講義名: 支那学概論
時期: 昭和15年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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支那学とは支那と云う国土において支那人と云ふ民族において創められ発達して来た学問[br]
である。支那と云ふ国土は考へ様においては広狭さまざまの地域があり支那人と云ふ民[br]
族も随分さまざまの人種をふくむものである以上その学問ももとより一定の概念をもちえ[br]
がたいこともあらうがさういふ末梢的な問題を越えて極く大づかみに考へて見ればこの国土と人民[br]
とが世界における厳然たる存在である様にこの学問も亦世界の文化における一つの重大な[br]
る地位を保有してゐる。歴史において之を見るならば支那といふ国家は曾て漢とか唐とか清とか[br]
云ふ時代に東亜における大国を成したと云はれるも、世界における大国としてアジアの大部[br]
分を包み即ち当時における世界文化圏の大部分を占めた。それにもまして興味のあることは[br]
支那の文化は支那の国境を越えてその周辺の立ちおくれた民族に流れて行ったからこれ[br]
らの民族は自ら支那を以て文化の中心と認めて此に服従する態度をもつたがその態度[br]
があまりにも衆星の北辰に拱するが如くであつたためその中心たる[br]
北斗から之を見れば満天の星宿が尽くわが指揮の下にある様な気分となり政治的な国[br]
境に対して注意することなく文化の光被する範囲をすべてわが国土とする様な[wr]錯[br]

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覚[/wr]が生ずる。これは支那の周辺にあつた民族に比して支那人の文化が極めて高かつたことを[br]
証明するものであつてたとへ政治上の区画としては地理誌に見える様に一定の限度は[br]
あつて、その地方を統□すべき政治的支配者の任□を自由にする範囲は今のいはゆる[br]
支那本土からさまで遠くへ出てゐなかつたに違ひないがその文化を慕うて□□で□□する[br]
国家は支那から見れば一つの文化圏でありそれがほとんど見渡すかぎり無限に継続し[br]
てゐたことは、支那の国家が亦見渡すかぎり無限に継続していると考へ易い支那の為[br]
政者が長い間これを反省しなかつたのは正に支那文化があまりにも強かつたことが原因[br]
であつた。[br][brm]
勿論支那の周辺にある民族が武力によつて漢民族の国土を蚕食して或は東晋の南[br]
渡のごとく或は南宋の佛安のごとく中原を席巻したことは歴史に著明であるがこれらの民[br]
族は漢民族を打倒するだけの武力をもつてゐても遂に漢民族を圧倒するだけの文[br]
化を持たなかつたことは漢民族の伝統的文化の衿持を失はしめずに済んだ。支那の南方[br]
の地名に今でも南通□といふ様に南といふ名を冠したものが□発見されるのは大概[br]

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東晋の南渡に際し支那の国境をそのまま現在の政治区域内に縮めて示した方法の[br]
名残りであつて実際はわづかに江南半璧の天であつてもそこに支那の全領土を倒影[br]
して支那は少しの損失もないといふ態度である。いかにも当時の北方民族は単に武力[br]
のみのものであつて文化において見るべきものがないと云ふことは支那文化が少しの損失も[br]
ないことを意味しその上領土もかうして縮写すれば縮計において何の変化もなくやはり[br]
支那民族は世界文化の指揮者たる地位を失つてゐない。それのみならず何時かはそ[br]
の侵略者を追払ひまたは懐柔して中原の地を回復することも希望される。南宋の[br]
皇帝の陵は今の紹興府の南にあるが此を陵とは称せずして横宮と称するのは正[br]
しく柩を假に葬つて時だに到らば重ねて汴京の地に□葬しようとする考であら[br]
うが春風秋雨数百年近くの歳月が流れてもその希望は実現しない。南宋の皇帝は[br]
今にその夢を抱いて紹興の郊外に眠つてゐる。魯迅の小説「阿Q別伝」に表れてゐる[br]
阿Qといふ人物は今では阿Q型と称する一つの典型を持つことになつてゐるが、その[br]
性格はたとへば小突きまはされても殴りつけられても辮髪をねぢあげられても壁にぶつけられても[br]

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「子供に殴られただけだ」といつて精神的に満足する。子供が親をなぐるのに親父が殴りか[br]
へさないのは親父が偉いからだと考へる。さうして何時か子供が弱つたすきを見つけて親父が威光[br]
を示さうといふヂエスチユアを取る。[br][brm]
かやうに殴る奴には殴らしておけ、親父の偉さは別だぞといふ安心は清朝の末年に至つて手[br]
強い子供にぶつかつても同様に続いた。元来秦の始皇帝が万里の長城を築いて匈奴[br]
を防いだのも考へようによつてはあんまりうるさいからここから入るなと云ふ指図をした気[br]
分であり康煕年間にロシアと黒龍江で衝突してネルチンスク条約を締結したのもこ[br]
こまで来ることを許す代りにもう中へは入るなといふ思想であり阿片戦争以来西[br]
洋諸国に対し租界を設けたのも同様の考へかたである。〔矢野先生東洋史近世概説〕外国に貿易[br]
を許すのも外国は物産が貧しくて絹も茶も大黄もないから之を恩典として分与する[br]
といふものでありもし外国の態度が不遜ならばかかる条約は当然その懲罰として停止[br]
して差支ないものであるといふことは支那はあらゆる国家に超越したものであつていはゆ[br]
る四海を家とする支那の地位はこれが為に微動だもしないと考へるのである。[br][brm]

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かくの如く今日から見れば滑稽と見えるまで思ひあがつた支那人の自尊心はたしかにそ[br]
の伝統的な文化に対する信仰によるものであり支那文化に対してかくまで信仰したといふ[br]
のは支那文化が周遍の民族に比して著るしく早い時代から非常な高度に達して[br]
ゐたことによるのである。すでに高度な文化が□達した以上、その地位は自ら固[br]
定しちやうど封建的な地主と小作との関係の如くそこに絶対的な優越感が生ず[br]
ることは当然であり地主と小作とは能力の問題よりもむしろ世襲的な地位がその絶対[br]
的服属関係を形づくる様に支那文化の絶対的優位といふものが確立して以来[br]
地球の半分における文化はすべてその後塵を仰いだのである。早い話がわが国において[br]
日本の歴史が支那の文章で書かれ日本の文学が和歌の形をとらずして七言[br]
絶句で表された。或は日本の思想の基礎を支那の古典に求め、つまり日本民族の生活を支那文化の下に置いたことは決して太古のことではなく今でも石碑と云へば漢文で書く様[br]
に思ひ総理大臣になると漢詩を作つて見せる。漢学で人民を教化するといふ様な習慣は決して政治的にも支[br]
那の属国であるといふ様な考はないが文化から云へば支那がすぐれてゐると思ふ[br]
□□が偶然に今になっても残ってゐることを示すものである。[br][brm]

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しかるに支那の近代史上もっとも注意すべき阿片戦争の勃発は遂に南京条約[br]
に到達した。阿片戦争とは林則徐が道光十八年欽差大臣として広東にのぞみ、阿片[br]
を厳禁すると共に、翌十九年英国商人の貯へた阿片を焼却したことに端を発して[br]
英国が広東を攻めたに始まるものである。[br]
そもそも英国との貿易ははじめ東印度会社の専ら掌るところであ[br]
ったが道光十二年〔一八三二年〕以来英国の一般商人に開放し英国政府より領事を派遣[br]
することになった。しかしこの領事なるものは決して支那政府官吏と直接対等に[br]
交渉する権利はなく、支那の「行〔ホング〕」と称する介して稟といふ請願書を[br]
提出しこれに対して支那政府の官吏から行に諭して領事に伝達せしめたものであ[br]
った。しかるに南京条約の結果として広東厦門福州寧波上海の五港が開かれ、しかも[br]
この度は恩恵として与へたる貿易ではなくして戦敗の結果強制されたものであった。[br]
これより以後この開港場に駐箚する外国の領事館は「行」を経由することなくして直[br]
接に「照会」といふ形式で支那政府の官吏と直接交渉することが出来る様になった。これ[br]

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ぞ支那が外国をば対等のものと認めた最初の記念すべき条約であって支那が外国[br]
をば対等と認めたと云ふことは外国の地位の向上と云ふよりも支那の地位の顛落と[br]
いふことに重要なる意義が存するのである。支那はかうして近代国家としての洗礼[br]
をその好むと好まざるとに拘らず事実として受けざるを得なかったのである。[br][brm]
もとより南京条約がその洗礼であるにしてもこの老大国たる支那そのものは決して簡単に[br]
近代国家となることはできない。わが国ならば安政条約から明治維新に至る期間はわづか[br]
に十数年にすぎずしてかの驚くべき改革が達成されたが支那においてはかかる短い時間[br]
にはほとんど何の変化といふほどの変化が起ってゐない。むしろこの阿片戦争なるものは英[br]
国の不道徳に本くといふ考へかたが強く、すなわち英国の貿易はじめの中は全く輸出[br]
がなくて輸入ばかりであって支那は常に茶や絹によって多くの銀貨をえたばかりで英[br]
国の商品を必要としなかったものでもあり英国の商品として毛皮から□□へ、そして最後に阿片が考へられ[br]
て而かもそれが□□成功した。支那としては経済的から云って阿片の輸入を禁止したのである[br]
とも考へられようが当時の支那はもっとゆったりしたものでつまり国民衛生の見地か[br]

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ら之を禁じ始めはただ販売者のことを罰したが遂には飲用者までを罰し遂に死刑を用[br]
ひ極めて峻厳なる方法を以て将来の禍根を絶たんとしたるに対し英国側は支那政府[br]
の禁制品たる阿片を輸入する商人を庇護する態度に出てたるものなれば道徳的[br]
に見て英国は当然非難に価するものである。かういふ立場から排外の空気がますます[br]
広まり広東における□□□□□□□□、佛国宣教師の遭難による英仏聯合軍[br]
の追放から天津条約となり長髪賊の内乱から日清戦争にいたって遂に支那は[br]
一つの深刻な場面に追ひこまれたのである。[br][brm]
日清戦争以前に支那は西洋人の恐るべきことを覚った。西洋諸国の軍艦大砲に対して[br]
支那の軍隊は到底その用をなさないことも痛感した。しかし西洋はまったく特種の文[br]
化を持つものであってこれは一歩を譲っても好いと云って[br]
自ら慰めることができたが曾て支那文化に服従してゐた日本がわづかに二十数年来西[br]
洋文化に寝返りを打ったばかりに支那を敗ったといふことは聞き捨てならぬ問題であって、[br]
かくして支那は単に外国と対等といふ地位まで顛落したのみならず外国の模倣をし[br]

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た日本よりも弱いことを覚ったわけでここに支那の政治や文化について根本的な疑問[br]
が発生して来る。康有為等が変法自強論を倡導して「西洋の富強は武器[br]
軍隊にあらずして窮理勧学に在り、中国の積弱を振ひおこすには西洋諸国にならっ[br]
て学校を起こさねばならず科挙の法を改め芸科文科を併置し[br]
芸科では兵学を主とし文科でも西科を参用せねばならぬ」と云うたのもそれであっ[br]
て日本にならうて西法を採用し富強を致すべきことが世間に堂々と発表された[br]
中国の積弱といふ様な言葉こそ支那の顛落を嘆く先覚者の常に使用した[br]
もので最も適切な叫でもあった。[br][brm]
諺にも大男総身に智慧のまはり兼ねるもので日本の様に規模が小さくて統一[br]
し易いところならば格別、同じ地主にしてもその位置も□□財産も多いほど優越感[br]
も抜け切れず簡単に右から左へと転向することはできないわけでたとへ外国に対する批[br]
難がそれほど強くなくとも自分自身の阿Q式の弁解は相当行はれた。たとへば支[br]
那では墨子の中に相当自然科学的の記載がのるところから支那では古く天文も[br]

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発達してゐたのであるが後その子弟たちが世界に分散して支那がその伝統を失うた時[br]
分に重ねて支那に帰つたのであると云ふ様な負け惜しみを云ふに至っては多少滑稽で[br]
もあるが、これは少なくとも現状においては支那の自然科学は西洋に及ばないことを承認し[br]
たものであってつまり明末清初の耶穌会士たちが精密なる計算によって支那の天[br]
文学を改革したことを認めるものに他ならない。天文善法の如きものは唐においても瞿[br]
曇悉達の開元占経のごとき外国人の著述が伝へられ漢の時代ですら鮮于妄人[br]
落下閎の如き支那人と思はれない様な天文学者の名が伝はってゐるところを見ると[br]
支那の欽天監は相当古くから外国人を聘することになってゐたかも知れない。けれども[br]
普通支那の読書人の修める学問は技術の方向を含めとかくたとへ之を修[br]
めても術と称して学には十分□せぬ傾きもありその方面では西洋人の手を久しく借[br]
りてはゐても直ちに之を支那文化の欠陥とは認めなかったが今や支那文化の中枢[br]
たる文科にまで西学を参用せよと云ふに至ってはその説は決して軽視すべきではな[br]
い。参用せよと云ふことは東西ともに重んずると云ふ様な微温的態度に止まるものではな[br]