講義名: 中国の文化と社会の諸問題中国における思考形態と生活形態
時期: 昭和25年~昭和29年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
揃うならばこれらの地域についても当然考えられると思うが、ソヴィエトの如きわずかにロ[br]
シア語が前期後期あるだけで、ロシア文学科やロシア文学講座がないばかりか、曽て行われたロシ[br]
ア文学史という講義さえ長く開講されない状態である。教養学部も同様でただア[br]
メリカ、イギリス、フランス、ドイツの文化と社会があることに対しソヴィエトや中国が全[br]
然なしでもという形ばかりを国際関係論 International affairs ということで彌縫している実情である以上、[br]
当分これも見込みはない。東南アジアを特にとりあげることはあるいは山本教授の[br]
帰朝によって発生するかも知れないが、今は未知数である。インドは印度哲学梵文[br]
学の講座があるが、さて area study として一応現代のインドという地域をふまえてやる[br]
ことはむつかしく、いずれも古代だけの専門家しか用意されていない実情と察する。して見れ[br]
ばこれらの諸地域についての可能性は今のところ存在しない。一方ただ中国だけの地域に[br]
ついて行われるのは意味がないという考え方もあるので、私はむしろ他の地域についての実[br]
施が計画され、またそのための経費が不足だとあればいつでもそのためにわれわれの計画[br]
を御破算してお譲りしてよいとまでいっているが、誰もやる人がない、ということから事実として[br]
中国の問題だけが細々ながら三年にわたって続けられたわけである。[br][brm]
以上はむしろ他の地域についてなぜ行われないかということを述べただけで中国について行われ[br]
ることの積極的説明にはなっていないので、以下その点について説明を加えたい。これについての第一の原因は云[br]
うまでもなくこれまで中国が日本にとって極めて大きな存在であり、また現にそうであるという[br]
ことである。明治維新以前の日本は千年以上にわたって絶えず中国を先進国として尊んで[br]
いた。もとより時代によりほとんどそのままといって好いほど模倣したこともあり、また相当に日[br]
本の特色を出したこともあるが、中国の文化と社会とは積極的にか消極的にかともかく日[br]
本をリードしたことは否定できない。直接に日本から選ばれた人たちが渡航して彼を見学[br]
した時代には自然見聞した智識を日本にもたらしできるかぎりそれを実行してみるこ[br]
とはこの人たちの使命であった。それは日本の社会にとってごく一部の階級にしか影響しな[br]
かったかも知れないが、それらの人たちが完全に主動権を握っていた時代は模倣のしかた[br]
も容赦ないものでありえた。しかし鎌倉室町を経て日本社会の構造も大きく変[br]
貌し江戸時代に入って中国との直接交渉が中絶したとともに日本文化の自覚が次第に[wr]生[br]
長し[/wr]、自然従来ほとんど唯一の学問であった漢学の基影から国学がやっと芽生えたわけ[br]
である。このいわゆる漢学には今のいわゆる「背骨を作る」という考えよりも異種の文化を吸[br]
収するという使命が与えられており、中国という地域に発達した文化伝統や社会構造[br]
を知ることによって日本自体の文化と社会とをゆたかにしようとしたことが多かったと思う。そ[br]
れは江戸時代に入って当時の武士の階級はもとより庶民の中でも生活にゆとりのあるものは唯[br]
一の学問として漢学をやることが流行した。庶民のためとしてはいわゆる心学道話といったもの[br]
も発達したが、そうしたものの基礎には漢学を通じて輸入された中国社会の実践倫[br]
理が含まれていた。これが今に至るまで漢文必修説の根拠であるが――ともかくこうした[br]
唯一ともいうべき漢学には学問としてはたしかに地域学の匂がしていた。たとえば医学で[br]
あるが、当時の医者はみな漢法であって――精々が和漢――医者の中に有名な漢学者[br]
が多かったともいえるし、漢学者で医を業としていた人が多かった。また天文暦算とても[br]
漢学者として知られた人がやっている。まして制度法律乃至刑法など今なら社会科学に属する[br]
ものも漢学者のしごとで、荻生徂徠が明律に詳しかったのはその顕著な例である。つま[br]
り今日の大学にあてはめれば数個の学部をかねたようなものである。今日の大学ほど大規[br]
模でないまでも――それよりも今の欧米の学問がその文化や社会とともに日本の学問文[br]
化社会を威圧している如く、中国の学問乃至中国人の知恵が日本の学問や文化[br]
社会を威圧していたのである。従ってこの当時では中国の文化や社会についての知識は[br]
一般に極めてたかく、ちょうど今の大学生諸君が西洋―欧米について有する知識[br]
といった程度であったろうから、その当時では特にわれわれのやろうとする如き地域学といっ[br]
たようなことは特に施設を用いないほどに達していた。これにはアメリカの学者が感じ[br]
ているような言語研究のために莫大な時間と精力とを注ぎこむ必要があった。それは[br]
いわゆる狭いいみの言語という方法でなしに文字という方法を通して行われたが、その実施はかなり[br]
残酷な方法で少年を強迫し、四書五経というものを日本の書物もよまない中に叩き[br]
こまれた。これが今日に至るまで新制高等学校で論語や孟子をよませないと背[br]
骨のない人間ができるような錯覚を生じたいわれである。しかしこうした教育や勉強は[br]
日本の中に中国に対する尨大な蓄積を生じた。これはアメリカあたりのように最近中国研究[br]
をやりだした国では想像もつかない尨大なものである。[br]
そしてそれは明治以後にな[br]
って新しい学問の方法が西洋から伝わるにつれて、早速そうした形に改変されることになり、[br]
最初に新しく生まれたのが史学であってわれわれの属する語学文学がこれに次ぎ、お[br]
そらく哲学思想が次第にこれに次いで新しい形になって整備されると思う。[br]
また法制史、経済史、科学史、技術史、乃至農芸や医学などについても中国の[br]
方法を西洋に照らしてそれぞれの工夫が行われていて必ずしも漢学という形でなくして[br]
それらの研究ができるしくみに進んできた。たとえば東洋史であるが、江戸時代は『十[br]
八史略』であり『史記』であったのが、明治になって西洋の史学の方法論にのっとった形が生まれ[br]
那珂通世博士のごときそれにも拘らず『東洋通史』をわざわざ漢文で書かれた――今は[br]
岩波文庫の中に和田清博士の訳で出ている――更に桑原隲蔵博士に至ってやっと日[br]
本語で書かれた『東洋史』が生まれたわけである。こうした径路は語学文学も哲学思[br]
想も遅かれ早かれ進むべきものであって、それでなければ中国を新しい立ち場から[wr]科[br]
学的に[/wr]研究できないこと云うまでもない。しかし一つ大切なことはこれらの中国の研究が[br]
ただ史学だけまたは思想だけというのでなしにいわゆる支那学として非常に広い[br]
立ち場によって支えられてきた。これは何も日本だけのことでなしにフランスの如き中国研究に[br]
古い伝統――ヨーロッパとしては古い――をもつ国では Sinology ということばで包括され、[br]
中国の一切の学問やその研究がとりあつかわれてきた。たとえばわが東京大学に附[br]
設されている東洋文化研究所、また京都大学にも人文科学研究所がある。京都の[br]
研究所は西洋のことも含まれているがその主要な部分は曽ての東方文化研究所であ[br]
った。そこではひろく中国の思想、言語、文学、歴史、地理、政治、経済、天文、数学、[br]
建築、絵画、宗教、考古学などにわたった研究が系統的に行われてきた。つまりそ[br]
うした体系によって個々の専門が支えられてきたのである。そのためにそれぞれの専門家もやはり他の[br]
分野についての相当な常識をそなえない限り自分の専門に安んじてやることはできな[br]
いという事情にある。これはつまりわれわれの考える area study と極めてよく似た方[br]
法である。従ってわれわれの講義は一面たしかにアメリカからの刺戟に負うことを認め[br]
るとともに、別に少なくとも日本に伝わった支那学的な行きかたが多分に影響し[br]
ているといってよい、いわば日本の支那学とアメリカの area study とを父母として生まれたものと[br]
いえる、というほどに日本には中国についての遺産があった。だからこれを利用するならば[br]
われわれの講義を実施するだけのスタッフが揃うわけであった。ただしいわゆる支那[br]
学が果たして直ちにこの目的に叶うかといえば必ずしもそうは行かない。というのはやはり[br]
支那学はあまりにも多くの遺産を背負いこんでいるだけにとかく古典的なしごとにのみ[br]
没頭しやすく、とすればやはり書物または遺物に重点がかかりすぎてそれを作った人たち[br]
に目がとどかず、まして最も重要な書物または遺物はむしろ現在の中国で生きて働[br]
いている大衆であることに注意されない嫌いがあった。その点たとえば私が委員長として[br]
実施している文部省科学研究費による綜合研究「中国の転換期における社会[br]
経済文化の相関関係の研究」の如きこうした盲点を衝いて中国の現状に重きをお[br]
いたしごとであり、これには言語、文学、美術、歴史、法律、経済、産業などの各部[br]
門のエキスパートが集まっている。これらの機関なり研究会なりが行っているしごとこそ正に[br]
日本の支那学乃至中国研究がアメリカの area study に連なる面であった。元来[br]
欧米での中国研究ははじめフランスの支那学に芽生えたのであるが、それがとかく一種のサロ[br]
ンの学問になろうとしたのに対し、アメリカが極東研究の必要を認めて開始したことは[br]
そうした珍しい国のことを研究するというのでなしに自分の国と密接に関係すると[br]
いう立ち場でありこれを Sinology ということは誤解されるおそれもあるので別に Chinese [br]
studyということばが使用され、アメリカの一般的な意味での area study に直結す[br]
るのはこの線であると考える。と同じように日本でもこれまでの支那学――それは漢学[br]
から脱皮したものであるが――それを更に止揚した新しい中国研究がわれわれの講義[br]
の直接の支柱になっている。従って単に中国のことを研究しているというだけではわれわれの[br]
計画に直ちに参加されにくいことが発生しているわけでもある。[br][brm]
これがわれわれの area study が中国を対象とする限り一応成立できる[br]
いわれであって、そのためにこそ三年にわたってこの講義がつづけられた。今その前二年の成[br]
績を顧みると、第一年度は中国文化の問題、中国美術の問題、中国宗族の[wr]問[br]
題[/wr]、官制の問題、政治の問題、農村社会の構造によって組みたてられ、第二年度[br]
は言語文字問題、近代化の問題、近代思想の問題、自然地理と人文地理、経[br]
済の問題、および農村社会によって組み立てられ、そして今年は思考形態と[br]
生活形態、民族の形成、音楽、民間信仰、宗教講と、農村問題など、そして[br]
特に新しく帰朝される山本教授によって area study そのものの問題が再検討され[br]
る予定である。これにはひとり文学部の教官が参加するばかりでなく、東洋文化研究所、[br]
社会科学研究所または理学部、教養学部の諸教官、また一橋大学、成蹊大学の[br]
先生にも講師としてお願いしてリレー式に講義を進行させ、単に一年だけのリレーでな[br]
しにここに三年めのリレーに入ったわけである。これはわれわれのように大きな綜合大学、[br]
また東京のようにその他の機関の多いところで始めて実現できることで、地方の大学でもこれ[br]
に傚いたいと考えたところもあるそうであるが、実施はできず、結局今のところ東京大学だ[br]
けが行っていることである。もとより前述の教養学科では米英独仏について行っているが、これは[br]
英独仏の語学の先生が多いというところからできたことで、中国についてはちょうどソ連[br]
と同じく International affairsの中に揮しこまれているにすぎないし、またあの陣容では到底実施の見[br]
込がない、なお特にこの計画がわれわれ中国研究のグループが発起して最初からこれを[br]
推進してきたことについては更に二つの系因を指摘できる。その一つは中国の学問が互いに[br]
密接な関係をもっていて西洋の学問のような分科的発達をとらなかったことで、これが一応[br]
中国人の文化が西洋文化に席を譲った理由にもなるが、これというのも従来あの地域に一種[br]
孤立的に存在してあまり他の大きな文化によって変貌を受けず、いわば自然状態のまま[br]
に長いあいだ放置されていたからで、それだけ地域としての特色はどの一端をのぞいてもわかるわけで[br]
ある。いわゆる一隅をあげて三隅を反すという趣がつよく、すなわち地域的研究が特に[br]
重要な意味を持つからである。それは前述のごとくアメリカでも極東に関心をもった[br]
時にすぐこの方法がとりあげられ――ただ政治的の目的だけでなしにドイツから入って[br]
アメリカで発達した文化人類学的なやりかたが採用されたからだとあるアメリカの[br]
学者がわたくしに語った――また日本でも支那学という方法が発達していたことで[br]
もわかる。第二はこうした事情にある中国の研究が広くいって日本の学制、また[br]