講義名: 中国の文化と社会の諸問題中国における思考形態と生活形態
時期: 昭和25年~昭和29年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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中国人の生活形態が必ず中国人の思考形態から築かれたと考えることは、いささ[br]
か無理が伴うといわねばならぬが、しかし中国人の思考形態の特色が中国人の生[br]
活形態の特色と似通った点の多いことは安心していえると思うので、ここにそれらの[br]
点をまとめてみたい。[br][brm]
まず中国人の生活形態について最初に注意されるのは、個人の生活が一つの[br]
完成した形をとっていることである。これについて林語堂がMy country & my [br]
peopleでいった表現がいかにも中国人と日本人とをよく現している。それにはまず[br]
日本人はいつも忙しそうで、電車や汽車の中で新聞をよむ。いかにも頑強そうな顔で[br]
顎を引きしめ、眉には数知れぬ困難が蔽いかぶさったような格好で、次の大戦で日本が[br]
世界を破るに非ずんば日本が世界に破るるという覚悟でその時[br]
機到来を待っている[br]
といっているが、何とこのことばは太平洋戦争のおこる十年前に述べられている。[br]
その破るということはsmashという英語で書かれている。しかるに中国人は[br]

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その長い上衣をつけて、何物といえどもその夢を揺り動かせないほど落ちつき、ま[br]
た満足しまたのんびりした状態にある[br]
といっている。これには戦争当時ある中国の青年は日本の学生に告げて「君たちは勝つか敗[br]
けるか一本道しかないが、われわれはどっちにころんでも構わないのだ」といっていたこと[br]
を思い出す。そして林語堂は更に語をついで[br]
中国人は常に自分で、その民族は沙を盛ったお盆のようなもので、それぞれの[br]
砂粒は個人といえないまでも家族である。しかるに日本民族はまるで一片の[br]
大理石のように堅まっている 一盤散沙  a tray of loose sands [br]
といっているが、こうした状態のもとに日本の運命は賭けられていたのである。わ[br]
たくしは戦争のころ林語堂のこの本をよんで膚に粟を生じた感じを今に忘[br]
れることができない。日本のことはしばらくおき、当時の中国人はたしかに一盤[br]
散沙であって、これをバラまけば一遍に散乱するが、またこれをまとめれば直に[br]
元通りになる特色をもっていた。すなわち林語堂は砂粒を家族として考えたが、[wr]わ[br]

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たくし[/wr]はむしろ個人として考える方が適切であると思う。それほど中国人は一人[br]
一人が独立した存在であり、一応一人一人があらゆることについて外敵に対抗し自己[br]
保存の本能を完うするように作られていた。これは古代の思想家の学説についても[br]
然りで諸子百家の学説はさまざまであったが、それは他の学説をふまえてその上に立[br]
つものではなく、すべてが根本から枝葉までを備えていた。 橋川説 [br]
一応その学説が採用されたらそのままで一切の事件を処理するだけの[br]
組織が完備した体勢をとっていた。しかもそれは必ず何かの生活体制にむかってある特長を備えていた、農とか医とか兵とか法とかさまざまの分類による生活の特色を出してはいたが、しかもそれは中途半端でなしに一応それで一切がまかなえるようになっていた。それは個人の生活でも同じで、他人に頼ることなく[br]
自分の能力だけで独立する体制は常に失っていない。その適例は日本に来ている留[br]
学生で戦時中日本に送られた留学生たちは故国政府の保証のもとに旅立ったのであ[br]
るが、不幸にも戦争の進行とともにその源が絶たれたが、彼等は何等の自己保存の[br]
途を講じてあくまで自活をし通した。それどころか日本の老人が帰[br]
還してよるべなき身で中風をおこしているのを北京で知ったという留学生がひきとってせわしているのを[br]
この目で見ている。こうした個人の独立自活という気風はあるいは中国の家庭の複雑さに負う[br]

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ともいわれているが、多数の家族、ことに富んだ家では妻妾同居している複雑性において[br]
よく自分を保存するには幼いときから相当の訓練が要求されていたかも知れないと思[br]
う。こうした自分だけが完全に独立し得る体制を備えたとしても、社会において自[br]
己を保全するには単なる個人の力だけでは如何ともすることができない。そこで当然[br]
の要求として自分の完全に信頼できる人を求める。それはちょうど言語で類似[br]
を求めるならば単音節で一切のことを表現し得るにもかかわらず、また一方二[br]
音節の熟語をおびただしく作ったようなもので、最小の単位は血縁による家族で[br]
あり、また地縁による同郷であり、また職縁によるギルドまたは友人である。こ[br]
れを巧に作りあげることは自己保全の極めて重要な方法であって、これを作るために彼[br]
等は慎重な注意を払って相手を観察し、それが果して信頼することができるもの[br]
かどうかを見きわめる。日本人の如くいきなり意気投合するというような[br]
ことはない。と同時に一応信頼したとなれば永久に変ることがなく、一切のものを提[br]
供して憚らない。これも留学生諸君との接触によって常に知られることであるが、わ[br]

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りあい小さいグループではあるが、そのグループはいつまでも崩されない。その間に不幸[br]
なことがおこればそのグループは全力をあげてこれを援助する、という実例は非常に多[br]
い。それだけにそこに至るまでの警戒は厳重で、中国学者がむしろ本国よりもわれわれ外[br]
国人を信頼していたことをさえ想起する。[br][brm]
次ぎには種々の状勢を判断するにも概ね直観にたより、即ち勘の働きにたよること[br]
が多い。それが極めて正しい判断となることが多い。太平洋戦争が始まったとき日本[br]
の敗戦を即座に予言した曹汝霖が結局あらゆる勧説を退けて身を完うした[br]
ことなどもその勘のよさを知ることができる、それは常に状勢について左右両面にわ[br]
たり微妙な観察をすること、そしてその両面について深い顧慮を払いつつ生活の方[br]
向をきめることなどによる。その生活のしかたの一つは完全に時期を失わぬ中にむしろあらゆる[br]
誘惑を棄てることで、中国における道家の教えがそれであり、曹汝霖について云えば[br]
五四運動のとき学生の袋たたきにあうと、それ以来忽ちもはや自分たちの出る幕[br]
でないことを悟って仏門に帰依し、一切世事をあずかりきかなかった。それを立てとおすことを世間もみとめた。もう一つは儒家的に[br]

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世間に出て活動はする。しかしそうなれば必ず一大変化がおこることは予想できる。だ[br]
から必ず何らかの形でその反対の立ち場にも連絡をつけておく。これはかの陰陽という[br]
考えかたで述べたごとく、陰陽は互いに消長するものであって、いつまでも陰であり陽[br]
であることはない、という考えと同じく、人の進む道、生きかたも常に互いに消長があ[br]
ることを信じ、必ず左右の中間に立つ。その中、もし右に偏るとしても左にある重みを[br]
かけて、一時に倒れぬように用心する。その著しい例は日本と中国との間の不[br]
幸な葛藤で日本側に立って協力したある日本通は戦後戦犯として裁判[br]
された。しかしその前に彼はその幼い子をひそかに延安に送っておいた。その子の出発を[br]
知っていたある友人は、その子があたかも鄰に赴くように平気で延安へ向うのを見[br]
て心に泣いた、といっている。しかもこうした心づかいによって父の戦犯は遠からずして解[br]
除された。延安以来の功を立てた子が父のために嘆朝したからである。北京と重慶との間の交通などはほ[br]
とんど誰でもがやっていた、父が北京を離れぬ限りその子は重慶に赴くのが定石であ[br]
った。しかし日本のため積極的協力が辞されないかぎり重慶では不足で、延安が必要にな[br]

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る。なぜならば一方が右に傾くほど左へ足をのばす必要が大きくなるのである。つまり中国人の物の[br]
考えかたのABの間に重心をおく行きかたを生活形態の上に示したものであった。そ[br]
れを全体として考えたとき、やはり突飛でないあるモデレートの範囲に留まったことに[br]
なる。こうした考えかた生きかたの最も原始的なものは農民たちの間における変天思[br]
想であって、天候が必ず晴雨こもごもおこるように、支配者も必ず甲乙交替するという[br]
考えで、自然、あらゆる生活の方法は一方的にならず必ず他方を予想して行う。晴[br]
れだけの支度をすれば雨のときに困るように、雨だけの支度をしたのでは晴のときに困る。[br]
どんな政権といえども必ず倒れて反対の勢力が推してくるから、そのときに困らないよ[br]
うに用心する。これを変天思想といって民衆のあいだに極めて普遍的に行われる考え[br]
かたで、民衆の生活はこうした考えかたに沿うて立てられる。だから思い切った改革は非常にむつか[br]
しいのである。[br][brm]
さらに言語について語法というものがハッキリした形をとっていない如く社会生活としては法[br]
律が少なくとも有效に働いていない。法律はあってもこれを実際に動かすのは成文法[br]

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よりも習慣であり、文字よりもむしろ勘であり融通が利き妥協を許す余地はど[br]
こにでも存在している。曽て日本人が満洲に学校を経営したとき、旧暦を排除する目[br]
的で冬休みは陽暦の過年に定め、陰暦には休みを作らず、自然学生の帰郷も[br]
許さなかった。その旨を学校にも掲示しておいた。しかるに陰暦正月になると学生が帰[br]
郷を請願に来る。掲示を見たかといえば見たという。ではなぜそうしたことを請願す[br]
るかといえばそこをよろしくという。これを通融通融というのである、つまり法律では禁[br]
止しておいてもその情勢判断によっては適当な処置が許されることになっているからで[br]
ある。それは今の中共貿易についても同じで、中共と貿易をしても、中共としては外[br]
国との貿易を禁ずるから何にもならないからといって反対者は説明する。おそらく貿[br]
易名目で輸出を禁ずる法律ぐらい出すと思う。しかもこれは一応の話であって法律はそうして[br]
おいて、実際面で融通しておけば決して不自由でない、况して旧い中国には絶体の[br]
禁止もなし絶対の放任もないところやはり中国の語法を通して中国人の考えかた[br]
に一脈通ずるものがある。そのいわゆる慣習のもっとも著しいのが面子問題であって、[br]

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法律にも何もない面子ということが法律よりも厳しい拘束を持つ。それも絶対な面子[br]
というものはなく、ある適当な振りあいを与えるというだけのことで、その場という枠を限ってその[br]
中ではどれだけの面子をふりあてるかが問題で、自然ふりあてるものに一定のものはなく、と[br]
もかく何かありさえすればよいのである。従って訴訟のばあいにも一方を全然無視した方法[br]
は結局問題をこじらすだけであって、むしろドロンゲームに終らせることが本当の裁判[br]
であった。たとえ全然理由のないときでもこれを窮地に追いつめるときは必ず反撃が[br]
おこる。テニスのボールがなくなった。苦力がそれを拾ったに違いない。苦力は頑固に[br]
否定する。しかしやがてボールのなくなった場所へゆくと、こっそりズボンからボールを落し、それ[br]
を見つけた格好をして、「ボールがあった」という。女中が主人の家で来客の小刀を失[br]
敬する、それをあとでテーブルクロスの下から見つけたといって仰々しくさわいでさし出す。[br]
それで面子は保てた。[br]
傭人が鉄瓶の蓋がないという。蓋のない鉄瓶は役にた[br]
たないからと屑の道具と一所に隅にほっとく。忘れた自分に下男がその鉄瓶御不用でし[br]

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たら下さいという。勿論呉れてやる。しばらくしてその傭人が病気で宿さがりをする。心[br]
配で見舞に行くと何と鉄瓶が蓋と実とをそろえてチンチン沸いている。そんな私物[br]
は中国産でないから蓋だけうまく見つけることができないのはわかっている。主人は又[br]
してやられたと思うが、それは絶対に口には出せない。口に出したら面子をこわすからで[br]
ある。[br][brm]
こうした面子や習慣によって秩序づけられた社会は既定の枠から外にぬけだすこと[br]
ができない。何ごともその枠の中で通融通融することであって、それぞれの場による調和をとり妥協をするの[br]
が合理的であると考える。語法というものが確立せずむしろ修辞や譬喩が力[br]
つよく働くその言語と考えかたと極めてよく類似する。そこに決定的な改革がで[br]
きにくいことは言語においても単音節という一番原始的な音韻形態が今に至るま[br]
で保存されていること、語法ではただ線条性と緊張性にのみ頼る原始的形態[br]
が今に至るまで保存されていること、文字では表意文字という一番原始的なものが[br]
今に至るまで保存されているように、社会においてもほぼ原始的な放任された[wr]自由[br]