講義名: 支那学概論
時期: 昭和15年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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の如き人はあらゆる意味において旧支那学と新支那学との関頭に立った人物である。誠[br]
に觀堂集林のあの精細にして且つ大胆なる考証は清朝の学術と西洋の史学との調和で[br]
ありもし支那学者を新旧に分つとしても王先生の如きは正に最も分類に苦しむ人物であ[br]
る。王国維先生は文学芸術と云ふ点から紅楼夢を評論され戯曲史を作られたがその[br]
考証における特異な頭脳が後年は全く歴史家たらしめ殊に殷虚文字乃至金石文[br]
の利用において第一人者であったことは人のよく知る所であるが先生が晩年清華学校に[br]
居られた時学校の余興を求められるときまって詞を歌はれたと云ふ。[br][brm]
然るに先生の影響によって盛になった金石学と云ふものは支那の学界に相当なる[br]
貢献をなしてゐるがこれらの学者の態度は往々にして金石史料と云ふものを重視した結果[br]
書籍として伝はったものの価値を軽んじ或はその方面の教養を欠くものもあり逆にその[br]
方面を強調するあまり金石史料を否定しようと云ふ風に反発するものもあり過ぎた[br]
るは及ばざる嫌ひもあるが王氏の支那の学者として最も成功したのは大きな教養の力であるこ[br]
とを忘れてはならない。近時の小説にしても支那の人の批評でも魯迅兄弟が持つ読書層と[br]

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云ふものはこの兄弟の持つ支那人としての教養を感じてゐると云ふことである。つまり支那人で[br]
あってこそ感じ得るある力量を認識したのである。趙景深が書いてゐることに彼が湖南に行か[br]
うとして天津から北京を経過したとき夜おそく友人の襄我と一□との同居してゐる公寓をたづねた。その[br]
時テーブルの上に真赤な表紙に黒い字で吶喊と書いた本がおいてあっては襄我は非常に激賞[br]
して「これは北京大学のある教授の書いたもので丁度出版になったばかりだ。とても好くかいて[br]
ある。」と云ふ。見るとその本には鉛筆でべったり線が引いてあっていかにも精細に読んだことがわ[br]
かる。その晩は三人で蚊に食はれながら一冊の本を奪ひあって夜ふけまで読んだとある。それ[br]
は何故かとは書いてない。或は何故かとも云へないかも知れない。そこに文学が民族の私有品である[br]
ことが存するのではなからうか。そして支那学は支那民族の私有品であることを連想で[br]
きる様に想ふ。他人の私有品を拜覩することは誠に手数のかかるものである。紹介状から[br]
始まっていよいよ相見まで気□だけでも大層なものである。われわれが支那学者となるには[br]
支那民族の私有品を拜見するだけの資格を持たねばならない。[br][brm]
さりとて学問といひ芸術と云ふものは世界の人々の共通し得る点もないことはなく広い意味[br]

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では人類の私有品と云ふこともできよう。従ってある民族の持つ学問や芸術に徹するかぎり[br]
相当な程度までは他の民族の持つ美しさを理解し得る道理である。ここにおいてたとへ学問[br]
の分類が西洋の言葉を用ひしたがって西洋の概念を背景に持ってきたとて支那の学問に[br]
絶対に適用できないことはけっしてない。少くとも支那の学問はさういふ適用に値しない程つ[br]
まらないものではなく比較できない様な低級なものではない。殊に文化はたえず民族の間で交[br]
流してゐて丁度個人の私有品が人々の手を転ずる如く又は個人の思想がたえず友人た[br]
ちの感化によって変化する如く世界の文化はたえず調和のとれる処まで動かんとする。勿論[br]
それには動き易いところもあれば移りにくい場合もある。曾てフランスはルイ十□世のころ非[br]
常に支那の芸術の影響を受けたことは近来それに関する専著さへ二三出来てゐる[br]
ことでもわかるし私も曾てヴォルテールの小説のLa nezの発端が今古奇観のやきなほし[br]
であることに気付いた経験がある。日本などは云ふまでもないことであるが世界の近代化の影響が支[br]
那に及んで支那の学術が西洋の分類に準拠する様になっても別に怪しむに足らない。そ[br]
れ故研究室の書目においても仮に近代と云ふ一□を設けて同じく経学にしても従来の[wr]経[br]

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書[/wr]の取扱ひとは違って来た点たとへばそれが最高の教養といふことを忘れ或は単に史料[br]
としての地位に考へられた場合それは新しき経学とも云へようしむしろ史学に属する方が近[br]
路かも知れない。少くとも思想史として見ることが適切であらう。かくして経学の新しき研究[br]
は哲学哲学史と共に一つの類をなすであらう。小学として経書を読むため或は文字を[br]
知るための手段が独立したる言語の学問となって来た場合そこに語言文字学として[br]
の新しき発足も考へられよう。ことに従来ほとんどとりあげられなかった現代の支那語の研究[br]
が始めて開始されたるが如きは単に支那だけの学問でなくなったことを意味する。同様にして[br]
史学地理学社会科学宗教民俗学と云ふ様な分類の下にその言葉の持つ味[br]
をふくめて新しき学問の分野が開拓されることはむしろわれわれの悦びとする所である。[br]
更に自然科学では久しく埋められてゐた民族の私有品が公共博物館に移されて[br]
新しき光を放つこともできようし芸術にしても文学にしても近代精神に後れをとらぬ様[br]
かけ足で走ってゐるのは何人も認める所であり目録学が自然に図書館学となり索引[br]
となって行くところに時世の大きな推移と云ふものを認める。つまりわれわれはここに支那学[br]

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の解放、それその民族の中での解放でもあり異民族に対する解放でもあらうがともかく一[br]
つの喜ぶべき傾向であり亦必然的の傾向でもある。[br][brm]
しかしここに一つの注意すべきことはかくの如き変化は決して偶然に起こったことではなくこの民族[br]
の中に貯へるものがあってこそこの変化に応じ得るのである。いはば解放され普遍化されるだけの[br]
力があらかじめ備はってゐたのであって丁度新しい小説が花の如く開いたからと云って突然[br]
かかるものが外から移植されたものではなくて外の刺戟によって内にあるものが開かれたのである。健[br]
康が恢復する均合に薬の刺戟が必要であるが体力が伴はねば何等の效も奏しがたい。近[br]
代が要求する学問は支那学に大きな変化を及してゐる。われわれが仮に徳川時代に生れたら[br]
生涯さういふことを知らないでも好かったかも知れない。しかし今となっては否が応でもこの変化を[br]
認識しなければならないと共にかかる変化の原動力としての旧い支那学を忘れては今咲いて[br]
ゐる花の美しさを鑑賞することにさへ大きな支障を生ずることを忘れてはならない。まして今咲いて[br]
ゐる花が昔からそのままであったと考へるとすれば丁度頭の旧い人たちがむかしあった支那学[br]
で今の支那の学問を一律に論じてしまひ或は更に古のみを尚んで今の価値を過小に[wr]評[br]

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価する[/wr]のと帰する所は同じであらう。更に如何なる普遍化の法則があり如何なる解放の道が[br]
ひらけても尚ほ学問は民族の私有品であることは完全には解消し切れない丁度淮水の南に[br]
生えた橘が淮水を越して北にうつされると梠になってしまふと云ふ言ひ伝への様に民族が混一[br]
しない以上には到底この問題は割り切れない。支那自体にしてもその図体の大きさから各地に各[br]
様の学問ができる。たとへば江蘇あたりの人が真先に考拠の学問をやっても陝西省へ行って見[br]
るとそんな風気はなかなか開けずその一代前の理学の臭が非常に濃い故に支那のある新[br]
聞に陝西へ行くと犬でも理学々々と吠えるとかいてあった。そのくせ唐のころは天下の学問は[br]
陝西にあつまり当時の名士はすべてこの地方から出てゐたこともある。况して世界の民族の分立[br]
してゐる状態の下に他の民族の文化を研究しようとすることは一面から云へば極めて困難な仕[br]
事である。そして困難な仕事であるだけ専門の学者が終世この仕事に没頭する必要も[br]
生ずる。ただしその専門の学者は勿論素人ではないから普遍化された一面のみを見て特殊な[br]
一面を見逃してはならないし同時に今日に生れてゐる以上特殊な一面のみに執着して普遍的[br]
な一面を軽□することは許されない。特殊な一面だけ見る人は専門家の範囲に居ることである[br]

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から如何に術語を使用せんとするも自由であるが従来の専門家は此を普遍的な言葉に[br]
翻訳することをしなかった。そこに近代の学問として必然的な要求を忘れて世間から遊離する危[br]
険があった。普遍的な一面だけ見る人はそれ自身の教養として吸収し得る範囲を限って[br]
それが支那文化であると云ふ風な誤解をもち乃至欺瞞を試みてゐた。そこに学者としての資格[br]
に欠くるところがないか普遍化された支那文化だけを望む人は支那には何等心を動かすだ[br]
けのものがないと考へる様になり易い。さうなる人を私はむしろ聡明な人物として尊敬したい。特[br]
殊な一面だけを与へられた人は自分がそれを理解するまでの高い教養を長年かかって積まぬ限りその味覚を[br]
ほしいままにすることは不可能である。私は□□□支那学者に対しその心がめへの反省を求めると共に次の[br]
時代を荷ふべき若い学徒のための研究法が改善されることを心から祈るものである。勿論単に[br]
迷信的に支那の学問が日本の将来を指導する様な空虚な議論に終始する人々と支[br]
那学者とを同じ列においてはかりにかけられることは迷惑であって近代に生きて広く学問の[br]
呼吸をした人々の仲間で支那の学術が世界でどういふ地位にあり日本人としてはどう研究してゆくべきか[br]
と云ふ問題を今後とも真剣に討究してゆきたいと希望する。そしてかかる討究に[wr]精[br]

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進される[/wr]人たちに対する言葉として自分は如何なる支那文化の断層にたっても必ずそして常に全[br]
体系との連絡を考へて頂きたいと云ふことを申し□へたい。[br]
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