講義名: 中国の文化と社会の諸問題中国における思考形態と生活形態
時期: 昭和25年~昭和29年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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経済[/wr]が行われ、中国人はその中でかの林語堂が述べるような落ちつき払った、満[br]
足した状態でのんびりと生活していた。そこに自由はある、しかしそれは近代的な[br]
意味での自由ではなかった。ただ伝統的な自由というもので、天子と政府と人民と[br]
の調和を維持することだけが注意され、――その意味からは天子も絶対に専[br]
横はできない。専制はできてももし専横(○) となったら限度をはずれたわけだから忽ち[br]
倒される。役人も権力はあるが、これも限度を越えると罰せられ左遷される――[br]
社会や経済はただそうした釣りあい以外は放任されていた。自然、本当の意味[br]
の革命というものはなく、ただ政権のたらいまわしに過ぎない。真のアウフヘーベンは曽[br]
て行われず、伝統については全然懐疑の念をもって見られることはなかった。中国で[br]
は暴力革命というべきものさえ、伝統によって承認されていた。つまり天子が専横に[br]
なれば当然暴力革命がおこるという風に考えられていた。さもないかぎりたらいま[br]
わしによって次ぎに現れる支配者は立つ瀬がない。と同時にそれを利用して政[br]
権を獲得したものは同じ原理によって次のものから倒される。従って古代の[wr]政権担[br]

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当者[/wr]たる王朝は、新しい王朝を建設しても決してその前の王朝を全滅させないと[br]
いうことが常識であった。それのみかその子孫を諸侯にとりたて、しかも天子の待遇を与え[br]
た。そしてそれは前の一代だけでなしに必ず二代に及んだ。すなわち周代ならば殷の子[br]
孫を宋に封じ夏の子孫を杞に封じた。孔子が夏の礼を杞に訪いたいといったのがそ[br]
れで、その朝廷のしきたりを維持する特権を許した。ただし上二代に限ったのはやは[br]
り物にはすべて限度があり、ある限度を守るということが主な考えかたで、先祖の[br]
祭り方でも始祖を除いては何代か立てば位牌を形つけて常に一定数の位牌が[br]
廟の中に安置してある(椅子まで)。それが暦法にまで影響し夏は陰暦十月を年の初[br]
めとし殷は十一月を周は一月を年の初めとする。そして秦はふたたび十月にもどる[br]
といった循環的な考えかたが加わっていた。そうした伝統の中で認られた自由が[br]
中国の旧社会の基盤になっていた。つまり自由とはいままで禁止されていたものを[br]
取るための戦いといった構造でなかったから、そこに発展的な要求がなく原理が[br]
更新されることもなかった。ただ「自由の中にアグラをかいていた」だけであるから、[br]

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産業資本主義的形態は発達するはずがない。これを封建と一口にいう人も[br]
あるが、これは注釈つきの封建である。もちろん物的生産は上昇するし経済領[br]
域は拡大し、技術も進歩する。しかし肝腎な原理が一向進まないのだから進ん[br]
だのは技術面等だけでありそれも決して活発なものではない。いわば祖宗の法を動か[br]
さないという範囲でのみ動くのであるからその進歩は決して活発な筈がない。制[br]
度にしてもそうであって、祖宗がきめた官制はいかなるときでも改廃しない。たとえば[br]
周礼の六官、天地春夏秋冬に型どった制度は清朝末年まで吏戸礼兵[br]
刑工の六部分立として綿々として保有されている。しかし時勢の絶対的要求があればこれに[br]
対応するだけの融通をつける。そこで乾隆ごろに軍機処という臨時の役所をおいて軍団の機密[br]
を掌った。しかしそれはあくまで臨時だといって、これだけ重要な役所のことが大清会[br]
典の中にハッキリ出してない。やがて西洋との接触が始まると、ふたたび総理各国事[br]
務衙門ができる。しかしこれも臨時であって六部の方がえらいことになっている。実はあらゆる[br]
権限はこの新しい役所に吸収される。それでも構わない、面子さえ六部に与え、祖宗の[br]

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法を革めないのだという弁解の道をひらいておけばよいのである。[br][brm]
従って中国のいわゆる伝統というものには一つの限度があり自由にもう一つの限度があった。[br]
伝統と自由とが互いに牽制しあった状態において保守ということが行われた以上[br]
純粋な保守としてこれを扱うことが危険であるとわたくしは前にも論じた。それには近年[br]
といっても民国十年ごろに婦人の断髪がほとんど一斉に行われた事実を傍証にしたい。[br]
頭髪は断ったからとて痛いわけでもない。しかもその頭髪を断ることは保守的な人たちにとって決して容易では[br]
ないと思う。歴史を見ても清朝が中原を占領したとき中国人に辮髪の満洲装を[br]
強制した。むしろこのために烈しいレジスタンスがおこったが清朝は敢然としてこれを圧[br]
服して、ついに一人残らず辮髪にしてしまった。清朝の末年に留学生が来たときその[br]
辮髪が切れずに頭の中に巻きあげて帽子をかぶりこれを富士山と称した[nt(0X0040-1060out)]。中国で男[br]
が辮髪を切ったのはもちろん革命のあとであるが、それが随分問題になったことは魯[br]
迅の小説、頭髪的故事や阿Qによく現れている。しかもこれを施行するときは理髪[br]
師が先に立って一人一人散髪していくと、そのあとから日本製の中折帽子やがついて行って頭にの[br]

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髪をきった人は監督が怒って国へかえすといったら人に斬られてしまって逃げ出した。二元の倣辮子をいいつけようとしたが革命が成功すると大変だというのでやめた

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せてやる。これで面子が立つ。このため中国では最近まで小兒でも中折をかぶっていた。ところが[br]
女のばあいはもっと面倒な筈であるが、何とこれも大正十年わたくしが行った頃から始まって[br]
またたく間に断髪が全国に流行した。それを流行といえばいえるのだが、祖宗の法を動[br]
かすという点で大きな問題になる筈になる。それがなぜこんなに早く成就したか、という[br]
こと、これは「中国人の考えかた生きかた」を解くための一つの練習問題といっていい位のおも[br]
しろい課題で、いろいろな御意見が承りたいのであるが、まず私の考えを申すならば[br]
私は肝腎の祖宗そのものが動いてしまったことに大きな原因があると思う。中国で[br]
は祖宗の法という一つの枠があったにはあったが、それは天子、官、人民という枠で同じも[br]
のであった。それが天子を失った以上、もはや枠の形をなさなくなってきた。初めの中はまだ[br]
枠が崩れても中の物は現形を維持していたのが今や時間の経過に伴って中の物の[br]
形も崩れてきたのである。もうそこには祖宗の法というものが少なくも若い世代の人た[br]
ちにとっては権威をもたない。これに代るものは一種近代化の要求であり、これに追随[br]
しないかぎり生活の道が危くなるという直感が自己保全の天性から湧き出して[br]

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来れば頭髪といった痛くも掻ゆくもないもののために犠牲になる必要がないという点に達[br]
してきて、理由よりもむしろ事実、面子だけ立てば実質的なものを取るその実際[br]
的生活法とマッチしてこれに古いしきたりに対する実に徹底したあきらめを生[br]
ずる。中国人のあきらめは没法子ということばに尽きる。火事に焼ければ焼了[br]
焼了却焼了と叫んだらおしまいであと次の建設にかかる。その意味では社会が保[br]
守的であれば保守的になり、社会が改革されれば進歩的になるカメレオン的な順応[br]
性が非常によく出て来る。天子さまさえなくなったんだものという弁解が一つの譬[br]
喩として適用される限りそこに断髪にこだわるよりは新しい生活に入ることが自[br]
己保存の道であることが発見されると思う。ともかくこうして旧い中国人の生活が[br]
いよいよ切りかえられる時が来たのである。[br][brm]
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中国が幾千年にわたる皇帝を失ったのが一九一一年のことであるが、その後たま[br]
たま一九一七年に張勲が復辟を計って失敗し更に一九三二年には滿洲国が[br]
成立して皇帝が擁立されたが、また日本の敗戦とともに瓦解した。皇帝がふた[br]
たびこの国に君臨するという見込みはない、という程に中国人は昔の皇帝―臣―民[br]
という社会構造にあきらめをつけた。私自身曽て清朝及び滿洲国に皇帝となっ[br]
た溥儀氏の侍講をつとめた老先生に聞いたときも、革命とはたとえばといってテー[br]
ブルを指さしこのテーブルにむかっていた人が去って別の人がそのテーブルに着席する[br]
ことですと説明された、という程に革命は決して不倶戴天の仇でも何でもない。いわ[br]
ば政治勢力の交替として割り切っているのであった。従って節操をやかましく論[br]
じた社会でも前の勢力に加担したものは徳義上直に次の勢力には走せ[br]
参じないが、その子になれば何の顧慮なしに新しい政権に加わることができた。[br]
従って旧社会から新社会へ移るばあいも、ゼネレーションの相違が極めてよく目[br]
だつ。而かも旧社会の三本足の一つであった皇帝がなくなってから早くも四十年とい[br]

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う時日を経て旧社会を回復することがこれだけあきらめられている以上、新社会[br]
はほとんど既定の事実の如く新しい目標にむかって歩みを進め皇帝―臣―民の[br]
構造は人民大衆の国といったところまで進歩した。ただし皇帝を失って後も[br]
ただちに社会は崩壊することなく軍閥がこれを支えたように人民大衆の国とは[br]
いっても直ちにその他の階級が否定されることなくこれと連系を保てるかぎりの半プ[br]
ロレタリアート、小ブルジョワジー等がその友軍として抱かれている。自然その掲げる[br]
旗印も直ちに共産主義とは称することなく新民主主義をふりかざしていることも[br]
人のよく知る所である。以下こうした変化およびその過程において中国人の行き方[br]
考え方が如何に変化してきたかを観察してゆきたい。[br][brm]
中国のふるい考えかた生きかたを代表することばとして面子というこ[br]
とがとりあげられた。これに対し解放中国ではむしろ一辺倒ということばが常にきかれ[br]
るが、これこそ極めて注意すべき標語である。なぜなら旧中国では前に述べたように[br]
必ず二股の方法がとられどっちへ転んでも助かる道が自然に考えられていたが、[wr]最[br]

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近[/wr]はこれに反して極めて徹底した態度が要求されているからである。面子さえ立てば[br]
それで解決できたとは考えずにあくまで本質的な解決が要求される。従って中国[br]
の人と人との関係も従来は一応いわゆる馬々虎々主義でありまた[br]
差不多主義であった。胡適がたわむれに差不多先生伝というものを書いた[br]
ことがあったがそれは確にそうした旧生活態度に対する諷刺であった。何事もいい[br]
加減にやるだけで徹底することなしに自然誰からも憎まれることなく自然、自[br]
分にも社会にも何等の積極的貢献を及ぼすことなしに済むことが最も賢いと考えられ[br]
ていたのを嘆いたあまりの文章である。しかるに解放以後は、たとえば親と子との間[br]
でも、論語にある親は子のためにかくし子は親のためにかくすとは正反対に、もし国[br]
家に不利なことがあれば親も子を訴え、子も親を訴えることが奨励されている。ま[br]
た特に北京あたりに育った文化人としては他人の行動についてたとえ憤をおぼえてもこれを[br]
口に出すということは遠慮されねばならなかった。しかるに解放後これらの人々がたと[br]
えば天壇において人民裁判が行われたのを見たとき、その場の状態について昂奮[br]

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し遂に大声あげて「殺しちまえ!」と叫んだ。これは老舍が昨年の人民文学に発[br]
表した感想であるが、ほとんど自分にこんなことができるなどとは思いもかけなかった[br]
ことだという。自然、人と話すにしても昔は何でも好々であり馬々虎々で[br]
事を済ましたのがこの頃は徹底的な討論が要求され、たえず小グループの学[br]
習がもたれ、その間に頻繁な、そしてともかく結論も出すべき方向へと指導[br]
される。前に述べたように旧中国では訴訟でも一方を完全に勝訴することは[br]
決して賢明な判官のわざでなく、必ず他方にも花を持たせねばならなかった。しかし[br]
解放された中国では必ず腑に落ちるところまで質問をくりかえすのである。だから[br]
ある中国人は今では口才が要求されるといった、弁論の術が今はじめてそ[br]
の意味を回復したともいえよう。こうした徹底という精神止揚という考えかたが注文された結果とし[br]
て旧中国の二股膏薬主義は清算され、たとえば外交にしても向蘇一辺倒と[br]
いう標語が掲げられていることは、曽ての遠交近攻とはまるで違ってきたものとい[br]
わねばならない。[br][brm]