講義名: 中国の文化と社会の諸問題中国における思考形態と生活形態
時期: 昭和25年~昭和29年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
木をなぜtungといったかといえば中に穴があいているからで、ちょうど洞をdungという[br]
のと同じで、そこに穴があいているという性質がある以上、これを唇を丸くして穴の形を作って[br]
出す音声によって表わす。况して形容詞や動詞はその音声を耳にするとともにその[br]
性質を思い出したりその動作を思い出したりすることが容易である。中国の標準語[br]
における音節の数は四百十一と計算されるが、これに四声の別を加え、更にその中から実[br]
際に使用されない組合を除くとおよそ千三百種ほどになる。そのほとんどすべてはただそ[br]
の音節一つをきくとともに何か具体的なimageが浮かぶのである。現代の標準語[br]
についてこれを研究したのは燕京大学陸志韋氏の北京語単音詞典であって、単[br]
音で思い出されるかぎりの意味を集録してあるところの貴重な業績である。ここにわたく[br]
しはグラネ氏に本ずいてimageと称したのは、その概念が一面かくも具体的であるが、[br]
実は極めて抽象的だともいえるからである。なぜならばその性質なり動作なりはいか[br]
にも生き生きとつかんであるが、それはその本質をズバリと穿っただけで、たとえば買と[br]
か賣とかについていってもそれは元来maiという一つの音節から分かれただけで、[wr]同[br]
じことば[/wr]であった。つまり買でもなく賣でもない、というよりは買でもあり賣でもある部[br]
分、それは金などを媒介として物品をある所有者から次の所有者に渡すという動作が[br]
imageとして出る。そこには金とひきかえに品物を取るという動作がハッキリ喚[br]
起されるが、といって誰から誰へということは捨象された一種抽象的imageである。[br]
四百十一種の単音節に四声の差を乗じた千六百四十四種――千三百種ばかり[br]
が実際に使用される――はほとんどすべてこうしたimageを示していて、自然、あ[br]
る堅い中心があるとともに、その周囲にはこれをとりまいた暈が幾重にもあるので[br]
あって、これを具体といえばいえるとともに抽象といえばいえる。グラネ氏は中国語[br]
の動詞はただ動作そのものを抽象的に考えたのではなくて、動作自身とともに[br]
その原理、その目的、その作為者およびその結果をふくむ具体的な全部で見[br]
たのであるといっているのは、その音声の持つかぎりの暈をすべて考えたのであり、これは[br]
一応具体といえるかも知れないが、もしその中心の堅い芯だけを考えるならばこ[br]
れを抽象ということができる。むしろ具体と抽象とか表裏をなした形であるともいえよう。しかもグラネ氏が中国語で動作を描写するには動作の中心([br]
essence)で描写せずにそれが実現されてゆく過程の状態のaspectで描写する[br]
といっているのはかなり難解であるが、おそらくフランス人の普通の考えかたでいえば動詞とは人[br]
称や時制を考えるのがその職能で、そうしてこそ動詞としての姿が顕現するからそれを[br]
以てエッサンスとしたのであろうし、中国語はその点に無頓着である代りに動詞そのもの[br]
が継続したり断絶したりする所をねらうことを注意したかと想像されるが、逆にこうした[br]
aspectこそ中国語動詞―ひいては中国語の体系全体における中心であり本[br]
領であると考える。ということは動詞はただ動作のことだけ考えればよいのであって、誰[br]
がやるとか何時やるとかいうことを考える必要がない、それほど独立したものであった。[br]
その点は名詞もそうで数とか性とか格とかいうことから全然離れてただその物だけ[br]
である。これほどハッキリした性格は世界の言語の中でたしかに特別なものであるに[br]
相違ない。[br][brm]
ただこうした言語の性格はたしかに概念を定義づけることに極めて困難を感ずる。た[br]
しかに中心にある一つの芯があってそれは具体的な物や運動記憶などに直結し[br]
ているが、その周囲には幾重にも暈があってその暈のある部分とある部分とは互い矛[br]
盾することすら少なくない。自然、これを的確に意味づけるためには単音節だけ[br]
では覚束ない。さりとて単音節のことだからこれを更に分析することはできない。勢[br]
これを組み合わせることによって概念を確実にすることが要請されねばならぬ。た[br]
とえばmíngという音節がある。それは「明かるい」といったことが芯になったもので[br]
あるが、詳しくいえば夜が明けることも、明けた時のことも、物がはっきりすることも、[br]
物をはっきり見分ける能力のことも、その他これに連なる極めて多くの概念を[br]
暈として抱きこんでいる。だからただmíngとだけいわれたときは中心になる「明[br]
かるい」というようなことは勿論はずれないが、さて夜が明けることなのか、明けたあ[br]
したのことなのか、はっきり見えることなのか、それだけでは決定しない。だからそれ[br]
を決定するには、たとえば夜が明けるならばtian mingといわねばならず、[br]
明けたあしたならばmingtianといい、はっきりすることならmingbaiといい、[br]
物をはっきり見分ける能力ならcungmingといわねばならぬ。そこに単音節語で[br]
ありながら複音節ことに二音節の熟語を絶対に必要とするのである。もとより[br]
どの言語でも一応そういうことはあるが、それは名詞とか形容詞とか動詞とかの[br]
形体的変化に伴って示される便宜があり、自然語尾変化や派生詞という方向[br]
で解決できるが、中国語は主としてそれを熟語の形でまかなう。つまり二つの一[br]
応は同じウェイトを持ったものを積みかさねることによってこれを解決しようとす[br]
るのである。ところがこうして積みかさねられた音節はそれぞれその中心概念を持[br]
つとともに幾多の暈をもつものである。自然白と明とが組み合わされたとき、ま[br]
た聰と明とが組み合わされたとき、その同じ明が違った内容を持つのであって、[br]
仮に図式で示すとしたとき〔図; 〕の如き無数の円がいれまじってできる。もち[br]
ろん明白という風に普通は意識しているかも知れぬが、実は[br]
明乃至白のすべてが包みこまれるのではなくして、相当に捨象されて[br]
いることを知らねばならぬ。つまり、白には「白いこと」が芯になっていると[br]
ともに白ければはっきりもするし、スラスラと自白もする、何もなくてむだ足[br]
したりむだ骨折ったりもする。しかし「明白」といったときは明白むだしたのではな[br]
くて、「はっきり」という線で双方が結びついているのである。従ってこうした結合の[br]
さなかにおいても「明」と「白」とは互いに独立している。少なくとも連合であっても化合では[br]
なかった。概念を定義づけるほど明確にするためにはまずこうした作業を行う必[br]
要があるのである。明かるいとか白いとかいうことは一応五官の一つで[br]
ある視覚作用によって一つのimageがすぐ浮かぶ性質のものであり、これを抽象[br]
することも比較的容易である。しかしもし概念が完全に抽象的であるとき、直[br]
ちにこうしたimageを単音節の中から発見することはむつかしい。だからその場[br]
合には当然最初から二音節語を必要とする。たとえば「大きさ」といった抽象[br]
的概念は「大きい」というimageでもゆかず「小さい」というimageでもゆかない。と[br]
するとこれをどうするか、といえば「大きい」と「小さい」とを組み合せた「大小」という[br]
二音節語で示す。つまり大きいというimageと小さいというimageとを組合せ、[br]
「大きい」から「小さい」までであらゆる大きさが含まれる。これを図式化すると〔図; 〕[br]
のようになって大と小とを左右にふまえてその上に立った[br]
新しい概念が「大小」である。従ってその大きさは必ず大[br]
と小との中央にある必要はなく、その場の状態によっては大[br]
に近づくこともあろうし、小に近づくこともあろう、がそれが大きい[br]
ときまってしまえば「大」になるし、小さいときまってしまえば「小」になる、現に年齢[br]
を聞くときはすべて「大」という。これは実際には小さい子であっても人を小さい幼いと考[br]
えるのは失礼であるという儀礼的な心づかいから多大歳数児ということに定まって[br]
いる。それは年とった人を尊敬するというエチケットを持つ社会で発達した表記[br]
であるが、人に関係のない大きさというとき、大でもなし小でもないときは大[br]
小ということになるのである。元来「大」「小」といった反対概念はどの国語にも当然[br]
あるが、それよりもっと抽象的な反対概念になると民族によってさまざまの[br]
考えかたができる。その例として中国語の陰陽という概念がグラネの[br]
la Pansée chinoise の中でも扱われているが、グラネはこの書物の中で幾た[br]
びかこれをフランス語に翻訳しかけてみて、いつも匙を投げている。結局フランス語[br]
では説明になっても翻訳はできないのである。わたくしもある日本の漢方医学研究[br]
者から同じことをたのまれた。その人はレッキとした医学博士であるが、西洋の医学[br]
では直し切れない病気に手こずってから遂に漢方を生涯の事業としてこれに没頭[br]
している人であるが、もとより旧来の漢方のように今の科学にマッチできないものでなくて、今[br]
の科学の欠陥を補って新しい科学として生かそうとする点に機軸を出している人[br]
である。しかるに漢方はただ風邪にはアスピリン〇・五といった処方をするのでは[br]
なくて、その病気が身体全体の不調和から発生しているという原因をきわめねばな[br]
らぬ。そのためには陰陽ということが極めて重要な考えかたを指向している。陰陽[br]
という概念で考えることは漢方全体の基調であってそれをはずしてはただの機[br]
械的投薬にしかならず、あたることもあろうがそれはまぐれあたりに過ぎない。とこ[br]
ろが今日の日本で陰陽というテクニックを使用すれば忽ち人はソッポを向い[br]
てしまう。精々が陰陽道とか陰陽師とかの迷信にむすびつけるだけで、[wr]非科学[br]
的[/wr]なものと頭から定めてかかる。一つ何か適当な日本語でこれを訳してほしいという[br]
切実な要求である。しかもわたくしは未だにその答案を出すことができずに居るの[br]
である、というほど独特な考えかたであり抽象のしかたである。もし陰をくもりとし[br]
陽を晴れとするならばフランス語にも日本語にも勿論ある。その他月と日、女と男、寒と暖、かげと日なた[br]
にしても、裏と表にしても、陰気陽気にしても何とか間に合わせられようが、それらを[br]
すべたある概念を何と呼ぶか。しかもそれは陰なら陰、陽なら陽だけ独立して[br]
存在するものではなくて、陰と陽とが互いに牽制してはじめて存在する、始めから[br]
対でないと成りたたない概念であった。現にこの二つのことばの発音を考えてみると、[br]
陰は元来imという音であって後に北方語はもとより大部分のことば――広東等[br]
を除いた――で-mが消失して-nに変ったものであるが、これはおそらく中国語で[br]
最も口をあけない音節であるし、陽はiangであってこれは最も口を広くあける音[br]
節である。自然、これらの発音をきいただけで、一方は鬱陶しい感じがしようし、[br]
一方は朗らかな感じがする。しかもこうした対象的概念はそれぞれが一定の[wr]範[br]
囲[/wr]を固定するのではなくて、陰が多くなれば陽が少なくなり、逆に陽が多くなれば陰[br]
が少なくなる。これを古く述べたのが周易であって陰と陽との消長によって一切の現[br]
象を説明している。尤もこれは元来筮竹によるうらないの書物であって筮竹で[br]
うらなった結果は数学的にいって必ず六七八九の四つになるように作られており、こ[br]
うした秘密のわからない人民たちを惑したものでもあるが、それを六と八は[br]
偶数であるから陰とし、七と九とは奇数であるから陽とする。しかも六は陰[br]
が伸びすぎて陽に変るもの、九は陽が伸びすぎて陰に変るものと考え、陰[br]
陽そのものすら固定することなく、消長につれて互いに変化する。というのは元来[br]
陰陽が孤立して存在するのではなく、互いに表裏をなしているからで、陰が一歩[br]
退けば陽が一歩進み、陽が一歩退けば陰が一歩進むとともに、陽が[br]
ゆきつまれば陰となり陰がゆきつまれば陽となるわけである。こうした関係にあ[br]
るものを世上から拾ってあてはめることはできるし、その場合の属性を一々規定[br]
することもできようが、これをすべた概念を他のことばで表わすことはできず、况[br]