講義名: 支那学概論
時期: 昭和15年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
反省を促さずに足るものである。然るに世の目録はただ書名だけを見て内容を見なかったり始めだ[br]
け見て終をみない様なものがあってたとへば尉繚子は兵書であるのに班固は諸子の雑家にいれ[br]
たのは名を見て書を見ないもので崇文目に至ってやっと兵書に入った。顔師古が刊謬正俗を[br]
作ったのは経史について雑記したのでただ第一巻だけは専ら論語を説いた。然るに崇文目では論語類[br]
に入れてゐる。これは始めだけ見て経を見ないのである。崇文などは本を全部見ないでただ始めの五六[br]
行だけ見て説明してゐるので刊謬正俗は経解類に入れなければならない。[br][brm]
その分類の特色は経に於ては礼と楽とをとり出し別に礼類楽類を設けたことでこれは支那[br]
の書物の分類に空前絶後の考であるがつまり理論と実際との区別を経書にもあてはめ[br]
たものであり一方から云へば易詩書春秋の如きは常識であるが礼と楽とは特別の専門[br]
家を必要とすると云ふ心地であってたしかに一理あることで芸文略を見ると礼類には周官[br]
儀礼喪服礼記月令会礼儀注の別をたて儀礼の中から喪服を分ち礼記の中から月令[br]
を分ったのもすべて一種の専門学と認めたもので月令にはかの歳時の書籍まで含ませてあ[br]
る。同様に会礼として礼全体の問題を考へると共に儀注として吉凶の礼法車服より書儀[br]
までを分別記載してある。経類さへかくの如くであるからには勿論従来の四部□□諸子が天文医[br]
術までを収むることには反対で理論的な諸子一般として儒、道、釈、法、名、墨、縦横、雑、[br]
農、小説、兵をあげた後に専門的な天文類として天文暦数算術、五行類として各種の[br]
迷信的な学問、芸術類として射、騎、画、投壺、奕、雙陸、カルタの類までをあげ、医[br]
方類として脈経から本草まで委細に分類し、最後に類書類をおき文類としては各体に[br]
わたるものを一々列挙してゐる。かくの如く専門の学術を重んずることは目録の先祖たる二[br]
劉に対しても不満をいだかしむるもので漢志の中の兵書略数術略方伎略のごとく専[br]
門家に依託したる部分は出来が好いが二劉の引きうけたところは分類も混雑してゐて出[br]
来がよくないと云ふのもつまり専門を重んずる思想に出でたものの如く専門さへあれば少々[br]
書物が亡びても学問は亡びないと云ふ考である。)すべて精細なるカードを使用したといふ心地にてその編纂[br]
を見るべきで目録学の理論としては多分に取るべきところもあるが通志全体は元来理論だふ[br]
れと評せらるが如く頗る体裁に拘泥して一偏を強く示したる欠点は免れない(が高似孫の史[br]
略子略の如きは正にその体を襲うてゐる)。[br][brm]
(ここに今一つ注意を要するのは支那における類書の発達であって今日に存するものは唐[br]
の欧陽詢の芸文類聚、虞世南の北堂書鈔、徐堅の初学記、白居易の白氏六帖、下[br]
っては宋の太平御覧などがあって、六朝の皇覧や修文殿御覧の類は今日に伝はらないが[br]
仮に初学記をとって見るに天部、歳時部、地部、州郡部、帝王部、中宮部、儲宮部、[br]
帝戚部、職官部、礼部、楽部、人部、政理部、文部、武部、道釈部、居処部、器用部、[br]
服食部、寳器部〈苑州附〉、果木部、獣部、鳥部〈鱗介虫附〉と云ふ分類になってゐる。元来類書[br]
と云ふものは世間のことを一とほり知識人として知る必要に応じたもので文章を作るときなどは殊[br]
に重宝なものであるがこれは学問の源流を考へることなしに智識の範囲を学科的に分類[br]
しそれに四部の書籍の内容を描き出して配当しつつ編纂したもので一種支那の百科辞[br]
書として発達してゐるのは興味のある事実で宋の末に王応麟の玉海が作られこれは専ら[br]
試験を受ける人のために作ったものであるがその内容は天文、律暦、地理、帝学、聖文、[br]
芸文、詔令、礼儀、車服、器用、郊祀、音楽、学校、選挙、官制、兵制、朝貢、[br]
宮室、食貨、兵捷、祥瑞と云ふ風に分類され当時の常識の状態を察する一つの[br]
手がかりであるが同時にその芸文といふは四部の書目を列し特に学術[br]
史と書籍の解題とをつきまぜたもので殊にすでに佚亡した書物の内容を説明するためにこれ[br]
までの類書その他からその書物の残存した零細な部分をかりあつめて一つの体系をつけたと[br]
いふ一種非常の書物で類書を利用したのは高似孫にも先例はあるが玉海の如く博大なもの[br]
は極めて珍しい。)[br][brm]
元に至りて宋史芸文志が編せられたが宋史すべてが不出来である様にこの芸文志もただ宋代の[br]
四種の書目を□あつめただけで一向信用がおけないのみならず断代の歴史に古来の書物をのせるとせば[br]
ある時代の見在書目といふ意味に徹すしなければならぬ点に矛盾があって遂に明史芸文志の如〈千頃堂書目による□□□〉[br]
く断代の目録が作られる様になった。これより先き明の焦竑の国史経籍志があって食貨を独[br]
立させてゐる如きは通志に負ふ様であるが全体としては相当□雑を極む〈ただしその目録の[br]
総叙などには四庫提要の藍本となったものもあると云ふから明人の撰述としては捨てがたいもので[br]
あらう。〉[br][brm]
(明末ごろから藏書家にして珍本をたくはへるものが多くたとへば銭謙益の絳雲楼の如きその名が[br]
箴をなして火に焼けたが族子銭曽〈遵王〉が之を復興して読書敏求記を作り専ら珍本の解[br]
題を試み版式と考へ異同を校合してゐるがこの風は乾嘉に至りてますます盛に蘇州に□[br]
める。黄丕烈汪士鐘の徒の間に宋本に□するまでの状態を醸し出しその書籍を利用し[br]
た人々は校勘の尚ぶべきことを覚りここに新しき学問を生じたが一面にはその弊をそしる[br]
人もあり北江詩話〈三〉の如き藏書家にもいろいろな等級があって一部の書物を手に入れると必[br]
ずその源を探り欠けたところを正す人を考訂家と云ふ。銭大昕戴震の如きがさうであ[br]
る。次は板本をしらべてその誤りを注意する人を校讐家と云ふ。盧文弨方綱の[br]
如きがさうである。次に異本をさがし求めて上は天子の御書籍足し□へにも□下は博[br]
学の人の閲覧に供する人を収蔵家といひ寧波范氏の天一閣、揚州呉氏の瓶花[br]
斎、□□徐氏の□□楼の如きがさうである。次にただ板の好い本をさがし宋本だけを好み作者の主意な[br]
どはわからなくとも本を刻した年月だけはとても好く知ってゐる人を賞鍳家と云ふ。蘇[br]
州の黄丕烈□□鮑延博の如きがさうである。次に旧家の没落したものの処へ行って[br]
その所有の□を安く買ひ金持で本好きの者には法外の値で売りつける。本物か偽物[br]
か見分けるだけの目があり古いか新しいか嗅ぎわける頭があり閩本か蜀本か決して間違ひ[br]
なく宋版か元本か一目でわかる人を掠販家と云ひ呉門の銭景開陶五柳、湖柳の[br]
施漢英などの書店がさうであると云ってゐるのは好く蔵書家の□評をしたものとして千[br]
古の名言であるがたとへ掠販家たることすら仲々難しいと云って評したひともあ[br]
る位やはり学術が隆昌にして天下が太平であったことは清朝の恩沢によるもの[br]
が深い。)[br][brm]
(清朝になって学術が発達すると単にこの時代またはこれまでに如何なる学問的著述があっ[br]
たと云ふことを知るだけでなく既に経学ならば経学を専攻するときめて如何なる書籍[br]
があって大体どう云ふ内容であるか又その書籍は今もたしかに存在するかどうか又[br]
は存在してゐても見ることができるかどうかと云ふ様な点につき専門的な目録が考へ[br]
られて好いわけでそのさきがけをなしたものは朱彝尊の経義考三百巻でその体裁に[br]
ならったのが朱彜尊の経義考三百巻で、その体裁に[br]
ならったのが、謝啓昆の小学考五十巻でもし章学誠の史籍考の如きものが完成[br]
してゐたら極めて有用だったらうと思はれる。近年でも黎啓誥氏の許学考の如きそ[br]
の後□の秀を称すべきである。しかし何と云っても)清朝一代の目録学上の大事業[br]
は四庫全書総目提要であって従来正史の志類にふくまれた目録学がここにおいて[br]
欝然たる大国として独立したわけである。勿論宋の崇文総目の如きはその先駆とすべく[br]
その編纂にあたって崇文に倣ふことも多かったであらうがその成果は遥かに崇文を凌[br]
駕したと称せられる。この事業は乾隆三十七年の上諭に「即位の初から内外に詔を下して旧[br]
書を求め並に十三経廿一史を校勘させ又綱目三編通鑑輯覧及三通などを編纂させたが[br]
つらつら思ふに書物を集めることが広ければ広いほど学術の研究が精密になる道理でかの[br]
康煕年間に作られた図書集成の如き夥しきかさに上ってゐるが中に引用された書物は分類し[br]
て書き抜いたため全文をのせることができず読者に十分淵源を究めしむることができなかった。[br]
今宮中の蔵書は至って多いがまだ足らぬものもあるからすべて之をあつめて京師に送り千古同[br]
文の盛を彰はさう」と云ってあるのに初まり類書編纂より一歩を進めて原典の蒐集を試[br]
み而かも学術的に検討を加へんとするもので実は二劉以来の事業の継承であるがその規[br]
模はきはめて大であって三十八年には之を四庫全書と命名し翰林等に命じて[wr]四庫全書[br]
館[/wr]に入ってその編纂を提要とにあたらしめた。総纂官紀昕は当時の最も博識な人物で[br]
その下に集まった戴震邵晋涵の如き有□の学者が執筆した提要を一々検閲批評[br]
し訂正を加へて統一した。(それだけ紀氏の精力は全く此の事業に傾倒され自著としてはた[br]
だ閲微草堂筆記及文稿を伝へるにすぎない。(元来その蒐集したものは(一)勅撰本(二)内府[br]
本(三)永楽大典本(四)各省採進本(五)家蔵本(六)通行本などに分つことができるが之を刻[br]
すべきもの刪すべきもの目録だけ存すべきものに大別し存書が三千四百五十七部七万九千七十巻、存[br]
目が六千七百六十六部九万三千五百五十六巻といふ多数に上り存書は一々校勘浄[br]
写しその提要を最初に加へ之を文淵閣に蔵せしめ又[br]
別に円明園には文源閣、奉天には文溯閣、熱河には文津閣を建てて併せて内廷の四閣[br]
と称し更に江浙の地は人文の淵数であるからとて揚州の大観堂の文匯閣、鎮江金山[br]
寺の文宗閣、杭州の聖因寺の文瀾閣にもそれぞれ一份を貯へひろく閲覧伝写を許し[br]
た。之を江浙の三閣と云ふ。凡そかくの如き恩典は未曾有のことであって乾隆帝の文化事業を[br]
して極めて成功した政果であると思ふ。その各書の首にあった提要がまとめて刊行されたのが[br]
四庫全書総目提要である。)序ながら後ろに長髪賊の乱に遭ひ文宗文匯の二閣が烏有に[br]
帰し文瀾閣も多く散じたが後に補写した。又英仏聯合軍の北京に侵入して圓明園の焼[br]
掠が起るや文源閣も亡びて今に存するものは文淵文宗の三閣にすぎない。[br][brm]
さて四庫の分類については四書類が経部に設けられたことはすでに明の文淵[br]
閣書目にもあることではあるが宋儒の立てた四書が重要なる意味を持つことであり五[br]
経総義や楽の地位に若干の異同がある。史部に別史の名が見えるのも既に之に先つものがあ[br]
るとしても四庫の意味は覇史や雑志とは違って正史と同じ目的で編纂されながら正史[br]
に入れられないもので、正史の地位が固定すればかういふ分類は当然必要と云へる。紀事本末が立てられたのも紀伝編年紀事本末といふ史体の確立を意味する。政書と[br]
云ふ分類が通制典礼邦計軍政法令考工と分けられたのは一つには政府の組織と相応[br]
ずるもので典礼は礼部にあたり邦計は戸部にあたり軍政は兵部にあたり法令は刑部に[br]
あたり考工は工部にあたり而して吏部はその前にある職官類にあたるものと見ることができ[br]
政治上の分担が自らその専門を生みだしたものとして制度が学問に加えへた影響と見ねばな[br]
らない。目録を経籍と金石に分ったのも金石学の進歩に応ずるものである。子部で[wr]儒[br]
家類[/wr]は分類としては従来の通りであるが内容的に膨張してゐるのはやはり宋儒以来の性理の[br]
書類が多いからで一時活動が停頓したかに見えた支那の思想界が印度文化の影響[br]
によって再び活動を開始してからの記録がすでに十分歴史的になってゐることを注意す[br]
る必要がある。集部では最後に詞曲類を加へともかく南北曲に関するものとして顧曲[br]
雑言、欽定曲譜、中原音韻の三部だけを著録してあるのは恐らく欽定曲譜と云[br]
ふ勅撰本のおき場所に困って新設したといふ申し訳的のものであらうがつまりかかる曲の[br]
如きものは堂々たる四庫全書に収めがたいといふ習慣もあったことで表面はつとめて除外して[br]
ゐるが一方では揚州に於て黄文□が勅命を以て曲海を編纂したと云ふ事実を併せ考[br]
ふれば表裏のある支那の状態を察することができよう。ことに総目提要について注意したきは[br]
内容においても随分精細な点もあるがこれを表すのに典雅な文章を以て一貫したことで[br]
ことに各の子目の叙論の如きは再読して厭かない妙味があってこれあってこそ勅編の盛[br]
にかなふに足るものである。内容から云っても勿論誤も相当あり今日では余嘉錫の四庫[br]
提要辨証の如き刊誤の精密なものも出来てゐるが、当時として而かもこの大事業をわづ[br]