講義名: 中国の文化と社会の諸問題中国における思考形態と生活形態
時期: 昭和25年~昭和29年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
わたくしはもとより中村氏の全著述について云々しようとするものではなし、これだけの[br]
大著がなみなみならぬ努力によって作られたことを喜ぶものである。しかし開巻第一[br]
にこうした問題があることを惜んで哲学雑誌に批評したのち、朱烏四号にも触[br]
れておいた。もとよりそれは中村氏にも読んで頂いたことであり、同氏もわたくしの忠告[br]
をこころよく容れてくれられているので、今さら同氏の渡米中を利用して欠席裁判[br]
をする必要もなし、むしろそう受けとられることを恐れるほどでもあるが、一つの[br]
研究法の実例としてまずこれをとりあげた。次にはフランスの故グラネー教授[br]
の研究について述べたいと思う。[br][brm]
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前に述べた中村助教授の東洋人の思惟方法では、インド人の思惟方法と中国人の[br]
思惟方法とを比較したわけで、ことにそれがインドに発生した仏教が東洋諸国に[br]
受容されるときの型を示すところに重点があったため、多くは古典的な論理表現に[br]
捕われた嫌いがなかったといえない。これに反し西洋の言語学者や社会学者たち[br]
はもっと直接に中国の言語を自分たちの言語と比較して、その思考形態の特質[br]
を捕えた。わたくしはその最も重要な一人として Marcel Granet氏をあげたいと思[br]
う。グラネーは1884年に生まれ、1904年にÉcole normale(師範学校)に入り[br]
1907年に史学の agrégé(分科大学または高等学校の教授資格)をとり、19[br]
08~11年にはFondation Thiersの年金受領者に選ばれ、1911~13年中国[br]
に遊び 1913年にはChavannesの後を承けてÉcole Pratique des hautes [br]
études 実修科の極東宗教研究部長となり、1925年には École des Langues [br]
Orientales Viviantes の教授となり、1926年にはパリ大学の Institut des [br]
Hantes Études Chinoises 支那学科の主事となり 1941年に逝去した。彼はフランスに[br]
おける Durkeim(1858~1917)の社会学と前述 Chavannesの支那学とを総合し[br]
た立場をもった特異な学者であって、その重要な著述は[br]
Fêtes et Chansons ancienes de la Chine 1919 支那古代の祭礼と歌謡[br]
昭和十三年内田智雄訳[br]
La Religion des Chinois 1922 支那人の宗教 昭和十八年菊地清(津田逸夫)訳[br]
La Civilisation chinoise 1929[br]
支那文明[br]
La Pensée chinoise 1934[br]
支那思想 昭和廾六年高田淳訳未刊[br]
の四つであるが、最後の支那思想については早くRevue Philosophique [br]
de la France et de l’ Étranger の一九二〇年の一期および三四期に[br]
Quelques particularités de la langue et de pausée chinoises [br]
と題する論文が発表されていて、勿論その中心的な考えかたは一致している。なお[br]
Vendryes の Langage , Introdustion à l’Histoireの序文にアンリベル氏か[br]
グラネの説を引いているが、それはまだ Pensée の出る前であって Revue Philosphique [br]
に拠っている。そして彼がその論文を執筆したのは中国における五四運動の翌年で[br]
あることも知っておく方がよい。なぜならば彼は中国における最新の事態として北[br]
京大学における白話運動、そして保守派が、これに活動した教授たちを処分するよう蔡元[br]
培総長に要求してはねつけられたことまで述べているからである。また自然、これを裏返[br]
せばこうした動きにたいする関心が彼のこの論文ができる一つの機縁になったとも[br]
考えられるからである。[br][brm]
彼はまず直観的に中国語とフランス語とを比較して「中国人の言語には、われわれ[br]
にとってもしそれがなければ思考が成り立たないような精神の操作(opération [br]
de I’esprit)がないように思われると断定し、のちにそれを詳細に述べた[br]
フランス人はフランス語によって論理的訓練のすばらしい道具を持っているが、も[br]
し感覚の世界における特殊な具体的な面を述べようとするときは、苦心を[br]
し工夫をしなければならない。しかるに中国人は描写するために作られてはいるが[br]
分類するために作られていない言語を話しており、定義したり判断したりするた[br]
めにではなくて最も特殊な感覚を喚びおこすために作られている言語を話して[br]
おり、また詩人や歴史家にとってはすばらしいが明晰な思想を述べるために[br]
は最もわるい言語を話している。なぜなら中国語は、われわれが最も必要とする[br]
精神活動を潜在的即興的なやりかたによってしか行い得ないようにさせるか[br]
らである[br]
恐らくグラネの考えかたの根幹はここに在ると思うのであるが、彼はこうして中国[br]
人の思考のしかたを中国の言語から導いた。だから彼はまた[br]
中国語と中国思想とを別個のものとする世人の考えは支那学研究にとって[br]
最も危険なものである[br]
とハッキリ断定している。そして多くの学者の批判にたえるよう神秘の権威を[br]
除くことを念じた。ただ彼が主な資料としたのはこれまで彼が古代の祭祀と[br]
歌謡とでとりあつかった詩経であり、それは孔子よりずっと前に作られていた民間歌謡[br]
であったが、彼は(一)これらの歌謡は極めて単純な、そして土俗学で primitives [br]
と規定されているものと同じ構造の社会の産物で、即ち中国語がその初期にお[br]
いてどんなであったを知るのに好適であること(二)中国古代の話しことばの資料が極[br]
めて乏しいなかにこれらは真の口語であること等によってこれらを資料とし、それが作[br]
られたと想定する環境に合わせて中国人の思考形態を考えることにしたので[br]
あった。しかも彼はこの言語の原初的形態によって中国思想に支えられ、書きこと[br]
ばによってそのまま保存された中国思想の指向性(orientation)は三千年来同[br]
一のものと認めていた。[br][brm]
先ず概念については、ほとんどすべての語が特殊な概念をもち、できるだけ個々の[br]
場に現れる状態を表現する。すなわちこの語彙は分類し抽象し普遍化する[br]
思想や、明晰にして一つの論理構成に導く事物に働こうとする思想を伝える[br]
のではなくて、細分化、特殊化、絵画化の勝った思想を伝える。したがって中国人の[br]
精神は分析によってではなく、本質的に綜合的な精神活動、具体的な直観――[br]
分類するのでなく描写する――によって働いているような印象をあたえるといい、[br]
また中国人が音によって説明することを好むところからその語彙のほとんどすべて[br]
に与えられた表象は概念(concepts)というよりもimagesに近いと考えら[br]
れるし、一方運動記憶を主とする身ぶりを思い出させることによって語にはそれぞれ[br]
具体的意味が与えられているという。つまり中国人の語彙は特に具体的な概[br]
念表象(concepts‐images)に対応し、またそのimageの特徴的な部分[br]
を喚起する力を持つ音とむすびつき、一方では運動記憶を主とする[br]
身振りを形づくる符牒とも結びついて概念表象に対応する[br]
ことを指摘している。以上の指摘は中国語の語彙の成り立ちについて大きな[br]
サジェスチョンを与えている。仮に中国の動詞というべきものをとってみるとき、ほとんど[br]
その大部は手足または身体の他の部分乃至身体全体による運動の型を伴[br]
っている。即ちそれらは原則的に単音節でもあるにもかかわらず、もしそのどれかを挙[br]
げたとき必ずある動作が記憶の中から蘇る。たとえば打といい敲といい摁といい、[br]
寫(逆而折畳)といい折といい挖といい摳といい掏といい挑といい剔といいそれぞれ[br]
の音節を耳にするとともにその動作が反射的に想い出される。しかもその動作[br]
が朗に大きなときは打の如く-aの音を持ち、小さく細いときは剔の如く-i の音を持つという[br]
ように必ずその特徴的部分を喚起する力を持った音とむすびついていることは、た[br]
しかに中国語の著しい特色をなしている。これは云うまでもなく原始人の言語における[br]
共通な現象で、今でも南アメリカ全部にわたって手まねを伴った言語がひろく用[br]
いられており、北アメリカでも身ぶりの言語が広く用いられているという[br]
報告がある。その手こそはマールの云う如くそれが人類言語の中心になることあたかも手[br]
が人類の労働生活の中心になるようなものである。また人類学者マリノフスキー[br]
の原始言語における意味の問題によれば未開人の言語は一つのシンボルと[br]
して直ちに行動に連っているといわれるが、中国の言語もまさにそうした段階を特に多くふく[br]
んでいることわれわれが日常経験する所であり、その点グラネーの考えかたに強い[br]
共感をおぼえる。[br][brm]
グラネーは更にこうした中国語の語彙が根本的において図的表徴に結びつけられ[br]
た音声描写からできていることを出発点として、ことばには初めから音韻の不動(固定)[br]
性という性質があってそれが擬声語によく見られる。そしてその音韻の固定性に[br]
よって、文法形態の創造や派生語の使用によって得られる言語の発展が全く[br]
困難に陥ったと考える。即ちその発展は絵画的な単音語が無変化の表[br]
意文字と結びついたときに不可能となったのであり、この無変化の単音語と表意[br]
文字との結合はあらゆる文法や文章の進歩を阻んだ。そしてそれ以来現実を[br]
具体的なimageの形で表わそうとする欲求は、ただ図形を作っていくより外に[br]
そのはけ口を求めることはできなかった。そこで一方単音語であり、自然はっきりし[br]
た phonème に乏しい言語にとって idéographiqueがすばらしく発達する。[br]
こうして思想表現において文字がすぐれた役わりを担うことになった結果は、書き[br]
ことばと話しことばとの分離が決定的な運命となる。しかもその書きことばは[br]