講義名: 支那学概論
時期: 昭和15年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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類似した条件をもってしかも極めて相反すべき性質を示すものこそ即ち陰陽といふことの性質[br]
を最も端的に表現したものであって陰陽の上に之を統べてあるものを考へるといふ思想が後に発[br]
生するのも元来陰陽が相反対のみする概念ではないことに本くに相違ない。かくして陰陽はこの[br]
方向における原理としての地位を確保する。元来陰と陽とが対立するといふ思想も支那語の性[br]
質に負ふことが多く支那の言語が単音節であることに対してちやうど時計の刻みをチクタクと数[br]
へる様に心理的にこれを二つづつ束ねてゆくことは避くべからざる道理である。すでに陰といふものが考[br]
へられる時はその次の瞬間に陽が考へられるのである。更にその次に考へられるものが陰と陽とに[br]
□つて概念の発展が一段落をつけることである。そこに陰陽を総括した太極といったものを後[br]
に考へ出す機運があらかじめ動いてゐる。そしてこの陰と陽とはこの方向のみについて言へば宇宙[br]
の原理から人間の男女その他あらゆる対立的の現象を説明するに利用される。それほど言葉[br]
としてはわづかに一音節たるに拘らず包括することは宇宙の半にわたり或は宇宙の半にわた[br]
るが故に宇宙の全部にわたるとも云へるのである。これが支那の言語文字の特質の表現であると[br]
ともに支那の思想を総括的ならしめる所以にもなる。(周易といふものこそ最も明瞭にこの思想の[br]

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発展を示したもので更にその発展の過程として二といふ数にする数学的知識を加へたもので結[br]
局二の三乗で一時停止して遂に八の二乗まで延びて行った。漢のころに楊雄が太玄経といふものを作ったが勿論[br]
周易の模倣であるがその組織は三を中心として三の二乗の九になり九の二乗の八十一首にす[br]
すむ。その形式は四本づつの爻になってゐるが易の爻は□□の二種たるに比し太玄では□□□の[br]
三種たることが著しい相違である。この楊雄と云ふ人物は当時における新体制派であっ[br]
てこのころ喧しかった天文学の議論に蓋天説と渾天説との二種があって種々討論が行[br]
はれてゐたが蓋天といふのは周髀とも云って天が丁度蓋笠の如く地上を蔽ひ或は天が少し傾い[br]
て北極は天中にないと考へるものでつまり天は地の上に在りと考へるものである。渾天に至って[br]
は全く之と違って天は卵の如く地は黄味の様に天の中にふくまれたもので天の表にも裏[br]
にも水があるから平均がとれてゐて天は地のまはりを回転してやまないものだといふ。かういふ自然科[br]
学的学派が当時提出されたことは相当興味のあることであるのみならず支那人の思想が常[br]
に綜括的に天地を考へ宇宙に連る以上かういふ学説こそは当時の思想界の重要なる影[br]
響をなすべきもので現に楊雄が論語に擬して作った法言の中にある人が渾天のことを問うたとき[br]

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の答として落下閎が営み鮮于妄人が度り耿中丞が□ってきっちりと合ったものだといひ、蓋[br]
天はと云へば蓋なんぞ何ぢや合ひはしないぞと一蹴してゐる。現に太玄の中でも巻頭第一に馴乎[br]
玄、渾行無極、正象天といって太玄と渾天との関係ふかきことを力説してゐる。之に反して呉の姚信が昕天論をかき晋[br]
の虞聳が穹天論をかき虞喜が安天論をかいたがこれらの天体[br]
論はすべて蓋天論の焼き直しであってその著者たる姚信は周易注十巻を著し虞氏とい[br]
へば有名なる易学者虞翻の一族であって見れば蓋天と周易、渾天と太玄といふ関係[br]
は自然認められようと思ふ。ここに興味あることは周易の智識は支那語自体から発生する[br]
二元論であり太玄は三元論に組み直したものであり渾天はすなはち西洋方向から流れこんだと[br]
思はれる天体論であって見れば蓋天は支那に自然発生した天体論である。この組み合せは当[br]
然周易と蓋天とが一組であり太玄と渾天とが一組であるべきにも拘らず支那の思想史におけ[br]
る太玄と渾天とが一組であり、太玄と渾天とが一組であるべきにも拘らず支那の思想史におけ[br]
る太玄の勢力は遂に周易に及ばず自然科学史において逆に葢天の勢力は逆に渾天に及ばなかった。つまり思想にお[br]
いては支那語自体から発展したものが勝を占め自然科学においては自然現象に即した議[br]
論が勝を占めたわけである。[br][brm]

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世に支那人は自然においては向かないといふ説をなす人が多く(その意味において渾天説の勝[br]
利も一つの証拠として好いことであらう)但し自然科学といってもし西洋風の分析的方法論のみが[br]
認められるならば支那人の言語が概念と総括する方向に特色をもつ以上比較的有利でない[br]
ことは確かである。ちやうどギリシア式の数の現わしかたからは数学が発達せずにアラビア式の[br]
位取り式から今日の西洋の数学が発達したように支那風の概念を一括する言葉ではある[br]
一部の現象を抽出してその共通性を変化せしめて行く様な分析的科学には西洋人に劣り日本[br]
人に劣ることは十分理解される。しかしながら科学と雖も必ず分析的方法論のみを有利とし[br]
綜合的方法論を排斥するものではない。その一例として私は支那の医学に対し特に興味を持つ[br]
ものである。元来西洋風の医学は解剖によって発達したものであるだけ一種の細胞医学であっ[br]
てたとへばある臓器の研究をするについてはその臓器の性質又はその病気については極めて精密[br]
なる研究が行はれあらゆる動物実験によってその機能の種々な場合における状況とこれに対[br]
する処置を考究した人が苦痛を訴へる場合には直ちに内外科耳鼻科眼科の如き専門にわかれ病名を定めて[br]
診療する。いかにも至れり尽せりの如くであるが支那風の医学は病名といふものに重きをおか[br]

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ず病気の経過といふものに重きをおく。人間の臓器は決して個々別々に存在するものではなく[br]
てすべて有機的に連関する。したがってある機関の故障は必ずしもその機関のみの故障ではない[br]
こともあらうしその機関の故障といふよりも他の機関の故障の余波によるものと考へることが適[br]
切にもなるであらう。そこで全貌な病気の経過を診察するために脈といふものを極めて重視[br]
する。ただ脈の数を時計によって測るといふ様なことでなく極々簡単に挙げたものでも脈の大と[br]
浮と数と動と滑とは陽脈であり脈の沉と満と弱と強と微とは陰脈で陰の病気に[br]
陽の脈が出たら生きのびるが陽の病気に陰の脈が出たら見込みがないといふことが漢の張仲[br]
景の傷寒論の巻頭第一に明記してゐる。かやうに人の病が直に天地陰陽に関する様に[br]
書かれてゐることは一見極めて抽象的に見えるが事実薬にも陰陽の別があって陰の病には陰の[br]
病を与へ陽の病には陽の薬を与へるべきであり万一之を誤れば不測の禍を生ずることは、[br]
つまり人の定めた陰陽としても今年の病と昨年の病とは邪をうける所は似てゐてもその経過が同じ[br]
くないのはやはり天地の自然が人に及ぼす影響の結果であってこれは誰にも容易に了解できるこ[br]
とである。漢法で云ふ病気の経過は太陽、陽明、少陽、太陰、少陰、厥陰と一めぐりして又[br]

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もとに帰る。普通の経過ならば一週間で治癒すべきものでその間発汗剤と与ふべき経過、下剤[br]
を施すべき経過を見て適切なる処方を下すのが漢方としての妙処であって、西洋風の機械的な投[br]
薬から来て病をこじらすといふ様な危険のないものである。況して歯のいたみを内服で解決す[br]
れば、二度と生える筈のない歯を磨りへらす愚と学ぶこともなく盲腸炎といへば直に切開[br]
し、時に非常な危険を生ずることもあるがその結果たる盲腸の炎病は事ここに至るまでの[br]
腸内の瘀血の排出によって源から直すこともできる。目がわるいといふ場合に眼だけいくらいぢ[br]
っても効果のないとき内服によってめきめき効果を奏することもあると云ふ。肝臓の病は[br]
腎臓との関係から解決でき胃の病は脾との相関関係で説明される。甚しきは趺陽の脈[br]
といって草鞋をむすぶ時の紐にあたる脈が遅くて緩かであれば胃は丈夫であるが、その脈が浮[br]
いて早ければ胃と脾とがわるくしかもそれは本来の病ではなくて医者が下剤をかけた影響[br]
にすぎないと云ふことまで事こまかに考究されてゐるのは人体のあらゆる部分につき常に[br]
全身の調和に重点をおいて観察した結果であって、ただ動物の肺や筋肉を実験材料[br]
として分析一方の研究、人間としてではなく生物としての研究にのみ没頭する医学にあって[br]

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到底達成しがたき境地でありこの漢法医学の特質こそ支那学の特質を示すもので自然[br]
科学の方面においても人間的な点から云へば却て西法にまさること万々たるのもその直感的な[br]
総合的なることに本くのである。勿論支那においても漢法はすっかり勢力を失ったことは事[br]
実であり西洋の医術が時にとって極めて必要なことも疑ないがこれは一面には一般に医学の智[br]
識がなくためにインチキな医者が跋扈し魯迅が吶喊の序にある様に冬の蘆の根とか、三[br]
年の霜を経た甘蔗だとか、一夫一婦の蟋蟀とかいふものを処方してほとんどそ[br]
の效を見なかった積悪の結果であって、ちやうど今の開業医が腸チブスがわからずにいき[br]
なり下剤をのませて腸出血を起したり肺炎にみだりに冷したりして内攻せしめたりするのと何[br]
れおとらぬ庸医のなせる業であって、中法西法そのものの特質は決して見逃してはならな[br]
いのである。[br][brm]
支那にはいはゆる五行思想といふものがあってあらゆる自然でも人事でも五つの文科にして[br]
論究してゆく習慣がある。これは恐らく陰陽の様に一対では解決できないものを解決した一[br]
つの公式であって元来天上に五つの遊星があることを発見したがためにかやうなものが考へられ[br]

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色でも方角でも人間の五臓でも帝王の徳でもことごとくかかる解釈が加へられてゐる。[br]
しかしこれは要するに一種の説明をつけることであり何とか理屈をつけて済まさうといふことにす[br]
ぎない。別にこれが論理的に欠陥ありともないとも云へない問題にすぎない。これは支那の如き[br]
老大な国家、極めて老成な国民にあってはさやうな説明を加へて当座の間に合はせるといふ老[br]
獪は免れないことである。清朝の制度を見ても大清会典の中に各省□□の□賦が銀三千一百[br]
一十八萬四千四十二両有奇、銭一十二万三千六百貫。糧は三百六十二萬四千五百三十二石有[br]
奇、草は束で計るものは五百二十六萬二千八百有奇、斤で計るものは一千四百九十萬三千有[br]
奇と□□□げて更に此を各省にわりあて事細かな規定があるので正直な西洋人はこの通り実行[br]
するのかと驚いてChinese numberなどと称してゐるが支那の政治家はずっとゆとりがあって[br]
然るべくやって済ますのが常でつまり一通り計算上の説明さへつけば好いのであとはよろしくやって置[br]
くを西洋人は心づかない。西洋人のみならず日本人でも西洋風のものの考へかたに慣れて支那人のず[br]
るさを知らない人がたまさか支那の書物を読むと支那人は論弁を好んで外に向かって自己を主[br]
張することばかり考へて思索に長ぜず反省と内訳とを好まず客観的に事物を正しく視ようと[br]

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つとめず聯想によって種々の観念を結合し又は五行説の様に一定の図式にあらゆる事物をは[br]
めこむことを好むといふ風な批判をする人もできるが実は支那人としても五行説の図式は一種の[br]
クロスワードパヅルとして考へるだけで思想家の遊戯にすぎない。勿論遊戯を好むといふことは真面目な内[br]
省を妨げる一つの原因にもなるが常に遊戯とするだけの余裕をもつことは全体に人間としての[br]
生活にうるほひのあることで単に人間が機械に化して個性を全然没却した様な生活は支[br]
那人には耐へがたいことである。ある日本人の外交官がスイスかで支那の公使と懇意になったが日[br]
本の公使館はまるで事務所で何の装飾もなく況して日本の趣味など一つも現れてゐないが支[br]
那の公使館には支那の名画がかけられ支那の美しい茶碗で東洋の茗を喫し書画翏棋の[br]
楽を揃へてゐることに羨望の念を禁じえなかったと云ふ。私が曾てある支那人が日本に来ら[br]
れるので家を世話したことがあるがその人が着物を解いて最初に机の上においたものは実に法帖[br]
一冊であった。そこに支那人の生活に関する態度を学問文化のゆとりが認められるのである。[br][brm]
かやうに老獪になることは一面から云へば経学の如きものの凝固した原因とも考へられる。少くとも[br]
ある尊厳なものを定めて此を動かさい様にしてなほその間にいろいろな条件を動かすことは一種[br]

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論弁的な意味に於て興味のあることでかの六朝あたりの経学がモツトーとした疏不破伝といふ[br]
様な考へ方は単に事実の真相のみを知ることから云へば恐らく最も無意味なことであらうが[br]
一面老獪にして芸術的な興味から云へば単に百米競争といふ様な一直線に走るだけのスポーツ[br]
よりもいろいろ複雑な規則のある野球の方が見物人にとって面白い様に単に原典批判と[br]
云ふ様な無条件にどこまでも進める様なものよりもいろいろ複雑な条件を存しておいて而[br]
かも巧みに之を切りぬけて行く方が逆に高級であるとも云へる。そこに古代人の真相を知ると[br]
いふ歴史的の探求といふことよりも近代人の芸術的思索としての高度の発展が認められる。そこ[br]
に六朝の経学が一種独特の生命を持つものである。六朝の疏の如きものは元来仏教における[br]
疏から発達したもので各の経書及びその伝注の矛盾せるところが多い中に在りてたまたま[br]
当面の経伝を巧みに説明して行かうとするもので別に問者が在って種々の難題を出した場[br]
合にそこを上手に切り抜けてぼろを出さない様にするものである。これが為には経書の全般につ[br]
いての教養も必要でありこれを分析的に論理づけることも必要であったからその頃の経学に[br]
おいては経伝について科段を分つといふ研究法が行はれた。たとへば周易の疏を見てもその最初に[br]