はれてゐるのも漢字の記録が数字の形の誤[br]
や位取りの誤を生じないことに気づかれたものらしい。[br][brm]
今一つ大切なことはある一部に漢字がそのものの性質上一般に文化の発達を妨げるといふ考へかたが存することで[br]
あって、その考へ方は支那語の性質において名詞も動詞も形容詞もその形に区別なくまた同[br]
音異義の語が多いために語の意義が混乱し易く語と語との関係が曖昧であるため[br]
に思想の運びが明確を欠き語と語と□羅列することによって観念と観念へと無統制に移[br]
りゆき自由に熟語を作ることによって無関係な観念を恣につぎ合せるといふことと、思惟[br]
のしかたが論理的でないこと強ひて一定の型にはめこむこと現実を直視し事物の本質を□□[br]
することができず批判的精神もなく能力もないこととを列挙してゐる。これは一見極めて痛[br]
快の如くであるが、支那語の性質が品詞による区別がないといふことは勿論外国語に[br]
翻訳する場合に困難を感ずることであらうが、支那人自身はあらゆる事象を一つ[br]
の音節にて処理すると云ふ方法を発明してゐるだけ極めて簡便なとりあつかひを工夫し[br]
たもので名詞であり動詞であることを一々指定する煩しさを避けて他人に意思を通じる[br]
様にした点にむしろ要領の好さを示してゐる。日本人が支那語もろくに勉強せずに意義[br]
が曖昧だと攻撃するのは自分の不勉強を広告する様なものであって支那語自[br]
体の責ではない。况していきなり数千年前の古典を読まうと試みるのがまちがひでむし[br]
ろ数千年前の古典が今日の程度にでもその複雑な思想と領□できるのは却て漢字[br]
で表されてゐるからであるとも云へる。同音異義の語が多いために熟語が発達するのは[br]
西洋の言葉が二音節三音節に渉るのと同様でありかくして語の意義の混乱を避けるこ[br]
とができる。その他思考が動きが明確を欠くといふのも西洋風な分析な動きをしないから[br]
明確を欠くといふだけで不必要な分析を避ける嫌味が支那語に特有であることは否[br]
定できまいし観念から観念へと極めて巧妙に移ってゐることを無統制といふならば西[br]
洋風な煩瑣な分析は統制だおれだとも云へよう。つまりは支那風なものの考へかたに理[br]
解がなくて、西洋風の考へかたが唯一のものであるといふ風な行き方先入主となって□[br]
「事物の本質を究明することができず一定の型にはめこんでしまふ」という批評はむし[br]
ろかういふ考へ方の御当人に譲り渡すべきではないかと思ふ。論理的でないと考へるのも西[br]
洋の論理的でないと云ふことであって支那には支那の論理があることを知らず分析のみが[br]
学問の窮極であるといふ様な浅薄な考へかたが結局西洋学のゆきつまりを来して[br]
ゐることを心づかず批判的精神といふものも果して書物の外形のみにて察知できるもの[br]
ではなくすでにそこをのりこえて批判といふ様な野暮なことに滞ることなく批判[br]
以上の批判に達してゐる境地はむしろ素人から見れば批判的精神を欠いてゐると理[br]
解されようが日本の素人が千年の後に、蟷螂の斧を振りあげることを予想して野[br]
暮くさい批判を書き残す筈もなく况して事物の本質を直観究明したればこそその[br]
文字もあの様な摺合的性質を持ち学問も亦摺合的なところに特色をもったものと[br]
云へよう。物はもとより一概に言ひがたいが素人が支那語もわからずに大言壮語するこ[br]
とに対し聊か漢字の為に弁じたるにすぎない。[br][brm]
[br]
凡そ言語文字がその国民によって創められたと云ふことはその国民の思惟の方向を知る極めて便利なも[br]
のであるのみならず実は自らその国民の思惟の方向を規定するものである。この意味において思想をと[br]
りあつかひ文学をとりあつかひその他この国民の文化をとりあつかはうとするについて語学的知識こそ[br]
何より大切なものであり少くとも第一歩として此から着手する外のない絶対的のものである。西洋の支[br]
那学が久しく発展しなかったのは支那人の助手に命じて支那の書物を翻訳させその翻訳によって[br]
支那の書物を読んだことにしてゐたからであるが、近年以来支那語の研究が盛になり直接支那の書[br]
物を自由に読み破ることの出来る学者が多くなってから俄然長足の進歩を来した。日本ごときと[br]
もかく原典を取扱ふことができたところでは従来は支那学につき、西洋より一歩を先んじて来たが今や[br]
西洋人が最も自然なる語学的方法をとるにつれて日本の不自然なる語学的方法では到底[br]
角逐できないことになるであらうと思ふ。現に狩野先生が壮年のころ□□□□に遊ばれて支那学者ア[br]
レキセーフに面会されたことがある。アレキセーフは唐の司空図の詩品について学位論文をかいた当[br]
時欧州には珍しい純支那文学の専攻家であったが狩野先生は君たちには支那の文章の味[br]
がわかるまいと云はれたときアレキセーフは言下に「如何にもそれは日本人の様にはわからない。しかし今[br]
にわかる様になって見せるつもりだ」と答へたといふ。そのアレキセーフの夢が今に実現してフランスの[br]
ぺリオでも亡くなったオルソーでも又曾て来朝した□□□□でも本当の支那学者が西洋の方か[br]
ら続々現れて来るのに日本のみが過去の成績に慢心してゐたらやがて先人の苦心した地位も時[br]
代とともに蹴落されてしまふ外ない。[br][brm]
支那人とは一つの音節ごとに一つの概念を吐き出す様に習慣づけられた人民でありこれと更に[br]
一つの字形によってまとめるといふ技術をもってゐる。従て言語の構造も文字の組織も外の国[br]
語の言語文字とは非常に相違してゐる。そこに支那の思想も科学もすべて胚胎してゐるので[br]
あって、この現象を度外視しては支那学は一部了解されないと云っても過言ではない。たとへば陰と[br]
陽といふ思想にしてもその思想がこの文字に結びつく迄に支那語の音□がある。陰といふに近[br]
い観念を示すべきものと陽といふに近い観念を示すべきものと□□がわけられる。しかもそれは一つの[br]
音節に限られることであるからその微妙なる特質は自ら口の開合といふ条件と関係し陰[br]
には口の閉ぢた音節が選ばれ陽には口の開いた音節が選ばれる。それのみならず陰と陽とは自[br]
ら共通点があってどちらも同じ母音で始まり且つ最後は極めて近い鼻音に終る。かやうに[br]