講義名: 支那学概論
時期: 昭和15年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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第一は易の三氏を論じ第二は重卦の人を論じ第三は三代に名が易ったことを論じ第四は[br]
卦の辞文の辞の作者を論じ第五は上下二篇に分けたことを論じ易には孔子の十翼を論じ[br]
第七は伝易の人を論じ第八は誰が経といふ字を加へたかと云ふことを論ずるといふ様に一々テー[br]
マについてその説を論じてあるのはつまり分析的に研究して精細なる討論に備へたに相違[br]
ない。決して単に相互に無関係な相反する思想を恣に結び合せるほど論理的頭脳のな[br]
い人民ならば成し遂げないことであるためその論弁の対照が史実の穿鑿に非ずして経伝[br]
の理論づけにあることが西洋風の考へ方の人たちには到底理会されない所である。[br][brm]
勿論支那人と雖も左様な経伝の理論づけのみに十分の満足を覚えるわけではなく六朝の経[br]
学が唐に至って一種の結束をなすや此に代った批判的精神といふものが勃興し陸淳とか趙匡[br]
とかの春秋学がその導火線となり宋の経典批評が発生し史料の正確を期する金石学[br]
の研究となり朱子の尚書古文を偽作とする様な学説まで発生してゆく。支那人が思索[br]
に長ぜず反省と内観とを好まないといふ様なことはある古き時代の考へかたを捕へ、それもそ[br]
の弊のある所のみを抽象したものでこれと対蹠的な立場にたつものも近世には頗る発達して[br]

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ゐるにも拘らずそれらの近世の書物などは一切読まうとせずしてただ古代の書物を生かぢりして[br]
之を西洋の近代思想と比較して簡単に優劣を定めようとするものでこれこそ甚しい詭弁である。[br]
支那の長い歴史においてかかる伝統を重んずる精神と批判を求める精神とはたへず起伏[br]
して極めて興味のある思想の展開を示しその思想の展開につれて日本も亦その輸入の[br]
時機に応じてほぼ此と相照応する様な変化が起ってゐた。これ即ち支那思想が日本に影[br]
興のあることを有力に物語るものである。たまたま明治以後日本の思想界がヨオロツパの[br]
思潮をうけ入れることに急であり支那も亦その方向にむかはんとして日本の如き身程な転[br]
向ができなかったためその近代化としては逆に日本の影響を受けざるをえなくなった。さりとて[br]
過去の日本が支那から何も学ばなかったとか将来の日本が支那から何物も学ぶ必要がないといふ[br]
如き議論はただ西洋学の見地から見て支那の特質支那学の美しさを全く没却したもので[br]
知らぬ人は極めて有害であり、知った□□はむしろその説をなす人が如何に支那のことについて[br]
素人であることを思はしめる。つまりさういふ素人の跋扈するところに支那学の衰微が認められる。[br][brm]
[br]

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支那人が政治や軍治を好まずして芸術を愛好することは前に述べたが支那の芸術は一面に[br]
於ては素人の芸術である。画にしても文人画といふ様なものは決して専門の業ではなくただその生[br]
活の余裕を以て手すさびを試みるもので此を日本の此ごろ見たいに美術展覧会に出店して[br]
優劣を競ふと云ふ様な意味があるわけでなくある点から云へばむしろ匠気をいとうたもので[br]
ある。音楽にしても公会堂で多数の聴衆のアンコールを受けるのは目的でなく静かに琴を[br]
弾ずるといふ幽雅な境地が尚ばれる。いはゆる琴棋書画といふ様なことばはかやうな生[br]
活の支那人に接してこそ極めて明かにその意義を発見するものでもし書商は一个の原種を[br]
書く宝であり音楽は公会堂へ行き画は美術館へ行くといふ風に生活と芸術とがきれ[br]
ぎれになってゐる。日本人から見れば或は了解がしにくいかもしれないがさういふ生活と今の普通の[br]
日本人の生活と比較して何れか幸福であるかといふことは人間としての問題から考へ直してよい[br]
ことであらうと思ふ。[br][brm]
勿論かくのごとき芸術的生活を営むためには第一経済的に安定した状態、社会の秩序が[br]
□ってゐることが必要であり同時にかかる状態を味ふことができる□はやはり社会における□[br]

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も高き地位がなければならない。最も極端まで行けば帝王の生活の如きはその代表と称すべきも[br]
ので、中でも宋の宜和の天子などは身が十善の位に在るのみならずも才も一个の芸術家たる[br]
だけの資格を備へ天下の富をあげて古今の珍奇な美術品を蒐集し□別しただ帝王として[br]
芸術における王座を占めることの喜を満喫された間に国家の政治は紊乱し加ふるに[br]
金の軍が攻めよせてあはれ異郷に客死するといふ悲惨な末路を見たのであるがこれはつまり社[br]
会の秩序が芸術生活を破砕した一つの好い例証となるもので天下に久しく争乱のない[br]
時はかかる風□が朝廷より次第に士大夫に及び読書人の間に芸術的な雰囲気が[br]
漂ふことは清朝の□□に人となった支那の士大夫を見てもわかることでこれと社会の安[br]
定が欠けてきた民国以来の支那人とを比べて見ればその教養において非常なひらきが認[br]
められるのも巳むを得ない。しかし民国以来の支那人にしても文雅な教養をもった人々を[br]
見ることがあるのは正に歴代詩礼の家の出身であった祖先以来の芸術的香気がた[br]
とへ移り香りとしてもその人のまはりに立ちこめてゐるからである。[br][brm]
詩礼の家といふ言葉はまことに面白い表現であって詩は即ち今の毛詩をさし礼は三礼[br]

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紅楼夢

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であって支那の古典の中から特に詩礼の二者が取出されると云ふことは詩はその芸術的教[br]
養を代表し礼はその道徳的教養を代表するものでこの両面を兼ね具へてこそ支那の読[br]
書人としての資格が完全する徳行といふものも必ずしも馬琴流の仁義礼智の化身とい[br]
ふ考ではんくして社会の高い地位を占める人物として耻かしくないだけの行為を持ちその軌範[br]
を失はないことであって勿論極めて拘泥した田舎の小学校□式の往行ではない。その証拠には世[br]
説新語の徳行篇といふものを見ると六朝時代には二つの相反する思想が行はれてゐた。華[br]
族といふ人は子弟に対してきはめてかっちりした態度をとり普段の□間で会ふときも朝廷の[br]
儀式にでも出てゐる様な気分がしたが陳元方といふ人の兄弟は極めて親密にいとしがった生[br]
□としたといふが結局両方の家庭とも家庭の楽は失ってゐないといふことである。又王平子とか[br]
胡毋彦国とかいふ人はみなわがまま勝手なことを誇りとしはだかになって人前に出るといふこともあ[br]
った。その時楽広といふ人が笑って、名教中自有楽地、何為乃爾といふ話がある。さう[br]
いふ王平子たちの行の源は実は阮藉から来てゐるといはれるがその阮藉は一方から云へば非常に[br]
謹慎な人であって言葉づかひが極めて玄遠で人のことをかれこれ云ふ様なことは絶対になか[br]

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ったと云ふ。つまり放縦の様であっても実は謹慎なところに読書人としての品位は落さない[br]
様につとめてゐる。一面から云へば礼法を無視して見せただけであってつまりか□かちの道徳論者を[br]
風刺する気持からの社会運動を消極のかたちで示したところに七賢の真面目が存す[br]
る。中庸ならざる中庸、無用の用といった様なところに一面の社会改革者の主張と品[br]
格とを保持してゐる。况して名教中の楽地を知る人にとっては礼といふものは決して束縛ではなく[br]
して社会の現状を維持するために必要なる□であってこれがその人たちの□□や芸術を[br]
立てて行く唯一の道ともなってゐる。これこそ社会の上流に位する人の当然負担すべきつとめで[br]
もある。[br][brm]
支那の如き孝道を重んずる社会に於ては大家族主義といふものが発達してたとへ九世同居[br]
とまで行かずとも多数の家族が一つ門の内に住むことは一面利害関係が極めて錯綜し到[br]
底日本の家庭などでは知ることのできない複雑な関係が生れる。林語堂の小説にも、支那[br]
の少女が自分の一族の人たちを何と呼ぶかと云ふことに熟達するまで相当な訓練を必要と[br]
しもし間違った場合には赤恥ぢをかくと云ふ話が見える。従って家庭にあっても常に一種[br]

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外交官的な気分が頭を去らず必ずしも自分が有利な地位に坐らうといふ積極的な□□を[br]
伴ふものではないが少くとも自分が教養のないことを人に知らしめない様にといふ消極的な努力は[br]
免れない。従って支那は割合に子供の世界と云ふものが与へられず七八歳にして早くも大人の[br]
世界へ押しこまれる。これは日本でも徳川時代まではさうであって小供の地位といふものを認めずに[br]
すぐに大人にしてしまはれたものだといふ。周作人氏が曾て日本の子供は幸福である凸凹無兵衛と[br]
いふ様漫画を持ってゐるといふ感想を雑誌かに書いておかれたのを読んだことがあるがつまりま[br]
だ日本ほどにも子供は解放されてゐないし勿論婦人も解放されてゐない。すべてが社会の秩序の[br]
中に織り込まれて□□を与へ教養をもつ様にそして将来の地位の為に向□られる。童心など[br]
と云ふことが一向注意されないのは出版物を見ても好く了解できる。支那には子供の為の本[br]
といふものが殆んどない。いきなりむつかしい本をつめこまれるのも正に此が為であった。[br][brm]
勿論かやうな教育は前にも言ふ如き社会の特権階級の手に独占され何人でも此を享用す[br]
ることができない。少年の教育にしても各の家庭に先生を招いて子弟を教育しもし親族の[br]
やや貧困にしても自分で先生も招くことの出来ないものは伴読としてお招伴をするといふ様な[wr]方[br]

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法[/wr]であるから普通教育はおろか多く人数の教育といふものも考へられなかった。清朝時代の書[br]
院などは学術を興隆し学者を養成するに極めて効果のあったものでその書院における課[br]
芸の文の如き今日□□ても読むに耐へる様なすぐれた業績もあるが書院そのものは別に今[br]
日の学校の様に集団訓練をするわけでなくただ毎月何回と定めて文章をかかせ詩を[br]
作らせて之を検閲するだけで後は各自が勉強する仕くみになってゐる。従って卆業もなく[br]
□□を暗記して試験をパスすらこともない。生徒自身がその得意によって進歩すればこれを表興[br]
するが成績の不良なものまで心配してやらうとしない。いはば秀才教育である。すでに社会[br]
的において限られた範囲だけしか教育をうける道がなくその中でも秀才教育を□す結[br]
果、人材は極めて偏した一面にかたまって来るのも当然でつまり教養と学問とも一つの[br]
渾然たる化合物とへて現はれて来る。[br][brm]
従って所謂学術といふものも決して社会において単に学術だけといふ様な抽象的観念で[br]
は認められず教養と地位と甚しきは政治にいたるまでが学術と不可分離の関係に立つ[br]
道理であって、その学術に関する著述といへども決して単なる科学的の記録ではなくして[br]

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一つの共用を示すものであり一つの芸術であるだけに単に大衆にわかりやすからしめると[br]
いふ様な卑近な目標ではなくして最高の文化を打ちたてるといふ理想がこめられてゐる。つま[br]
り一つの著作は世間の知識程度の低い人たちに示すためのものではなくして少くとも自分[br]
と同等以上の人たちを目標としたものでなくてはならない。そこに学術が文化史全体の水準[br]
を高める方向が認められると共に社会一般に普及しようといふ方向が認められないことになる。[br]
支那の言語ことに文字はこの意味における表現には却って適切であって文字の種類が極め[br]
て豊富であるために一般に智識を普及することは困難であるがその豊富な文字の応用に[br]
ついての教養を具へたものにとってはこれほど複雑にして趣味も多くその上芸術的なものは世[br]
界に類例のないことである。たとへば支那の文字が一音節の一義を保有してゐることは此を偶[br]
数的に排列するために最も便利な条件を具へてゐるもので又一見同様な意義をもつ文字[br]
がその夥しき数によってそれぞれの特性をもち或は音の上から平と仄となり或は義として広く[br]
狭く文雅な場合に文雅な文字が用意され古めかしい場合には古めかしい文字が用意さ[br]
れ一字の力によって文章の死活を制することもできる。従って支那人の教育は先づ漢字の[br]

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記憶に初まり次に漢字の対を作らしめ一字対二字対より七字八字と対を作らしめる。かく[br]
して詩を作ることにもなり文章をかくことも練習される。さうして文字の訓練を積むことが文[br]
字に関する認識をえて自然読書も進み学術の進歩に貢献できるといふことになる。支那の[br]
建築を見た人が必ず先づ感ずるのはその構造がきっちり対称的になってゐることである。家[br]
の構造にしても左右に対になる形になって東西の廂房がきちんとできてゐる。都市の計画にして[br]
も碁盤目なりで左右がきっちりしてゐる。北京の市街にしても東に東四牌楼があれ[br]
ば西に西四牌楼があり東四牌楼の上に書かれた文字はちゃんと西四牌楼の上に書かれた文字と[br]
対になってゐると云はれる。文字の建築はもっと自由に簡易にできるところから自然支那[br]
の文章は好んで対句を使用する。たとへ文学的に云ふ意味の対句ではないまでも支那の文字[br]
が一音節づつを代表してゐるが凡そ四音節即ち四字が最も自然の呼吸にかなふところから[br]
四字句が極めて多く使用され四字句を変化した意味において他の句法が用ひられるといふもので[br]
ある。清の葉昌熾の蔵書紀事詩といふ名著がある。宋以来清朝の末ごろまでの蔵書[br]
家の事蹟を集めたものであるがたとへば汪士鐘のところを開いて見ると芸芸散後極何処[br]