講義名: 支那学概論
時期: 昭和15年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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階□にたつていゐる。左右の壁は書架になつてゐて洋書がたてにたてかけてある孔子その人の[br]
風貌は西洋画のせいもあるがたしかに西洋人としか見えない。これは勿論西洋人がまだ支[br]
那といふものを知らない時代のこと故、致しかたもないことではあるが孔子は西洋化してしまつて[br]
ゐる。これと同じ事例を反省するとき孔子を日本の現代人としあるひは独逸人にしてし[br]
まふ研究が日本にも少なくないことを考へなければならない。孔子を理会するためには一旦孔[br]
子そのものに底して考へねばならぬ。西洋人が孔子を考へたのも論語の訳などによつて想[br]
像したものであるが論語の国訳が孔子の国籍を転じ現代人が独逸風に考へるこ[br]
とが孔子を独逸化する訳に立たう□□ものである。論語よみの論語知らずといふ俚諺[br]
が真理を映ずるものとして考へて好いこともある。つまりそこに史学としての研究法、[br]
語学としての研究法、それらを綜合した支那学としての研究法がなくてただ一図に[br]
思想の展開だけを考へるとき、ちやうどタンクで猛烈に進んだは好いが暗夜で故障を[br]
おこして友軍との連絡もきれた様なもので大きく見た戦争の効果にはかへつて損失を来[br]
す場合が多い。[br][brm]

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わが国は徳川時代においては先にも云ふ如く漢学といふものが学問の王者にゐたから漢[br]
籍を読むことがあらゆる学問の基礎と考へられた。それ故漢籍を読ましめるための方[br]
法論はなほ発達しなかつたけれどもたとへ方法論にに欠陥はあつてもこれを猛烈に且つ長[br]
期にわたつて訓練すればいはゆる□□りで行く方法であつてある程度の効果を奏す[br]
ることができる。五六歳にしてすでに漢籍の素読が課せられ七八歳にして詩を作ること[br]
を学ぶのは今日からみれば驚くべき早期教育であつてその結果素読から次第にそ[br]
の意味をさとりたとへ言葉としては一種変□な国語で訓読して、遂に原文の訳と[br]
は言ひかねる様な場合も、よく国語を超えて直に漢籍の意味をつかむことに[br]
成功してゐる人もできた。たとへば島田重礼先生が朱子の通鑑綱目に王莽大夫[br]
楊雄死といふのを王莽が家老の楊雄めがくたばつたと訳されたといふ話の如きはその[br]
訓練の極意を示すものである。しかし今の学者はそれだけの訓練を施される機[br]
会がなくて方法だけは依然として旧式であるため訓練からえた効果を身に持つ[br]
ことができない上に旧式であるための弊害がはつきり表れて来た。それが今日の学者[br]

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の共通の欠陥として漢籍の読解力の不足といふことが起つて来た。好く言へば伝統を守[br]
るといふことであるが伝統を守るといふことは決して進歩を阻碍するものでなく真の伝統[br]
は時代と共に新でつまり□□の□盤に□か日に新に日に日に新なるものがなければならな[br]
い。さもなければ時代の波に推しながされて自ら墓穴を掘るものにすぎない。現に徳川時代[br]
だけの漢学の力量が保有されてゐたら心強いわけであるが今の学者はその方向にお[br]
いて甚しい逓免がある。しからば新しい意味の学問としてどれだけのことが起つてゐるか[br]
と云へばつまり徳川時代の人の夢想もしなかつた方法論によつて西洋化した支那学と[br]
いふ者が一時流行した。手つとり早く云へば研究する対照は支那で、研究する方法は[br]
西洋で、研究する人間は日本と云ふよく云へば八紘一宇的な気持もするので一時は[br]
相当流行する要素もあつたであらうが落ちついて考へるとこれは決して伝統を守る[br]
方向に行かずに伝統を破壊する方向に進んだもので勿論時代とともに伝統を新にするも[br]
のではない。もし果して伝統が守られるとすれば徳川時代の漢学のすぐれた点が保存され[br]
足らざる点が補充されてこそであるが徳川時代の漢籍の読解力はどんどん失はれ[br]

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て行き支那学者と素人との漢籍のよみぶりが次第に接近してゆく。つまり素人が専門[br]
家に追ひついたのではなくて専門家が落伍して素人と選ばなくなつたのである。もし専門[br]
家が西洋風の方法論で進んでしかも素人ぐらゐの読書力しかないとすると素人の方は[br]
さすがに西洋学の本質を心得てゐるだけその方法論は支那学者などの及ぶところで[br]
はなく結局素人の説のほうがずつと興味がある。丁度教化団体で学者と実地の[br]
経験家とが轡を並べて出馬したとき常に学者の談が物足りず□澤さんなどと云[br]
ふ人物の言ふことが聴衆に深い感銘を与へるものである様に学問においても□[br]
様でなまじ西洋かぶれした言ひかたをするばかりにかへつて後れをとる様なことが多[br]
い。つまり学問はある一面に徹したところがなければならない。徳川時代の漢学はたしかに[br]
徹したところがあつたが今の学者――と云つて徳川時代の訓練をうけついだ先生たち[br]
は別であるが――さういふ訓練が二番煎じになつたわれわれ以後のものはその徹するとい[br]
ふ道を自力でひらいて行かねばならない。たとへば武道の試合でも剣の達人は剣をとつて[br]
よく槍の名人と互角の勝負ができようが剣のことも不十分でやりの稽古をかぢつたと[br]

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て互角はおろか一突きで突き伏せられてしまふ。突き伏せないのはあんまり気の毒だから[br]
と云ふにすぎない。剣で達者になれば時によつては誠に槍をとつても一勝負はできる。山本[br]
有三さんの不惜身命といふ小説の中に主人公の小堀といふ侍が実蔵院流の槍の名[br]
人中村市右衛門と御前試合をすることを命ぜられて家老から「市右衛門は十字[br]
槍ときまつてをるが、先方□槍だからと申してこちらも槍で相手をするには及ばぬ」といはれ[br]
たに対し「某は真槍をもつて仕合をいたしたう存じます」と答へて結局たんぽの槍で[br]
互角の勝負をやつた話がある。一芸に達したものはその芸についての心得から相手[br]
の芸を見とほすことができる。西洋の学問に見とれてゐる間に支那学で死にもの狂ひ[br]
の勉強をすれば結局西洋の学問のよさも自らわかり戦はずして敵を制する[br]
こともできる。要は自分の修業如何による。[br][brm]
この修業をする上の一番のさまたげは支那哲学とか支那文学とかいふ観念で、もう[br]
その第一歩から西洋風の哲学とか文学とかの匂がする。たとへ西洋の方法論で行くこと[br]
ばかり考へずとも常に西洋のことが気がかりになる。丁度剣の稽古をしてゐながらこの頃は[br]

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槍がはやると云つては槍の稽古をちよこちょこやる様なもので、修業時代にはよほど注意[br]
を要する。支那学に打ちこんでしまへば人がどうあらうと更に頓着なく思ふさま学に[br]
徹する境地に入ることができるがその為には西洋学に盲従することはもとより西洋学[br]
に対抗するといふことも意味ないことである。ところが支那哲学とか文学とか云ふ[br]
名は西洋学に盲従するといふ時代精神が生み出した名称であつてこれがあつてこそ[br]
支那学は永久に独立した学問となることはむつかしいと云はねばならない。[br][brm]
勿論今日は徳川時代ではないのであつて少くともわれわれは高等学校までに西洋の近代思[br]
想や文芸による教育をうけてゐることは争はれない事実でありたとへ学校生活がそれ程[br]
意味を持たずとも社会全体がさういふ雰囲気に包まれてゐる以上さういふ思想的環[br]
境の影響を持たずに済むはずのものではなくそれだけさういふ状態の中から日本に支那学がとも[br]
かく存在するといふことが一つの謎とも云へるし或は旧時代の種子が思はぬ時分に芽を出す[br]
関係からかも知れない。しかし同じく旧時代の種子であつても芽を出す以上は新時代の空[br]
気を呼吸する筈でありやはり徳川時代とは同じくない□がついてゐる。しかも徳川時代の漢学は[br]

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それ自身が最高の国民教養であつて支那学と国学との境が曖昧であつた。孔子の廟[br]
の祀が最高の典礼の様に施行されたのも正しく国学としての問題であつて支那学者の[br]
本領とするところではない。さういふ時代をそのまヽ今日にあてはめて孔子の祭典に支那学者[br]
は必ず出席すべしと要求することは無意味のことであつてもし出席してもその支那学者は[br]
聖廟の規模結構を研究し祭典の儀式を見学する精神が強く到底無条件[br]
の崇祀といふことを受けつぐことはできまいと思ふ。そこにやはり近代精神が動いてをり[br]
日本と支那との差といふものが頭の中にはつきりと意識づけられてゐる。故に支那学[br]
が漢学と違ふところは一面には支那に対する認識があるといふことでその反面には日本[br]
に関する認識があることにもなり更に他の一面に於ては近代の思想による科学的[br]
精神の□つたものでなければならない。しかしと云つて西洋学と合流することをたつとしとし[br]
西洋の考へかたにわたりをつけることを賢しとしあるひは西洋に盲従せぬまでもたへず西洋[br]
に気兼ねした小心翼々たるものであつてはならない。支那に対する正しい認識を以て支那に生[br]
長しまた生長すべき学問をながめ近代の科学的精神を以て日本人の立場において[br]

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研究することが要求される。[br][brm]
日本人の立場と云うものは、われわれが支那学を研究する上において容易に忘れることのでき[br]
ない問題であるが、さりとて日本人に必要なものばかりを研究するという意味では毛頭な[br]
い。結局は日本人の必要に□するものでも最初から日本人の必要ばかりを目標とする時は[br]
決して日本人の必要なものを紬ぎだすことはむつかしい。早い話が一つの商店を経営す[br]
るにしてもその商店の経営が顧客の便宜を主として自分の労力をいとはねばこそ顧客が[br]
段々ついて経営がよく出来自然純益を得るわけになるかもし最初から労力を惜んで利[br]
益を得ることを目標としたならば到底□期の効果を奏することが出来ぬ様なもので[br]
最初から支那学が日本の為に存在する様に考へることはやはり徳川時代の遺習であ[br]
って日本を標準として支那を見ることは支那を以て日本に隷属させようとするものでかうては[br]
真の支那の姿を認めることが困難であるから自然真の日本の必要に応ずることはできな[br]
い。今の日本精神といふものに支那学を附会して支那学こそは日本精神の□□者であ[br]
るといふ様な顔をするさもしさは科学者としての態度ではなくて政治家の□□であり事[br]

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かくの如くなるのはやはり科学者としての自信が欠けてゐることを自白するものに外ならない。[br]
自然科学者は宇宙のことをその真理として探求するがその探求につれて世界の人[br]
類を利しすなはち日本及び日本人に利益を与へる。それが世界の幸福であつてもやはり日本人[br]
は日本の幸福を希ふであらうし日本の中で考へれば己の所属の団体乃至家族故幸[br]
福を希ふであらう。科学者も人間であり日本人であると云ふ意味において支那□□日[br]
本における立場といふものを認められるがこれを最初から求めようとして方法論までを[br]
歪めることは最も危険である。[br][brm]
これと同様に西洋学に対して無用なる摩擦をもつことは避くべきであるのみならず西洋学[br]
の方法論も近代科学の精神として支那学に於ても利用すべきところは多々ある。むしろ西洋学の方法論が支那[br]
学の自覚をうながしたと云つても好い。と云つて支那学と西洋[br]
学との間に存する大きな差異は決してこれがために抹殺されるわけのものでもなく又特[br]
に支那学が西洋学の□□とならねばならない理由はなく両者が互に重んじ互に敬ひ[br]
そして互にその特質を交換することが広い意味における学術の発展を促がすもので[br]

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あることを□□すべきであって狭量なる支那学万能論は徳川時代の漢学の延長に[br]
すぎず近代文化の社会にはもはや適合しがたきものであることと逆に一切が西洋学の下[br]
風に立つべきものであるといふ観念も亦明治維新来の欧化思想に眩惑した時代の[br]
産物にすぎず支那に関する正しき認識の□達と共に当然解消されるべきものであ[br]
ることが知られねばならぬ。[br][brm]
この意味において文学部における支那学は到底真の支那学を代表すべき有機的[br]
機能を持たぬのみか他の学部においてはことに支那関係の講座すらほとんど儲けられて[br]
ゐない現象はたしかに日本の学界が支那学と承認しないことを示すもので西洋学の大学[br]
の中に寄生虫の如き支那学の講座が大学において国家において何程の□□ができよ[br]
うか。単にその数の多寡のことを比較しても十分に了解できることではないか。[br][brm]
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