講義名: 支那学概論
時期: 昭和15年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
状[/wr]、簿録の十二種で、就中、国史が分れて正史古史雑史となり、したがって偽史が覇史とな[br]
ってその次に進み鬼神が消えて雑伝の中に収められた以外は順序も殆ど違はずここに支那[br]
の史学の体裁が一応完成したことを知る。[br][brm]
隋志の子部は大体漢志の諸子略と兵書術数方伎の三略を[br]
併合したものであるがそれだけの多数を包含しながら八百五十三部六千四百三十七巻[br]
と云へば部数ではやっと新興の史部を追ひこしてゐるが巻数はわづかに経部を越えてゐるだけ[br]
で史部に比してはその半にすぎない。今その大略を見るに第一の儒家第二の道家第三の法家第四の[br]
名家、第五の墨家、第六の縦横家第七の雑家、第八の農家、第九の小説家まで[br]
はただ陰陽家が消えた以外漢志と全然同一でありことに隋志を見て感慨を禁じ得ない[br]
ことはこれらの学問がはなはだしき衰微の途を辿ることで儒家でも後漢以後の本には目[br]
星しいものはほとんど無く桓譚新論、王符潜夫論、荀悦申鑒のごときやや著しいものであ[br]
るが、これらは全部後漢人のもので晋から六経にかけて儒家はほとんど発達してゐない[br]
し道家もただ老荘の注釈のみが目立つ。これは丁度儒家において経書の注釈が発達[br]
したと同様であって必ずしも思想の発展を意味しない。しかし社会を指導すべき理念として儒家[br]
の経典の地位が確立されこれと共にその反動的思想として道家の経典も相応な地位が与へる[br]
べきであり、これらの古典の注釈が発達したことは一面に於て注釈に形をかりた思想の発展と[br]
理会すべき点も少くない。ことに経学の中に老荘の思想がとり入れられ或は仏教の分析的研[br]
究法が採用されたるが如きは一尊を定められた儒家の経典をその地位から動かすことなくし[br]
てその本質を開展せしめそこに社会の指導理念が必ずしも同じからぬ結果を生ずるの[br]
であってその点は同じく諸子に在っても法名墨縦横農の諸家がほとんど絶えなんとして[br]
わづかに古書たるの地位を保留してゐるに比してたしかに違った面を持つものであり即ち[br]
思想が経学に偏るといふか経学が思想を支配すると云ふかここに支那の思想にお[br]
ける宿命的な問題としての古典への関心が見出される。然るにこれらのいはば諸子の本[br]
質的方面に属するものが衰ふるに反し漢志では兵書として独立した。第十兵(ママ)は相当[br]
の進歩を見たのはおそらく三国以後も兵乱が多くしてその方面の研究は常に実際的必[br]
要に応じて発展した結果に相違なく第十一天文第十二暦数第十三の一行の如きは[br]
漢志の数術略にあたるものであるがこれ亦実際生活に即した関係から夥しき著述を[br]
生じてをり第十四の医方は正に方伎略にあたるがこれ亦夥しき著述のある中でも医方では単[br]
に支那内地の方のみならず西域諸仙所説薬方とか婆羅門諸仙薬方とか云ふものが[br]
認められるのは丁度暦数に婆羅門算経とか婆羅門陰陽算暦とかの如き天文[br]
に婆羅門天文経とか婆羅門竭伽仙人天文説とかの如き西方から輸入された学問[br]
も現れてゐてそこに東西文化の交流も行はれた形迹を認めることができかかる実[br]
際生活に即した方面ことに技術に属するものはやはり相当な刺戟とこれに伴ふ進[br]
歩とを欠くものでないことを物語る。もし端的に云へば諸子略はほとんど死滅して精々[br]
が経部の附庸であるに乗じ兵書数術方伎の如き専家の学芸がその地位を[br]
奪ったもので、これは一面どこにも認められる基礎学と応用学との関係でもあると説明[br]
をすることが出来よう。これより先き七録では子兵録として儒、道、陰陽、法、名、墨、[br]
縦横、雑、農、小説、兵に分ったのは即ち陰陽がなほ存するだけでその他は隋志[br]
と同様であるが術技録として天文、緯讖、暦算、五行、卜筮、雑占、形法、医経、[br]
経方、雑に分けられ就中、緯讖は一面禁絶され一面経の部に附□となりここには存[br]
せず卜筮雑占形法は五行に入り医経経方は総合されて医方となったものである。[br][brm]
最後の集部は勿論漢志の詩賦略の延長でその名残として楚辞が依然として巻[br]
頭に存するがその所属の書物は極めて少ない。而してこれに次ぐ第二の別集は集全[br]
体五百五十四部六千六百二十二巻中四百三十七部四千三百八十一巻の多きを占め[br]
隋志には後漢から別集といふ名ができたと称してゐるがこれこそ詩賦略の内容が[br]
ほとんど変じたものと云ふにちかい。第三の総集は別集が多くなるにつれてその選ばれたものを[br]
編して覧る者に便した意味のもので晋の摯虞の文章流別集を以てその代表と[br]
する。もっとも漢志の雑賦とか歌詩とかも之に附載されてゐる形にはなってゐるがそ[br]
の名の同じくない様に相応の変化を見てゐるがこれは既に七録の文集録も同様で、楚[br]
辞別集総集雑文とある中の雑文が総集に編入されたまででかの劉勰の文心[br]
彫龍のごときものも総集の中に収められてゐる。更に最も大きな変化は四部の[br]
すんだ後に道仏が現れてゐることでこれは七志七録みなこの例をひらいてゐるが隋志を見る[br]
と四部経伝三千一百二十七部三万六千七百八巻の後に道経として三百七十七部一千[br]
二百一十六巻は相応大ざっぱに経戒、餌服、房中、実録として分類されてゐるばか[br]
りで一々の書名は見えず仏経も一千九百五十部六千一百九十八巻を大乗経小乗[br]
経雑経雑疑経大乗律小乗律、雑律、大乗論、小乗論、雑論、記としてあらま[br]
しの分類を施したに止まる。これは七録にては戒律、禅定、智慧すなはち戒定慧と[br]
いふ内容的分類〔疑似、論記を加ふ〕をば経律論の便宜的分類に収められてゐる[br]
ことも目録の学問の源流を考へるよりも便宜的索引式に向ふべき運命を示す様に思[br]
はれる。なほわが藤原佐世の日本国見在書目は冷然院にあった漢籍が焼けた後之を[br]
再興した目録で然を改めて泉としたといふ逸話があるが分類は全く隋志によったもの[br]
である。[br][brm]
旧唐書は五代の劉昫の編纂したものであるがその経籍志は唐の開元年間の古今書録[br]
によったもので即ち乾天殿の東廊にあつめられた書籍の目録である。そのやや隋志と趣を異[br]
にするものは経部ではこれまで論語に附属してゐた爾雅と五経異議の類が独立して詁訓経解[br]
となったことであり史部では古史を収めて編年としたこと、子部では従来兵書の末にあっ[br]
た博奕囲碁の本が独立して雑芸術となり雑家の末にあった皇覧類苑修文殿御[br]
覧などが独立して事類となった程度である。しかしこの時まではともかくある見在書目の[br]
記録として重要な意義を持ってゐたのであるが次の新唐書芸文志にいたってはたして見在[br]
せりや否やも明かでない粗雑な目録にまで退歩したが分類では爾雅の類がはじめて小学[br]
に合併され総集の中から文新彫龍などが抜きだされて文史類となったことが注意され分[br]
類に変りはないが雑芸術類の中に閻立本などの画や張彦遠の歴代名画記などが顔を[br]
出しはじめて美術の観念がはっきりしてきたことは文学に於ける評論の学問の発達[br]
と相待って六朝以来の学術がこの方面に新生活をひらいたことを物語るものと云へる。[br][brm]
新唐志と同時に作られた崇文総目は慶暦年間に□られたもので崇文院の藏書目で解[br]
題もあって元来は六十六巻と称せられてゐるが南宋以来は叙釈を去った本が[br]
行はれ清朝に至って銭侗が之が輯本を作ってゐるが九牛の一毛にすぎない。この書目で史部の起[br]
居注が実録となり譜牒譜系が氏族となり雑伝記が単に伝記となり、子部の雑芸術が[wr]芸[br]
術[/wr]となり算術と暦数とが分れたことは名称の整理に止まるが殊に面白い[br]
のは始めて史部に歳時と云ふ目が現れてすなはち後の時令の先河をなしたことである。これ[br]
はどれだけの本が収められたにせよかかる年中行事に対し社会が重要なる関心を持つことを物[br]
語るものでいはば貴族社会の独占した儀注が民間に公開されたことを示すもので先に云ふ[br]
芸術の発達と共に一般庶民の向上がかかる目録にさへ窺はれるのは支那の社会がこの頃に[br]
は貴族の封建的文化から次第に庶民の近代的文化に静かながらも大きな転回をしてゐ[br]
たことの一証としてもよからう。書目だけについて見るもこれまでの書目はほとんど全部が朝廷の[br]
藏書目であったのが南宋の尤袤の遂初堂書目、晁公武の郡斎読書志、陳振孫[br]
の直斎書録解題などの有用の書目が残ってゐるのは即ち学問が民間に普及した状[br]
態を示すものである。もっとも阮孝緒は処士であるから七録は個人の著述に相違ないがこ[br]
れは個人の藏書目とは称しがたくやはり南宋における新しき傾向と見ねばならない。[br][brm]
遂初堂書目における分類にて孟子が経部に現れて孝経と共に論語の附庸となってゐる[br]
ことも南宋における四書の学問の影響が早くも認められて興味あることであり史部には[wr]史[br]
学類[/wr]を設けて正史の注解乃至劉知幾史通のごとき史評、班史英華とか班左誨蒙と[br]
かの如き史抄を一括してゐることも文史を立てたる学問の傾向を一層確立したものと見[br]
るべく史通と文心彫龍とが並に□読されるのは正に史集を通じて同一の立場をとってゐる[br]
からである。又子部に譜録類と云ふものができて宣和博古図考古図をはじめ文房四譜[br]
とか泉志とか香譜とか茶経とか酒経とか花譜木譜などを一括してゐるのはやや雑駁であ[br]
るが主として書物によらず実物を研究する学問を考へたものに相違なく一方では美[br]
術の発達と相待ってこれも貴族が玩んだ器物乃至飲饌花木の類が一般民庶に開[br]
放されたことを意味しその賞玩から金石学の勃興したことも十分承認されるわけで[br]
あって亦極めて趣味が多い。集部では唐魏鄭公諫章や陸宣公奏議をはじめとして名[br]
臣奏議などが特に章奏として一類になってゐるのも名臣奏議の極めて盛んであった時[br]
代の状態が認められ楽曲類として花間集陽春集などが一類になってゐるのも五代以来一世を[br]
風靡した詩余の盛行を卜すべきで書目は決して簿録ではなく一種の学芸史とし[br]
て読み直されて好いと云ふことを感ずる。ことに個人の書目は朝廷の上に立つものが儀式的[br]
に編するとは異りさまざまの点において自由でもあり書物の多少によって随意に合併できる[br]
便宜もあり表裏ともに見られる様に思ふ。郡斎読書志の分類は正史にならって大差なく[br]
直斎書録解題は語孟として孟子を出し歌詞として詩余を出したこと□□□と同じく又音[br]
楽を一類としたり、歳時を時令と称したりしたことも注意される。しかしこの二つの目録は解題[br]
を以て貴ばれたことは元の馬端臨の文献通考の経籍考はほとんどこの二つの目録を抄してこしらへ[br]
てゐることでも了解されよう。[br][brm]
(世に三通といふ書があるが唐の杜佑の通典、)宋の鄭樵の通志、(元の馬氏の文献通考で、[br]
すべて通の字を加へてゐる如く在来の歴史が断代であることを排して新しく之を□□した撰述であるが就中、鄭[br]
樵の通志)は歴代の芸文志経籍志を総括して新に分類を考へて芸文略を作り目録学の[br]
理論を考へて校讎略を作り極めて意識的な著述として注意すべきであるが単に目録学の理[br]
論にのみ関するところはさておいて分類を通じて学問に対する観念を伺ふべきは第一、経[br]
史子集の別を守らず、又七略の説にもよらず、別に一家の見を以て十二類に分けたことで(一)経類(二)[br]
礼類(三)楽類(四)小学類(五)史類(六)諸子類(七)星数類(八)五行類(九)芸術類(十)[wr]医[br]
方類[/wr](十一)類書類(十二)文類に分ちその中経類はさらに易、書、詩、春秋、国語、春秋、論[br]
語、爾雅、経解の九家に分ちその中易についてはさらに古易、石経、章句、伝、注、集注、[br]
義疏、論説、類例、譜、考工、数、図、音、讖緯、擬易の十六種に分けすなはち[br]
経類九家は八十八種に分類され在来にない細い分類を用ひた。元来通志は古今の書目を[br]
総括して分類し直したものであるから実在の書物を都合好く排列することよりもむしろカード[br]
で分類するといふ様な気分であっていやしくも分類できる限り机の上で精密に分類し[br]
たものである。(かくして十二類百家を四百二十二種に分ったのはあたかも軍隊を指揮する如きもので条[br]
理さへ立ってゐればいかに複雑でもしまりがつき条理がたたねばいかに簡単でも混雑する。分類は[br]
いくら細かうてもかまはない。ただ細かいものを処置する道さへ立てばよいのであって分類ができると[br]
学術が明かにわかるのは先後本末がくはしく載ってゐるからでたとへば讖緯の学は東漢に[br]
盛であり音韻の学は江左に伝はり伝注は漢魏にはじまり義疏は隋唐に完成したと云ふ如き[br]
たとへ本は亡びてもその学問の源流を知ることができる。もし以前になかったもので出てゐるものは新しく起っ[br]
た学問だと云ふことがわかると云ふのはその抱負の一端を知ると共に分類の必要について深き[br]