講義名: 支那学概論
時期: 昭和15年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
はねばならない。韓非子の顕学篇にも子張之儒、子思之儒、顔氏之儒、孟氏之儒、漆雕氏之[br]
儒、仲良氏之儒、孫氏之儒、楽正氏之儒の如く儒家の中の分派をあげ、相里氏之墨、相[br]
夫氏之墨、鄧陵氏之墨の如く墨家の中の分派をあげてゐるのは、即ちこれらの学派がその最[br]
初の宗師から数伝して互に一家をなしたる次態を推測すべき貴重なる資料であるがかく[br]
の如く学問が分派すると各の派はそれぞれ自己の存在を主張することを努むるものでその一[br]
つの方向はその特質とする学問上の主義理論を明かにして他の学派との対抗をはかることで[br]
あり他の方向は己の学派はその共通の宗師に対し正しき伝統を有してゐることを立証せ[br]
んとするものでそこに一方は思想乃至芸術的の討論が発生し一方にはその歴史的反省[br]
がおこる。さうして学派の色彩は日に増し濃になって来る。もとより劉向劉歆のころまでに[br]
はかかる流派的の傾向は相当常識的に確立されてゐたことでありひとり二劉が空前の[br]
大業を始めたとは云ひきることはできないがしかしその整理が支那のあらゆる書籍にわたって[br]
ゐることはすなはち当時の支那学全般にわたるものであって一種の国故整理事業である[br]
点はおそらく従来にその比を見ないのみならず一面この整理が基本となって後世の整理がつき[br]
つぎと行はれるのにかかる整理が単に過去のものに対する反省を生じたのみではなくして更に[br]
将来の学術の発展すべき方向をも指定した事実も少からぬものであるから少しくその[br]
整理の方法についても細述を試みたい。[br][brm]
前にも述ぶる如くこの整理にあたって輯略を除いて六略の名が定まったがその中六芸諸[br]
子詩賦の三種ははじめ劉向自身が□□したとは他の兵書術数方技の三者を取扱[br]
ひを異にしたことを物語るものでいはばこの初めの三種は支那の読書人としての常識に属する[br]
部分であって他の三種は特殊なる知識に属するものと云へる。もし学術といふ観念を以て[br]
取扱ふことが許されるならば初めの三種は学といふべきで他の三種は術と見るべきであらう。これ[br]
より先き史記の太史公自序にはその父司馬談が六家の要旨を論じたことがあるがその六[br]
家とは、陰陽家、儒家、墨家、法家、名家、道家で、司馬談は道家を奉じた人物[br]
であるから結局道家を最も推尊してゐるが今漢書芸文志の諸子を見ると、その内[br]
容は儒家、道家、陰陽家、法家、名家、墨家までは全く司馬談の分類と同じくただ[br]
その順序が儒家を首としてやや変更してある点にその時代の□訳が示されてゐるだけで、更に[br]
縦横家、雑家、農家、小説家を加へてあってその十家の中見るべきものは九家にすぎないと称し[br]
てゐるところを見ると小説家は附属であったらしい。さてこの諸子略に属するものはつまり当時に[br]
おける思想方面を総括したものまである。故に諸子の総序にもこの九家といふものはみな王道が[br]
衰へ諸侯がそれぞれ政治を行ひ君主たちが好悪が別々だったのでこれらの学術が一時に勃[br]
興しめいめい一端をひきだし得るとするところをやかましく言ひ君主たちに採用されんことを求[br]
めたものでその長短を合せて要領を求む□やはり六経の流であるから六芸をおさめて九家の[br]
言を見るべきことを唱へてゐる。且つ諸子のそれぞれについてたとへば儒家は司徒の官から出たとか[br]
道家は史官から出たとか陰陽家は羲和之官から出たとか法家は理官から出たとか名家[br]
は礼官から出たとか墨家は清廟之官から出たとか縦横家は行人之官から出たとか雑家は[br]
議官から出たとか農家は農稷之官から出たとか小説家は稗官から出たとかいふ派流を著し[br]
すなはち九流出於王官の説をなしてゐるのは正しく諸子を以て六芸の流とする思想と揆[br]
を一にするものであって同時に六芸を以て最初においたことも当然になって来る。[br][brm]
六芸が如何して成立したかと云ふ様な問題は漢志においては肝要なことではなくむしろ専門の[wr]経[br]
学史[/wr]に譲るべきであるが既に漢志の時代には皮錫瑞の言を借りるならば孔子は萬世の師表[br]
であり六経は萬世之教科書であって当時の人々は孔子は漢の為に道を作り漢の為に制度を考へ[br]
たとまで考へて朝廷に議論があっても経を引いて討論し公卿大夫以下一芸以上に通じないものは[br]
ない有様であった。つまり当時の六芸はたしかに一種の古典的教養であり個人社会国家に[br]
おける指導精神を示したものであるからあらゆる学術の上に在って之を駕馭すべき地位を[br]
占めるのも当然である。勿論かかる一尊と定められた古典的教養も自ら時代の風気に[br]
よって教養的方面に重きをおいて経術の士としてその教養を以て天下を治め社会を安固[br]
ならしむることを尚んだのは前漢の初期において多く見られるところで当時の有能なる政治家[br]
の述ぶる所を見ればその大体を察知することができよう。しかるに社会が安定して思想界が[br]
平静であると今度は古典の研究といふことが盛になり純学究的の見地から種々の異本を[br]
考訂したり新しい史料を利用したりして学界に新しい運動を開かんとする勢が起りこれと[br]
在来の学派との間には当然いろいろな軋轢も起り葛藤も生じて経学の変遷がそこに[br]
認められてゆくのであるが漢志の作者劉歆といふ人物は正に古典研究の派の驍将であって[br]
みればそこにその人の主張も寓せられないわけはない。[br][brm]
これより先き荘子天運篇に孔子が老耼に云った言葉として「兵は詩書礼楽易春秋の六経[br]
を治めて□□に精通してゐるがその道を以て七十二君に遊説したがさっぱり用ひてくれるものがない」と[br]
云ふことがあるが、勿論孔子の言葉でないことはわかってゐるが詩書礼楽易春秋と云ふ順序は[br]
漢志の如く易書詩礼楽春秋といふものとは同じくない。就中易の位置が移動してゐる。お[br]
そらく先秦の書物に引かれた六経として見るならば詩と易とは最も数多く現はれ論語にも[br]
子所雅言詩書執礼皆雅言也とあることは最も普通な教養として認められたものであること[br]
に相違なくたとへ加我数年五十以学易可以無大過矣といふテキストに誤がないとしても詩書[br]
の如き親しみは一般に求めることは許されない。して見れば詩書礼学をさきだてるといふ一つの系[br]
列は当時における普遍的の常識を意味し六経といふものの成立と否とを問はず[br]
考へられたものに相違ないが漢志の時代は既に六経の成立は既定の事実であり六経について[br]
選択を加へるといふ如きことは許されない以上、六つは同種の重さに於ける教養とならざるを得[br]
ない。ここにおいてこの六つを同等の価値の下に配列せんとせばたとへば人を排列するに歯を以てすると[br]
云ふ整理法が内容による整理法よりも簡便である如く当然経書そのものの成立年代[br]
といふものが整理の目標になって来る。易は漢志にも宓羲氏から文王・孔氏の三聖を経たとある。[br]
最古の経典を認むべくつづいては尚書が堯より始まって秦にいたる百篇であり更に詩はもっ[br]
ぱら周詩をとったが上は殷におよび下は魯を取ってゐるから詩書といった順序は当然書[br]
詩と改められざるをえない。礼楽は周公にかけ春秋は孔子にかけるならばその順序について明白に[br]
説明がつかうと云ふものである。これは必ずしも二劉の一家言ではなからうと思ふがしかし当時[br]
の学術がすでに経学についてはかかる整理を施すほど安定してゐたと認むべきで自然発[br]
展の方向は古典の研究といふ方向に流れることを暗示してゐる。[br][brm]
劉歆が主張したのは経における古文学と称される。これは通行の文字を以てしるされた経典の[br]
テキストに信頼せずもっと古い文字で書かれたものを探ってその確実なる根拠を求めんとす[br]
るものでものでその主張は漢志の中にも極めて多く現れてゐる。中でも尚書の如くテキストに問題の多い[br]
ものではたとへば劉向が中古文をもって欧陽大小夏侯三家の経文を校したところ湯誥に[br]
脱簡が一つあり召誥に脱簡が二つあり大体簡が二十五字のものは脱するものも二十五字で[br]
簡が二十二字のものは脱するものも二十二字、文字の異なるものは七百あまり脱字が数十もあったと[br]
書いてあるのは正に先にあげた尚書古文経四十七巻と経二十九巻の今文とに相応ずるものである。[br][brm]
なほここに併せ考ふべきは司馬遷の史記であって史記はその編纂の体裁から見ても本紀表[br]
書世家列伝となってゐるが列伝の中特に六十一巻を以て儒林伝として申生轅固生韓[br]
生伏勝董仲舒胡毋生の合伝を編してゐるがこの儒林伝は決して儒学の教養によって政[br]
治を指導する人物ではなく或は特にさういふ人物ではなくして古典としての伝統を保持する[br]
上に力のあった人物である。秦の乱から以後六芸が欠けたのに高祖が位に即いてから自ら[br]
学術復興の気運にむかったが、孝恵呂后の時代は武力を以て功をたてた臣の公卿となり[br]
孝文を□□文学の士を招いたが刑名の言を好み孝景も儒者に任ぜず竇太后は黄[br]
老の術を好むといふ様なわけであったが武帝以後はもめて方正賢良文学の士を招かれ詩では[br]
申培公轅固生韓太傅、尚書では伏生礼では高堂生、易では田生、春秋では胡母[br]
生、董仲舒などが認められたわけでこれからが真の□経学の位置が安定したわけで、儒林といへば[br]
即ち朝廷の博士を称することばでつまり学官に在るものを云□アカデミツクな学問が樹立さ[br]
れた。それを儒林と称して別に文学といふ列伝は設けられてないところに漢の学術の一面と認められ[br]
ようと思ふ。その実文学といふものは儒林とは一つの如くにして二であり二の如くにして一であることは申公が[br]
年八十余にして天子に束帛加璧安車駟馬の礼を以て迎へられたとき天子に向って政治をする[br]
には多言に至らず力行が大切であることを申し上げたが天子は文詞を好まれたので申公の言に[br]
対して御不興であったが已に招いた以上は致しかたがないといふので召し使ったといふ話があって、学究と[br]
文学との間にたしかに差異が認められたが、さりとて両者が完全に矛盾するものでもなく学官[br]
の言葉弟子が試験の結果一芸以上に通じたものは文学掌故に□して文章は爾雅訓□[br]
は深厚たることを求めかくして公卿大夫士更賦として文学の士を書したと□礼讃してある。[br]
いはばその時代において儒林の官の職とするところと文学の士の掌るところとが相[br]
当社会的に違ってゐてしかもその教養の根本は何れも経学にあったことは疑ふ[br]
べくもない。[br][brm]
しからば漢志に詩賦略として独立してゐるものは賦の(一)(二)(三)、雑賦、歌詩と五種[br]
に分けてあるが、賦が三種に分けてあるのは何の説明もなく、今日では甚だ知りがたいのであるがともかく[wr]屈原[br]
賦[/wr]がその不祧の祖となってゐることが注意せらるべきで最後の歌詩は孝武帝以来の楽府[br]
にあつめられた文献であった。つまり当時における歌曲にとすべく或は朗吟すべきものを指した[br]
ものでかの朝廷の文学掌故とか公卿太夫士吏の文学に長じたものとは同じくない。され[br]
ば漢志にもかの左伝に見ゆる如く別国の諸侯卿太夫が互に揖譲する際に詩を引い[br]
て志を示したが変じて賦となったと云ふ。いはば今日の意味に近い文学の境地が存在[br]
する。[br][brm]
ここにおいて上に述べた様な劉向自身が担任しすなはち当時の読書階級の一般的[br]
常識であったところの六芸諸子詩賦の三者の概念をもっとも大まかな意味で今の[br]
人にわかりやすく云へば経学と思想と文学とになって行くと思ふ。経学は支那の読書人[br]
の常識とする古典的教養であって漢志にも昔の学者は耕しながら勉強して三年にし[br]
て一経に通じたといふのはただ大体を心得て経文だけを□んだものである。だから時間もわ[br]
づかで大体に通ずることができ三十にして五経を自由にそらんじたが後世に至って注釈[br]
が多くできて経文とは分れ分れになり学者も己の伝統を守ることに努めて固陋に陥っ[br]
たといふのは即ち専門の経学者の弊である。思想の学問は自ら標榜するものでその[br]
立場が他人と異る点を強調してゐるから互に長短を生ずるのも道理で漢志にも[br]
たとへば儒家は仁義に注意し先王の説を重んずると共に一面精華をはなれて悌の[br]
本を失ふものがあり道家は自己修養清静を尚ぶと共に社会の仁義をすてるおそれがあり陰陽家は日[br]
月星辰を知ると共に迷信に陥るおそれがあり法家は賞罰を明かにするが残忍刻[br]
薄に流れやすく名家は論理に長ずると共に詭弁に陥るおそれがあり墨家は経済倹約でありひ[br]
ろく衆を兼ね愛すると共に礼を忘れ親疏を分たぬおそれがあり縦横家は外交に長ずる[br]
と共にうそをつく癖があると云ふ様にそれぞれの得失があって一足に定むることのでき[br]
ないもので人々その長ずるところ好むところに従ってそれぞれ道を異にすべきものである[br]
と云ってあまりに学派が分れれば之を折衷せんとて雑家と云ふものができ儒墨名法を[br]
兼ねた大風呂敷をひろげて何でも知ってゐる代りに何も専門がないものができる。文学は[br]
言語乃至文字による美術であっていやしくも大夫となる様なものならば必ず折にふれ[br]
て歌の一つも詠むべきもので朝廷にあっては盛世の装飾であり志を失った場合にはその[br]