講義名: 支那学概論
時期: 昭和15年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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か十年で完成したところから見てその微瑕を見のがすのが当然で戴震なども経部の編輯[br]
として激務の為に健康を害し逆に早く没したといふことであり邵晋涵の如きは史部の編輯とし[br]
て正史の解題を執筆したがその最初の原稿は史記ならば史記の由来を論じたものであるが[br]
今の提要はさういふ大体論をすてて取らず細かい点のみに限ってゐる。それは邵涵の四庫全書提[br]
要分纂稿といふものが紹興先正遺書の中に刻せられてゐるので知られるがつまり大体[br]
論の如きは何人も知ってゐることであるからかかることを書き列ねるのは品格に関するといふ考[br]
であってそこに支那の書物に共通した特色が見え文化の古い国家に於て発生すべき当[br]
然な現象とも云へるので単に此を以て細かい点のみを考へてゐると定めこむことは非常なあやま[br]
りである。[br][brm]
この巨大なる著述が完成して一切の書目は以後この分類を以て基礎とすることになったが[br]
その実乾隆時代は漸く清朝の文化が興隆しかけた時代でその影響として清朝に特有な[br]
る学問著述が彬々として表れたのは正に乾隆以後のことで従って乾隆に成った四庫の分類[br]
には清朝の有名なる著述が収められぬのみかその分類法も清朝の学問を指導するには必[br]

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ずしも適切でない点もないことはない。その点について特に注意された書目は[br]
張之洞の編と称せられる書目荅問であって第一に経史子集の外に叢書と別録とを考[br]
へたことで元来叢書は明にも若干あるが真に有用なものは清朝に入って作られたものが多く[br]
荅問にも叢書が最も学者に便利であるのは一部の中にいろいろな書籍をふくみ残欠[br]
したものを蒐め佚したものを存しその功はとても大きい。多く古書を読まうといふ人は叢書を[br]
読まねばならないと教へてゐる。別録とは初学の人の読本で評点などを加へて文章を作[br]
る参考にすべきものでたとへば品格は劣るとも初学の入門として肝要な書物をあげてあるか[br]
ら初学者の指導としてはまことに親切である。さて経史子集については(一)正経正伝(二)列朝[br]
経注経説経本考証(三)小学に分ちテキストと注釈と研究法とを示したあたり鮮やかな[br]
やりかたで注釈について特に面白いのは論語孟子四書と云ふ分類であってそこに漢宋[br]
二学の深渭を明かにして論語孟子といふ分類は専ら漢学に偏し四書はその名の示すごとく[br]
宋儒のもので大学中庸のごときは別に別に目録に立てない。或人は四書といへば論語孟子もふ[br]
くむか或は大学中庸と別に立てることを論ずるがこれは全く素人考であって四書といふも[br]

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のが考へられたのは全く宋学あってのことで宋学を信奉するならばともかく漢学に重きを[br]
おく以上には宋儒の考を以て漢唐の論語孟子を律することは許されない。しからば孟子を[br]
経部におくことも問題になるであらうがこれは宋儒の説を強ひて棄てるといふ攻撃的態度[br]
でなく初学者の指導としては当然已甚に至らぬことが必要である。テキストについても古注本[br]
を列挙し最後に宋元人五経乃至四書章句集注をあげてゐることがその証左である。[br][brm]
史部において編年類に通鑑をあげて標準とし最後に綱目をあげたのも学風の差を示した[br]
ものであり古史の例を設けたのは史学の起る前のもので史書に帰すべきものとして[br]
逸周書国語国策山海経竹書紀年穆天子伝世本家語晏子春秋越絶書呉越[br]
春秋列女伝新序説苑を総括したものでいはば史前の史でありまた古代史の史料と[br]
もなるものである。而して金石を特に重んじて目録図象文字義例に分ってゐるのは清朝[br]
一代の金石学の発達に応じたものであり地理のところでは今文の地理の学は詳博にして拠る[br]
べく古の地理書はただ経文や史事及び沿革を考ふべきで経世の用とするには今人の地理書を読むべ[br]
しと注意してゐるのは正に外国との交渉の萌ざした時代を想はしめる。[br][brm]

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子部においても周秦諸子として儒兵法医天文算法名墨縦横雑道などの諸子を一[br]
括してあるのは正に諸子における古典としての共通性があり清朝においてはこれらの諸子はもはや思[br]
想としてではなくして訓詁として研究されたことを物語るもので同時に分類の整[br]
理においても発展性のない思想が消えてしまふことになる。そして儒家とか兵家とか法家とか農家[br]
とか医家とか云ふものが後に現れる中でも儒家で著るしいのは宋明諸儒の理学の書籍[br]
と並んで清朝の考訂の書籍が夥しく挙げられてゐるのは固より諸子に属すべきものではないが[br]
さりとて雑家の隅に押しこめておくのは気の毒で一代に崇ばれた学風を表彰したものとして[br]
興味が深い。天文算法に至っては特に中法、西法、中西兼用の三家をたてて西洋科学の[br]
侵入してくることを掲げてゐるのも時代色といふべく最後に類書を忘れないのも清朝学術の[br]
一面を語るものである。[br][brm]
集部では特に清朝人の流別をかんがへ先づ理学家集、考訂家集をあげて儒家の理学と考訂とに[br]
応じ更に古文に転じて不立宗派と桐城派と陽湖派をあげ駢体文、詩、詞に分ちて[br]
之についでゐるのはさながら清朝文学史の鳥瞰といふべきであり総集に文選を特に挙[br]

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げたのは清朝における選学の復興を認めるよすがとならう。之を要するに支那の学問が今日の[br]
如く変動せざる間における正統な研究法を示したものであって見れば清朝で大成した支那学[br]
の一覧表として読みかたによっては正に一部の支那学概論と考へて差しない。たとへこの書[br]
に云ふ如く必要な書物を購ひ求めることは困難でもこの書そのものは必ず座右に備ふるに必[br]
要がある。[br][brm]
書目荅問はその名の示す如く初学者が学問の門径をえんが為に如何なる書籍を購ふべきかを[br]
示したものであるがその実極めて高級なものでかかる書物を全部備へることは勿論、比較的切実[br]
な書物だけでも座右に備へることは困難であるから勢公共の図書館を利用しなければならない。ことに[br]
近代の図書館は一面叢書の発達と相待ってカード式の整理により叢書中の書物をそれぞれ[br]
経史子集の各部各類に引出すことが考へられた。かかる書目の最初とも云ふべきは民国元年ご[br]
ろに編印された天津図書館書目であってカードによりて現はれる草書の子目を収めたるの特[br]
種の用意として分類が極めて細かくあたかも通志の分類の如き趣がある。且つその名称も相当[br]
雅馴であるところから先年京都の東方文化研究所の蔵書目録を作るときに四庫によること[br]

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は勿論であるがなほ書目荅問を天津図書館書目の好いところを参照して一つの案を作りあ[br]
げこれが東方文化学院京都研究所漢籍目録並に近く刊行されんとする子目をふくむ詳細[br]
なる目録の基礎となったのであるが東京帝国大学文学部支那哲学研究室の蔵書を[br]
整理するにあたっても根本はその案を踏襲しただ研究室にて特に重きをおく方面と然らざ[br]
る方面にわけて若干の手心を加へ分類もあまり細に過ぎぬ様、しかし同一類の書物は常に[br]
年代を逐うて排列できる様に編纂したもので諸学の利用を待つものである。[br][brm]
然るに清朝に大成された支那学は果して如上の分類によりて完全に示されてゐるかと云ふに必[br]
ずしも然らずことに大きな欠陥は表面を□るに急であって裏面を忘れてゐることである。支[br]
那人が一番多く読む書物は何かと云へば一つは四書集注であり一つは三国演義であると云[br]
はれる。四書集注は奥に表面を飾る学問の門径であって程氏の言葉を借りれば「大学は孔[br]
氏の遺書で初学の者が道徳に入る門である。今の時世に古人が学問をする順序を知ることの[br]
できるのはただこの篇が存するお陰で論孟はその次である。諸子はこれによって学ぶならば[br]
大体間違ひはなからう」とあるが人間の生活は道徳に入るばかりが能ではなく一面その裏を[br]

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考へることも必要である。生活のあるところに学問が存する以上支那学も単に大学から[br]
入るだけでは不完全であって別の一つの門或は裏門は三国演義である。もし想像を許され[br]
るならば表門を入らぬ人はあらうが裏門を入らない人はほとんど無いと云っても好い。それは目に[br]
一丁字もなきものでもかの東坡志林に云ふ如く「家では手におへない餓鬼どももおあしを貰って[br]
三国の話をききに行くと劉玄徳が敗けたときけば眉をひそめ涙を出すものがあり曹操が敗[br]
けたときけば喜んで拍手する」といふことは支那民衆の教育であり裏門も亦一種の[br]
徳に入る門であることが証明されよう。しかし裏門があるからと云って直にこれを支那学[br]
の一科に加へることはたとへ張文襄公でなくとも躊躇せねばならないがその裏門から入るべ[br]
き一つの系統こそは在来の目録から注意されず或は故意に壓迫されたものと云は[br]
ねばならない。少くとも従来の目録家は堂々たる書目にはこの種の書物を著録し[br]
ないのがきまりであるがたとへば王圻の続文献通考にはかかる系統の毘琶記□□□な[br]
どを著録したといふことで注目もされ批難もされてゐることでもその消息を知ることができよ[br]
う。特に清朝においてこれを考へても書目荅問には影さへささない書物が極めて多く行はれ[br]

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それも単に餓鬼どもだけの物ではなくて堂々たる読書人が愛玩し愛誦しておかない本が[br]
少くない。たとへば紅楼夢の如きある家庭では禁じて読ましめないので読んでゐないものもあ[br]
るが之を読む機会を得たものにとっては耽読また耽読したもので現に北支政府の大官[br]
たる某氏と談たまたま紅楼夢に及べば娓々として尽きるところがなく史清雲が牡丹のそばで[br]
眠ってゐたか芍薬のそばで眠ってゐたかまで手にとる如く覚えてゐる。紅楼夢を遊戲化した雙[br]
陸もあれば酒令もあり謎もあり夥しき流行である。〔朱昌鼎(文芸雑誌八)〕人は経学から横の一と縦の巛を削[br]
れば紅学となるとさへ云ったと云ふ。ここにひとつの学問があるといふことは決して過言ではない。[br]
儒林外史の如きも〔文芸雑誌八〕かの張文虎といふ如き博洽な人が□□に銭塘孫氏の復園にて書[br]
を校したが天気のよい時は西の□□茶店へ出でお茶を買って飲むので人がそんな下品なやかましいと[br]
ころではと申すと先生は儒林外史のおさらへをしてゐるのですよと云って済ましてゐるので人[br]
も二の句がつげなかったと云ふ。まして西廂記などは紅楼夢を見ても花落水流紅、閑愁萬[br]
種と云って林黛玉の涙をしぼったが林黛玉も賈宝玉が西廂記のことばで言ひかければ柳眉[br]
を逆だてて怒った風をするのは蔭で暗記するほど読んでゐるからに相違ない。しかしこれら[br]

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は決して無学な労働者や手におへない餓鬼どもの理解できるものではなくやはり支那文[br]
化の高い教養があってこそ理解されむしろいよいよ高い教養がいよいよ深い理解と愛着[br]
とを与へるものである。然しこれらは七万九千七十巻といふ四庫全書に収められてゐない。そこに[br]
蔽はれた一面があることは注意されねばならない。尤も蔵書家の中では銭遵王の也是園[br]
書目にはかかる類のものが夥しく著録され更に黄丕烈の詞山曲海に□した如き珍本[br]
蒐集家の手には相当伝へ□はれたものの如くである。[br][brm]
民国に入って文学革命が唱へられてから在来は裏門として蔽はれて来たものが公然と開か[br]
れた。むしろこれが表門であるとさへ考へられるに至った。これはある意味での文学革命の大きな[br]
収穫であって支那学の知られてゐて而かも抑へられてゐた一面を開放したことは支那文化の[br]
発展にたしかに効果あることでもあった。ここに於て水滸伝紅楼夢の如き白話小説が新[br]
式句読の□令にて続々と公式に進軍をはじめた。文章の体裁も桐城派を学び八股を[br]
勉強することをやめて白話小説の技巧を応用して憚らぬ世になった。かかる小説乃至戲[br]
曲の分野が目録の中に要求されて然るべきことになった。戲曲は多く集部の末に附載さ[br]

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れたが小説は子部の一部に小説家といふ名称があるためにここに附載されるのが一番簡単であ[br]
るがその実この小説は白話小説とは趣を異にした筆記小説であるから単に小説といふ字面だ[br]
けで両者を雑揉することはいささか倫を失する嫌があり我々は集部の末戯曲の後に一[br]
類をひらいてゐる。これも集部と考へることは問題もあらうが集部が詩賦乃至文翰[br]
の異名とすればこの取扱も必ずしも批難されないと信ずる。或は純粋の支那学的取[br]
扱から云へば在来の表門と裏門とを雑揉しない為裏門は裏門として別の目録を考[br]
へることも一案であらうがその文章詞彩を尚ぶ点から見れば必ずしも文選や唐詩にま[br]
さるとも劣らぬものがある。少くとも四書集注だけから入って支那学がやれるといふ様な考[br]
へかたは極めて偏頗であっていはゆる盾の一面を見たにすぎない。[br][brm]
抑かういふ風に支那学の裏門を開放しあるひは表裏ともに大手を振って歩ける様にな[br]
ったのはたしかに西洋の近代文学の影響であり単に科学だけでなくして文学思想が人の[br]
心を動かした結果であってかの王国維先生が若きころシオーペンハウエルやニーチエを耽読[br]
してひるがへって紅楼夢を見出したことがアメリカ帰りの胡適を驚かしたもので王国維先生[br]