講義名: 中国の文化と社会の諸問題中国における思考形態と生活形態
時期: 昭和25年~昭和29年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
中国社会の指導理念がこれだけ変化したとすると、社会における個人の地位もおのず[br]
から変化を生ずる。前に私は林語堂のことばを引いて中国人は一盤散沙であるといっ[br]
た。ということは良い意味では個人の独立でありわるい意味では社会との没交渉であり孤立であ[br]
った。曽て私が北京にいた頃あたかも一九三〇年頃、共産軍がソヴェト政権を樹立[br]
し蒋介石がこれを討伐する。一方では馮玉祥、康生智、石友三、韓復渠さらに閻錫[br]
山、李宗仁、鹿鐘麟、何鍵などまでが蒋介石反対を宣言したなどという複雑な[br]
政局であり戦争であったが私を十ヶ月食客として置いてくれた北京のある大学教授[br]
は私に新聞紙を指さしつつ自分にはこういう軍人たちについてどっちがどっちの味方なのか到底わからない、ただ共[br]
産軍はたまらないと感ずるだけだと正直なところを漏らしその一方一生懸命詞を作ってくれていた、という程社会の[br]
状態については無関心であった。その日常生活にしてもそれぞれの家は高い塀をめぐらし[br]
門には必ず目かくしをおいて忠厚質家久、諸書継世長などという文字で内外[br]
を厳しく分けている。これらはたとえばアメリカの住宅を見た中国人の感想として「[br]
塀がないのでひろびろしてはいるが深みが足らない。道ゆく人も窓ごしに緑の袖[br]
や紅のよそおいを眺めることができピアノの音や笑いささやきを聞くことができる」とい[br]
って中国人の詩歌にある「奥ふかし」とか「たれこめて」とかいうことばが全然あてはま[br]
らないと述べている 謝冰心、実小読者一五四 ただし家の中のことが外[br]
の人に分かることがただ一つある。それは夫婦喧嘩のときで、しかも奥さんが物凄[br]
い声を出して隣近所に夫の非を鳴らすときである。これは体面を重んずる中国[br]
人にとって誠に耐えがたいことなので夫の方から降参してその対外宣伝をやめても[br]
らうのである。それ以外家庭の中にどういうことがあろうと外からは一切伺い知る[br]
道もない。それが解放中国では文字どおり解放された。食事をしていてもフラリと[br]
誰か入って来る。別に厳しい声もたてないが、まず御馳走ですね、と来る。一般人の[br]
食生活にはある限度がある以上、すこしでも御馳走ですねといわれると、弁解しな[br]
ければならない。今日は私の誕生日ですからという、するとその男はポケットから手帳を出[br]
して、はてあなたの誕生日は何月何日ととどけてありますが、それはまちがっていたので[br]
しょうから今度は今日が誕生日ということに書きかえてあげますと来る。これでは[br]
個人の自由もない、面子もない。面子はあるかも知れないが面子にかけてもう一度そうい[br]
うことのできないように強制されるのであると旧い生活をなつかしむある北京人が私[br]
に語った。街を歩いていてもどこかの陰に身をひそめた人がいる、ひそかに出入りしたつ[br]
もりがすっかり知れている、まるで息がつまりそうだという。いかにも鳥籠をさげ長い[br]
着物を着て郊外に長の一日をあそびくらした人たちにとっては耐えがたい束縛である[br]
に違いない。いつ咎められるかも知れないから長い衣物はやめて労働服をきる。遊びご[br]
とをしていては大変だから働くまねをする。というのでは長つづきしないから怨嗟の声[br]
がおこる。ただしこれは新しい社会に移りかわる、いわば汽車に乗りおくれた[br]
連中の不平であって、汽車そのものは遠慮もなく驀進しているのである。そこに多くの[br]
人民文学にもりこまれた葛藤がおこりそれが翻身として解決している。[br][brm]
たとえば董迺相という一労働者――天津の北停車場の鉄道労働者――のかい[br]
た「うちの女房」という小説であるが、解放後、工場ではみな生産の恢復にいそがしく[br]
機械の応急修理をしたり大部隊の南下輸送にあたったりしていたので、毎日家へ[br]
帰るのは八時か九時。妻君は必ず毒つく、よその家じゃとっさに帰ってきているのに[br]
お前さんだけこんなに遅くなって、おまけに一向儲けてもくれない」と。そこで工場は今、[br]
われわれの物になったんだといえば、ますます怒る「そんならなぜ工場の物を家へ運ん[br]
で来ないの」と。冷飯を自分でよそって食うほかない。困った夫はひとつ家庭婦女座談会をききに行かせようと考えたが、妻[br]
君はそんな所に行くはずがない。それで鄰のおくさんを動員して間接に引き出そうと考[br]
えた。そこで鄰へいって話したが、鄰でもそんな遠い所へ行ったら足が棒になる、と[br]
いう。そこで出まかせに「芝居もありますよ」というと、芝居ずきの隣りのおくさんが陥[br]
落して自分の妻君もさそうことになる。さて座談会にゆくと主任たちが女性解[br]
放を説き、そのあと彼女の夫たちが汗水たらして働いている状態を見学させた。それを見て[br]
さすがに、ふだん帰ってくると怒って冷飯をくわしておいたことが何とも妻君にこたえ[br]
て、それからはおそく帰ってもうどんをあたためたり餅をあたためたりしてくれる。だんだん[br]
文字を習って本をよみ、それから月給を全部わたしてもらって自分で予算を作って節約した[br]
結果子どもの衣物もできるようになった……[br][brm]
と、一応筋からいえばたあいのないようなものであるが、ここに非常な実感をおぼえ[br]
る。全然社会のことに関心のなかった家庭婦人たちがこうして目ざめていく実例が[br]
極めておびただしかったことは、むしろこうした小説がむやみに書かれて千篇[br]
一律だという批判が出たほどである。もちろんそれが指導者の方針にマッチしすぎ[br]
ていることもあろうが、そうした題材が事実どこにでもころがっていたのである。[br][brm]
こうした従来ほとんど社会意識をもたなかった人たちに新しく社会意識を植え[br]
つけることは比較的容易であって、おびただしい大衆が新しく立ちあがる姿にわれわれは[br]
しばしば目を見張るのである。しかしこれとともに従来の社会に対し[br]
指導的な立ち場をとってきた人たちにとってはこうした変動は決してなま[br]
やさしい問題ではない。といってこの人たちはもとより清朝の遺臣でもなければ復辟[br]
党でもない。むしろそうした連中と戦ってきた勇士たちである。しかも彼等がそ[br]
の生命を賭してまで戦った戦いはたしかに勝利を占めているので決して敗戦投手では[br]
なかった。しかしもっと烈しい戦いが彼等の勝利とその後に来る安心の間に彼等を[br]
よそにして戦われていた。だから文字革命 一九一七年 の花やかなりし頃、あれだけ盛[br]
名を歌われた胡適に、私が一九三〇年の夏上海であったとき彼はしみじみと自分[br]
は老古董だといった。だから今日、彼は中国に足をとどめることができず、アメリカに[br]
亡命の生活を送っている。また一九二〇年に有名な文学研究会の十二人の発起人[br]
の一人として起ちまた小説月報の改革を断行した鄭振鐸が一九三五年に中国[br]
新文学大系の文学論争集の導言で、劉半農のことば「われわれ最初[br]
に文芸革新に努力したものは一押しで三代以上の古人になってしまった」ということ[br]
ばを引いている。劉半農のごとく淡白にしてそして早くその生を終ってしまった人は幸と[br]
もいうべきであるが、多くの曽ての指導者たちはみな大きな悩みを抱いている。それは彼[br]
等が曽て指導理念として掲げたものが全くある段階の社会のために考えたもので、[br]
今日最も重要なる指導理念とのあいだに相当なズレがあり、はなはだしきは[br]
矛盾さえあるからである。[br][brm]
ここにその実例の一つとして梁漱溟のことばを引いておきたい。梁漱溟は一八九三年に生[br]
まれているから数え年では六十に達する。その父の梁済はかの文字革命の翌年、[br]
同時に五四運動の前年に新文化の夢から国民をさますという目的で自殺した[br]
といわれるが、梁漱溟は東西文化とその哲学の考えかたで農民の中に入りこみ郷村建設[br]
運動を指導した人で、もとより新思想の理解者でありまた実践家でもあった。[br]
その梁氏が一九五一年十月の北京光明日報に発表した「この二年間に私はどう変[br]
ったか」という論文こそ特に注意を惹く。この二年間とはいうまでもなく一九四九年の[br]
中華人民共和国成立以来を指さすものである。彼は一九四九年の人民共和国成[br]
立前夜まで自分の正しさに自信を持っていた。それが一九五〇年一月に四川から北京に[br]
出てきて、その年の四月から九月にわたって華東華北および東北のある地方を視察[br]
したこと、一九五一年の五月から八月まで四川省東部の合川物雲門郷の土地改革に[br]
参加したこと、また同じ七月に中共創立三十週年について重要論文をよんだこ[br]
とが原因であると自分でいう。しかし私はむしろこれよりさき一九三八年一月に梁漱溟が延安に毛[br]
沢東を訪問したことが重要でないかと思う。それは毛主席が農村運動をやって[br]
どんな問題あるいは困難を感じたかということを問うたので、梁氏はすぐ、一番困難[br]
なのは農民が静をこのみ動をこのまないことだと答えた。すると毛主席は梁氏が[br]
語りつぐのを許さず、「あなたはまちがっています、農民は動こうとしているのです、静[br]
かでいようなどと考えていますか」といったと云う。しかも梁氏によればその農民[br]
指導を通して一つの体験があった――たとえば農民は新しい事物に対して興味[br]
も感ぜず受け入れようともしない。また多くのことができあがってみれば農民はその[br]
便利さを感じながらそれを始めるのもおっくうがり、消極的な態度をとるものだ[br]
ということであった。その点が梁氏の以後の体験によってくつがえされた――農民の[br]
静をこのみ動をこのまないというのは表面の観察でしかなく、彼等と一つの心になっ[br]
ていない証拠であると自ら反省している。梁氏はこれだけ農村指導に[br]
体験をもったと信じていた、だから容易にこれも動かなかった、それが新しい環境[br]
のもとに行われている大衆運動を見るに及んで、ついにその膝を屈したのである。ま[br]
た社会学者として有名な費孝通があるとき毛主席から手紙をもらったので喜ん[br]
で主席をたずねたところ、主席はたちどころに彼の従来の著述のあやまりを何十条[br]
かにわたって指摘した。これが費孝通の思想改造のいとぐちであった、という話もあ[br]
る。また新儒教派の筆頭として有名であった馮友蘭がその膝下である清華[br]
大学の変貌とともに文学院長、哲学科主任の地位を退かねばならなくなった。そ[br]
のとき淋しさのあまり毛主席に直接手紙を送り「新しい中国からとりのこされたく[br]
ない」ことと「新時代に学んで自己を改造したい意欲」を訴えたところ、主席か[br]
らただちに返事がきて「知識分子の改造は時間を要する困難なものであるが君の[br]
学習に期待する」とあった。彼は非常に感動して遂に自ら土地改革にも参加し[br]
て学習を積んだ。こうした報告が「中共の人間革命」として日本にも紹介され[br]
ているから詳しいことはそれに譲るが、最も困難なるはずの知識分子の改造がこれ[br]
だけ着々と進んでいる以上、むしろそれだけのこだわりがないいわゆる大衆がいかに動[br]
いているかを想察することができよう。ここで私はかの五四運動のときに北京に居た[br]
アメリカの学者デューイの手紙の一節を思い出す[br]
中国人の保守性とは私がかねて想像していたような慣習へのこびりつきという[br]
ものでなく、もっとはるかに知的で思慮ぶかいものである。したがって一度その思想[br]
が変化したとすれば、人民は、日本人よりももっと完全にもっと全面的に変化するで[br]
あろう 世界七月号 阿部知二 遺憾という意味[br]
このことは私が前回もふれたように中国人の一つの生活形態として情勢が不安定[br]
のときは極力慎重に用心して一方の倒壊によって自分を全部失うことのないように[br]
するとともに、いざ安全となった暁――その見とおしをつけることにおいても極めて明敏な直観をそなえているの[br]
であるが――彼等はその新しい道にむかって驀進する。つまり阿部知二氏のいう[br]
如く「完全に禍根を残さずに変化するためには数十年の忍耐が必要であった」ととも[br]
に、いざ大衆がこれに応じたとなると、その勢はもはや何物もこれを止めることは[br]
できないのである。むしろ方向は大衆自身がその生活形態の中に備えているので[br]
ありその思考形態の中に含めてあるのであって、ただ指導者がこれとマッチしたとき始め[br]
てそれがハッキリ外に現れるのである。だから梁漱溟のいうごとく自分が大衆[br]