講義名: 中国の文化と社会の諸問題中国における思考形態と生活形態
時期: 昭和25年~昭和29年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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狭くいって東京大学はじめ大学の学制と矛盾しており、ために研究や学習に非常な[br]
不便があってどうにかしてこれを克服したいという考えかたが期せずしておこったからである。仮[br]
りに中学以上をとっていても中国に関する智識を組織的に教える学科はどこにもない。[br]
漢文はあってもこれは国語の補助でありおまけに修身の代用品にされる。外国語としては中[br]
国語をやるところは極めて少ない。東洋史は近ごろ世界史にふくまれているか東洋史とい[br]
えばやる人が少ないからせめて世界史の中にもぐりこむのだという。もちろん世界史は西洋[br]
人の生活記録を示したといってよいほどで東洋史は望遠鏡で見る程度である。またこれ[br]
らの学科があっても国語、外国語、社会などに入ってそれぞれ選択であるからこれを全部逃げて[br]
しまっても大学へ来るにいささかもさしつかえない。とすると東洋のことを全然知らない[br]
大学生がたくさんできることになる。さらに大学でも専攻以外はほとんど興味がないとした[br]
らいわば社会の指導にあたるはずの最高教育を受けた人たちがつい目と鼻との間の[br]
中国について全くお先まっくらになるという危険がある。もっともこうした制度にもかかわら[br]
ずさすが新しいゼネレーションは感が発達していて中国のことが結局日本にとって、すなわち[br]

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われわれ一人一人にとって死ぬか生きるかの問題であることを自覚している。第一今度の[br]
戦争がどこから始まってどういう結果になったか考えただけでもすぐわかる筈である。[br]
大人は健忘症ですぐ忘れてしまうが少年たちはよくこれを自覚している。だからこそこの[br]
講義も成りたつわけであり、現に昨年度のごとき受験者八十人にのぼった。序のようで[br]
はあるが、アメリカの地域学について地域における組織的にまた均衡のとれた智識を[br]
与える方法のほかに語学についておびただしい時間と精力とを注ぎこむことが注意されてい[br]
る。わたくしは直ちに聴講の諸君にこれを要求するのではない。なぜならアメリカの地域[br]
学は専攻なのであって、その専攻に属する学生としてはまず第1年はほとんど朝から[br]
晩まで缶詰めでいわゆる intensive method によって訓練され、それがほぼ終ってからいろいろな[br]
綜合的智識を授けられるわけで、先生も専任の先生がちゃんとできている。しかしここでは[br]
決して専攻でなく誰でも――どの学科の専攻でも聴講して単位をとることができるしくみで[br]
あって性質が違う以上、そうしたことを要求したってできる筈はないのである。ただもし暇のい[br]
くらかでもある諸君はやはり中国語の智識――話すとかきくとかが自由になるのは容易[br]

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でないが――をいくらかでも持つことは極めて有益であるとは上げてよい。文学部にも中国[br]
語の講義が設けてもなし、私が主宰する講習会も神田にひらかれている。ことに夜の講[br]
習会に非常に多くの若い人たち――その半数は婦人――が冬も夏も熱心にマニヤ[br]
かと思うばかりにつめかけられるのを見ると、若い人たちの自覚について非常な心づよさ[br]
を覚えるのである。これらの人たちのそうした希望に通ずるものがこの講義にも存在し[br]
ているのであって、決して大学という特殊な施設の中だけの問題でなく、われわれの講義[br]
は声なき大衆と通じ姿なき大衆に囲まれているのであることを特に上げたい。特に最[br]
近の中国を知りたいという熱意はわれわれもしばしば驚かされるくらいで自然大学生[br]
諸君の知識水準も大きく動いていることを知って頂きたい。われわれはこうした所からぜ[br]
ひ大学の講義に少なくともこうした匂をとりこみ味をつけたいと思ってこれを主張し、また[br]
維持してきたわけである。[br][brm]
最後には聴講される諸君との御相談である。第一はこの講義がわずか八週ぐらいの講[br]
義をリレーでやるため――二三週のこともある――しかも中国という大きな相手についての[br]

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更に重大な変動期についての問題を極めて短い時間でつめてやることは無理だという説がお[br]
こる。いかにもその通りでたとえば昨年度一橋大学の村松先生に中国経済の問題を[br]
話して頂いた。予定より一回のばして九回やって頂いたわけであるが、それでも文学部学生とし[br]
てまだ経済学そのものをこなしていない方の中には「やっと分かりかけた頃に済んでしまって、また[br]
新しい先生が新しいテーマを提げて立たれる」のでやりきれないという意見が出ている。いかに[br]
もその通りでおそらく村松先生が経済専門の一橋大学生のためでも一年かかってやられる[br]
講義を八九回に圧縮されたのであろうから、きいていてはエキスだけ頂くので味はコッテリしている[br]
が消化できないことになるおそれはあると思う。これは、極めて卑近な経済上の理由、こうした[br]
講義を毎年六七単位もやることが予算でおさえられているからであって、これはこうした講[br]
義を発展させるまでお待ちねがいたい。尤も、かといってその欠点を補わないというの[br]
でなくて、このための方法としてしばしば教官――できれば関係教官を一応御案内して[br]
座談会をひらくことで、昨年度もわたくしの言語文字問題のときは国語審議会長、[br]
土岐善麿氏やカナモジ会の岡崎常太郎氏および本学部の時枝教授に来て頂いて[br]

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日本の国語国字問題についての討論会を行って非常に活発な議論を展開したし、またもと燕京大学教授の呉文藻博士にも来ていただいたこともある。[br]
今年も諸君の御希望を参酌して適当な機会を設けたいと考える。できたら単なる教[br]
壇の上からの講義でなしに、同じ平面でいわゆる共通の席場を築いてゆきたいのであ[br]
る。それについて妨げになるのは聴講学生が多すぎることである。勿論どの講義も学年始[br]
が多く、そして試験のときが多いのであって、これを否定する根拠は一つもないが、アメリカ[br]
の地域学は専門のせいもあるが人数を制限してある。アメリカのある教授はこういうコースに、ただ[br]
講習会式にいろんな人が入りかわり立ちかわり話してゆくのはナンセンスだとさえ極言してい[br]
るという。われわれがこの講義をはじめるとき教授会でいろいろな議論が出たが、わたくしは[br]
数が多いこともなかろうといったのであるが、事実この講義のファンもできてだんだん多く[br]
なる傾きがある。といってこれをどう限定するという方法もないから、結局つまらないと思[br]
う方は遠慮なしにやめて頂いて――誰も居なくなると困るが――熱心な中核だけを残[br]
したいので、それらの人たちとしばしば討論しあうところにこの講義の意味があるわけで[br]
あることを御諒承願いたい。[br][brm]

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 次ぎに試験の問題で、これは最初から必ず教室で筆答することに定まっていて、今までの[br]
慣例としては一部二部とも大きく三つに分かれるのでそれぞれから一題づつ合せて三題出してその中の二[br]
題をえらんで解答することになっている。従ってただ単位だけとればという人は三分の二出席[br]
するか、またはその分のノートを読んでくれば間に合うわけであるが、それはこの講義の[br]
主旨には合わないことである。もちろん単位をとることを考えるのはあたりまえであるが、[br]
不学の結果を急ぐよりはなるべく出席して討論にも参加していただきたく、その意味で一部二部に通じて[br]
出席させるのが最も望ましい。昨年度は第一年度の試験のあとで全然ふだん出席もせず答案もでたらめな[br]
学生もあるといってある先生から私が叱られたので、各部三つの小分科について[br]
そのどれに重きをおいて研究するかを聴講カードに書いてもらったが数が多すぎて結局[br]
これも成功せず、かなり無責任な答案や白紙の答案が出たりしてまた私が叱られて[br]
いる。その点は今年度なるべく坐談の機会を多くして数は少なくとも精兵主義で行きた[br]
いと思うから、決してむりに単位をとろうとして又私が叱られないようお手[br]
やわらかに願いたい。[br][brm]

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ここに「中国における思考形態と生活形態」という小題目を選んだについて、わたくし自身ふりかえってその一つの動機[br]
となるのは、わが本居宣長が古事記伝の中で述べた[br]
心と事と言葉とは相かまえて離れず[br]
という一語である。本居宣長といえば今から百五十年前になくなった人であるが、このことばはちょうど全く[br]
同時代のカントのことば、これにわずかおくれたヘーゲルのことばが今のわれわれにとって生きて[br]
響くように、少なくともわれわれが古代の文化社会を考えまたは外国の文化社会を考える上[br]
について極めて生き生きと蘇るものがある。宣長自身は日本の古代の文化や社会を[br]
研究するばあいの研究法としてこのことを発見しまたこれをこのことばに纏めて表現したの[br]
であるが、われわれが外国としての中国の文化や社会を考えるばあいの研究法としても極[br]
めて適切であると考える、否われわれが現代日本の文化や社会を考えるについて[br]
さえ極めて重要なアドヴァイスであり得る。もとよりこの宣長が書き残した表現[br]
は当時の日本語で、しかも文章語であるから、われわれが今これを理解するには現代[br]
の日本語で、しかも話しことばに改める方がよい。とすると心とは人間が物を考える[wr]作[br]

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用[/wr]を示しており、事とは人間が生きて営むしごとであり、それが言葉と互に組みあわさ[br]
って離れないということであるから、これを翻訳すれば「どう考えるか、どう生きるか、[br]
どう話すか[br]
が密接に連関する」ということになる。どう考えるかはいうまでもなく思考形態であ[br]
り、どう生きるかは生活形態である。従ってこれらを研究するにはどう話すか、即ち[br]
言語との連関が何より考えられるわけで、われわれがこの問題[br]
にとりくむ時、直ちに考えかた、生きかたについて把握することが困難であっても、言[br]
語という形態を媒介にしてこれを捕えることができる。事実考えかた生きかたを[br]
いきなりつかむことは至ってむつかしく、むしろ言語をまず考えてそれから、どう考え[br]
るかを考え、またそれからどう生きるかを考えるのが便利である。これをふたたび[br]
本居宣長のことばに還元するならばまず言語を考え次ぎに心を、そして更に[br]
事を考えることが研究法として最も自然であると思うので、ここに中国の言語から[br]
中国人の思考形態とそして生活形態とを考えたいと思う。[br][brm]

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 尤もこうした研究は従来にも行われなかったわけでなく、現に本学部助教授中村元[br]
氏の大著東洋人の思惟方法一九四八年刊がおよそそうした方法を用いており、[br]
その第一部がインド人シナ人の思惟方法であった。いうまでもなく言語(といった抽[br]
象的な)活動または生活は人間にとって普遍的であり、これが人間と鳥獣との[br]
区別になるといわれているが、実際上、普遍的な言語形式というものは存在せず、自然、[br]
言語には普遍的な共同ということもありえない。従って抽象的な言語ということは考え[br]
られても、いざ現実の問題になると、どれか一つの特殊な言語を捕えるほかはない。そのい[br]
わゆる言語という表現形式は人間の意識の内部にあって、具体的な思惟[br]
作用を一定の形式に秩序づけて行うための規範になる。もとより人間の思惟に[br]
は極めて普遍的な必然的な根本原則があって、あらゆる民族を通じ個人差を[br]
超えて万人に妥当するがこうしたいわゆる思惟法則というものも実はそれぞれの特[br]
殊な言語形式を通して顕現するのであって、その言語形式が違う以上には思惟もまたそれぞれの違[br]
った形式によって制約される。従ってそれぞれの言語形式、特に grammar(文法)や syntax [br]

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文章法を資料とすればそれぞれの言語形式を共通する――それが民族を形[br]
成する重要な要因であるが――人たちの間に共通な思惟形式、または思[br]
考形態が発見され、またそれらの人たちと他の言語形式を持つ人たちとの間[br]
における思惟形式の差を見出すことができる、ということは論理的にみて一応是認[br]
されてよいと思う。ただし思惟と言語とが常に平行的であると考えることには勿[br]
論考慮の余地があって思惟のあつかい方と言語のあつかい方とは慎重に区別し[br]
なければならないと説く人もあり、たしかにそうした注意も必要であろう。といって両者[br]
の間にある程度の相関関係や平行関係があることは否定できない。思惟は言語に[br]
先だつものであるが、これを発表するための必須の条件として言語が存在し、即ち[br]
これまでに記憶された語句を材料として一定の文法的形式に従ってこの思惟乃至[br]
感情をはめこまねばならない。だから少なくとも発表された思惟においては言語形[br]
式との関係を無視することは絶対にできない。ただこれをあつかう時にいささか慎[br]
重にすべきであるというだけのことである。[br][brm]