講義名: 中国の文化と社会の諸問題中国における思考形態と生活形態
時期: 昭和25年~昭和29年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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驚くべく豊富にして具体的内容を持つ無限というほどの記号を駆使している[br]
し、それは絵画的表現のすばらしい道具であるが、そこに使用される記号は決[br]
して日常の慣用語からでなく古い文献からとりだして使用されるだけに、それをそ[br]
の起原的な意味で用いない限り、その強力な喚起力を保つことはできない。そ[br]
こから必然的に文学的暗示を用いることがおこり、そうした表現のために中国思[br]
想は必ず過去にむけられるという事実が発生したのである、とグラネは極めて手き[br]
びしくきめつけているが、中国の文化や社会事象について関心をもち、またそれが中[br]
国人の運命にいかに結ばれるかについて温かい同情を持つ人ならば、この一フランス[br]
学者のことばに対し襟を正さないわけにいかない、と同時に漢字を使用すること[br]
によって中国人に近い悩みを悩み負担を担っている日本人の運命についても深[br]
く考えないわけにいかないと思う。[br][brm]
ただグラネー氏は原始語にはすべて動詞形が豊富であるにもかかわらず中国語では[br]
奇妙にも貧しいといっているが、わたくしはこの点に疑問をもつ。おそらくグラネー氏は[br]

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詩経という韻文集一冊を手がかりにして論を進められたため、たとえば関関とか霏[br]
霏とかいう擬声語に注意される一方、動詞があまり目につかなかったのではないかと[br]
思うが、現在の中国語についてみたとき一音節の動詞の豊富なことに驚くのであ[br]
る。それは数多からぬ音節の大部分にわたって動詞的概念が配当され、しかも[br]
それぞれの手ぶり身ぶりを伴っていることによって知ることができる。わたくしが曽て中[br]
国語の基本語彙をえらんだとき、一千語の中の二百十余語が一音節の動詞で[br]
あった。もとより日本人の使用に適するために選んだのでこまかいニューアンスを[br]
示すようなものは必ずしも選ばなかったのであるが、それでもこれだけの数にのぼった。[br]
標準語の音節数は四百十一種であるが、その半数以上が極めて普通な動詞[br]
としての意味をもっていたということはグラネー氏の奇妙とされたことを裏返しし[br]
て、中国語も一般原始語の如く動詞はきわめて豊富であるとわたくしは考える。[br]
しかもグラネー氏は中国語に動詞が貧しいのは変化しないモノシラブルであるから[br]
だといっているが、モノシラブルといってもその半数以上のシラブルが動詞として常用されている以上[br]

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決して貧しいとはいえない。その点で中国語はやはり原始語の匂を失っていなかった[br]
のである。しかしグラネー氏は動詞の性格については鋭い観察を施している。即ち[br]
中国語では動作を描写するのに、動作の中心(essence)で描写するのでなくて、むしろそ[br]
れが実現されてゆく過程における状態のaspectに於て描写する。ということは決[br]
して動作そのものを抽象的に考えたのではなく、動作自身とともにその原理、その[br]
目的、その作為者およびその結果をふくむ具体的な全部において見たもので[br]
ある。つまり具体的な実際を表わすことなしに一つの状態または物を表わ[br]
すことがないという中国語の基本的な性質に対し動詞も決して例外ではな[br]
かったわけである。したがって一つの名詞や形容詞もこれに伴う動作がある限り[br]
動詞的または副詞的な意味を持つことも可能であり、かくして中国語には正[br]
確な意味での品詞論(morphologie)は成立しないわけである。もしその意味で[br]
いえばグラネーが動詞形が乏しいといったのを動詞としての独特な形態が乏しいと解[br]
し得るかも知れないが、ということは一面すべてが動詞的であり得るわけであり、手の[wr]動[br]

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作[/wr]がこの言語において占める比重が今日に至るまで弱まっていないことになる。グラネ[br]
は他の言語の発達について「その大部分が表現内容を変え、その動詞形が[br]
乏しくなるにつれて具体的な喚起力が減少し、品詞についてそれぞれの本質を区[br]
別し、摩滅しまたは死んだ語、外国から借りた語などによってさまざまの普遍的[br]
または抽象的なことばを獲得し、その外延内容によって概念を区別し、更に[br]
程度の差はあっても分析の道具となっていった」といい、しかも中国語はこのモノ[br]
シラブルと表意文字との特殊な結合のために、その絵画的表現力をそのままに保ち、[br]
更にこれを増加させようとし、その文学的暗示によって、文章からえた聯想[br]
によってふえた絵画表現を古い文献から借りてその表現力を増大させ、結局、言[br]
語を本質的に描写的な性格のままにとどめ、思考過程を具体的また伝[br]
統的な直観力のみに頼らしめたのである、と論じている。わたくしはここに中国人の[br]
思考における特性についてさきに述べた中村氏と比してそれが具体的であり特殊的である[br]
という点について結論として極めてよく一致するものがあることを想い出す。しかしこれら[br]

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のほぼ近い結論は不幸にして全然違った過程のもとに出されている。あるいは二つ[br]
の違った式からいずれも正しい答えを獲たともいえようが、わたくしはさきに述べたよう[br]
な理由で中村氏の通った道すじに依然として大きな不安を持つものである。[br][brm]
最後にグラネーは中国語における判断と推理について、中国語における二つの名辞[br]
の間における関係は、主辞と動詞といった関係でなくて、ただ依存関係にすぎな[br]
いといい更に最古の中国語では動詞は全く非人称的であったから論理主辞に[br]
先行していたという重要な発言を行っている。これこそ中村氏の拠って立つ地盤と正[br]
反対になるわけで、中村氏はインドではPがSに先だち中国はこれに反するというと[br]
ころから論を立てたが、グラネーは中国も昔はPがSに先だったと考えた。その[br]
理由としては最も力のあるimageがまず現れ、その後に他のimageを伴うからで、[br]
想像力に富む排列がその細部に至るまで思想を支配していた。ところが後に動[br]
詞を論理主語のあとに置くようになったのは、一種の進歩であってimagesを喚起[br]
する力が減退した結果である。最も活発なimageがより弱いものを伴うとい[br]

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う順序ではimagesが連鎖してゆかない。いわばどのimagesも本当の動きを喚[br]
起させず、あらゆるものが比較的な差異しかない動的な状態を象徴化すると[br]
いう所まで平均化されて、imagesはそれ以後依存関係によって結合されるように[br]
なった。そこに思想の重要な進歩があった。つまり思想がもはや想像的な記[br]
憶の圧力に圧服されなかったことが想定されるからである、と。ここに注釈を加え[br]
るならばIt rainsというとき中国語は必ず下雨了、下起雨来了というし、また[br]
有人来(there is …)といった表現が今日も頻繁に使用されるが、こうした形をわれわれは極[br]
めて咄嗟の場合などに口から出す点を見て、それが極めて古い言語の形式の遺留[br]
であると考えることに一応の承認をすることができると思う。さてグラネーはこ[br]
の進歩を以て重大な結果をもたらす重い進歩であると称した。すなわち動詞[br]
の非人称性を廃棄させるどころか、動詞と名詞とを一様にすることによって動詞[br]
の非人称性を強化してしまった。そして依存という方式によってのみ名辞を結合さ[br]
せることは複雑な命題に対する十分な組織原理ではありえないため、その進歩は[br]

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決して收穫の多いものではなかった。と論ずるのである。わたくしは前に中村氏について述[br]
べたように、たとえ動詞は主辞と依存関係によってしか結ばれていないことを承認す[br]
るとしても、最古の時代に最も活発なimageを持っていた歴史を軽々に忘れ果[br]
てるものではないといいたい。もとより動詞は更にその後に賓辞を伴うことによって一層[br]
その力を弱めることが予見されるが、しかし賓辞をふくんでのPとしてこれがSと[br]
対立するとき、PがSに優越することには変りがないと思う。その意味でわたくしが[br]
前に述べたことは必ずしも矛盾にならないと信ずる。ことにグラネが中国語でsyntaxの役目[br]
を果しているのはほとんどリズムだけであり、リズム的に用いられるものは音声句読であり、[br]
虚字的な身ぶりであるといっているのは、やや詩経に偏しすぎた嫌いはあるにしても[br]
中国語を通じた極めてたしかな感どころをつかんでおり、われわれが多年自分で[br]
苦労して来た点を早くも彼に云い破られたという心地さえする。いわば中国語には[br]
語法が独立して存在することなくすべての修辞と密接に連関しているのであって、これが[br]
法律のない国から生活形態とも極めてよく似ていることは後に改めて説きたいと思[br]

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うが、ここにはグラネ学説の結びとして左の表現を引いておく[br][brm]
たとえ中国人はわれわれと全く違った道によって論を進めるものでないとしても、[br]
彼等のとりあつかうものはあらゆる判断様式を述べやすい――結局は分析の[br]
方向へむかわせる種々の抽象概念普遍概念を述べるように作られた言語で[br]
はなくて、その反対になる感覚の絵画的表現に完全に向けられた言語であり、ま[br]
た感性の世界から思想を引き出すリズムだけが一種明晰な直観によって[br]
一つの分析または一つの綜合に似たものを描く言語である[br]
わたくしは北欧の有名な言語学者カールグレンの説く所が精密に似て却て[br]
真実を失っていることを嘆くとともにフランスの社会学者グラネの説に非常な[br]
感激を覚えたことを自白しておく。[br][brm]
[br]
[br]
[br]

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中村氏の東洋人の思惟方法はただ文字に書かれた古典によって論を立ててあり中国の言語[br]
については特別な考察が施されていなかった点に根本的欠陥があるに反し、グラネ氏の研究は中国にも遊び中[br]
国語についての造詣もあったしフランス語と比較することによって中国語の特質をつかんだ点が多い。ただこれも詩経のごとき古典を中心に考えたところにやや欠陥があ[br]
ることは前に述べた。わたくしは主として現代の中国語を拠りどころとし、これから遡って古来[br]
の中国語を推定しつつ中国人の思考形態を考えたいと思う。これについてはわたくしが[br]
昨年度のこの講義「中国の言語文字問題」で中国語乃至それを写すための漢字の性格を述べ、それがす[br]
でに「漢字の運命」と題して岩波新書に收められているから、その点は主に同書に譲り[br]
たいと思うが、ここでもそれと幾分重複することは諒承をえたい。そもそも言語は[br]
普通に音韻論、統辞論、文字論などに分けて論ぜられるが、まず音韻論的にい[br]
って中国語の特質は単音節という所にある。世界の言語の中で単音節という特色[br]
を持つものは中国が最も著しく、中国を中心として西藏安南タイ諸国即ちアジアの中心部乃至[br]
東南一帯に住む人民たちはこの系統の言語の中で生活している。元来単音節とい[br]
うのは一つの音節ごとに一つのまとまった概念が示されるというのが特色である。人間の[wr]言[br]

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語[/wr]の発達からいって最初は単音節またはそのくりかえしが行われることは小児の言語を[br]
見ても知られるところであるが。[br]
たとえ[br]
ば中国の民間に行われる弾詞という歌いもので、ある意味をもった音節を歌の調子[br]
で引きのばすときたとえば燈という音をdeng nen nen nenという風にのばしている。[br]
これはenという母音が決してe―e―e―nとならずにenとして堅く結ばれていることを[br]
証明する資料であるが、こうした堅い結合の中に概念がカッチリ宿っていて、それには[br]
前に述べたグラネ氏の表現を借りるならばすべて具体的な意味が与えられている。[br]
たとえば名詞的なものはある具体的な形をもったものを代表しており動詞的なものは[br]
運動記憶を主とする身ぶり手ぶりに連っている。もとよりそれを表出する音声は[br]
その具体的意味と極めて近い。少なくとも可能な限りこれに近いものが選ばれており、[br]
その音声をきくことによって一音節ごとにあるimageが浮かぶ。実はその名詞的なもの[br]
もその性質を示すことに本づいていることは漢字の運命でも例にあげたように桐の[br]