講義名: 中国文化の問題
時期: 昭和25年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
を歩いたとき、ちょうど清明の時節で墓まいりのために来た少年がころげまわって泣いていたが、一定[br]
の時が来ると、ヒョイっと起きあがってスタスタ歩いてかえった。しかしこうした制度は儀礼の中に[br]
明記してある、何千年来の習慣である。そうした枠がきまると四千年でも五千年でもこれ[br]
を遵奉する。ただそうしたものが本当に偽りだとしたら到底こんなに長いこと続く筈はな[br]
い。それは人間である限り許されない。しかし儒教といっても要するに中国人の自然の考[br]
えをまとめたものであり、喪礼にした所でやはり悲しいことは悲しいのである。儀礼には無時哭と[br]
有時哭というのがある。無時哭というのは悲しくなったらいつでも柩の前に行って哭するので[br]
あり、有時哭というのは一定の時間になってみんなが声をそろえて泣くのである。やはり喪[br]
からの時間的へだたりによってこうした制度ができており、更にへだたると哭しない。これはつまり人[br]
情に即してただ誇張した、ゆとりのあるものであるというだけのことである[nt(0X0050-0510out01)]。だからこれを必ず改[br]
革しなければならないという熱烈な要求はおこならいのである。ただこの枠の内に生きている人たちか[br]
らは、ぜひこれを棄てて新しいものを作ろうという声が出ないわけである。[br][brm]
しかしこうした枠があまり長く続くときは、他の文化圏や社会における進歩に比して必ずひ[br]
[0X0050-0510out01]
巴金の三部作にお葬式のときお客が来ると玄関で太鼓をたたく、それをあいずに奥で泣いたという。合図がきこえないで笑ったりさわいだりしている中に、お客さまが飛び込んだという話がある。
けめを感ずるわけであり、そうした事情に直面したとき始めてその原因を考え、その解決策[br]
を考える人が現れる。もちろん大多数の人民たちはすべて安定に慣れ変化を好まな[br]
いわけであるが、こうした先覚者が原因として取りあげたことには明らかに枠の中でさえ実は不[br]
合理であったこともあり、まして枠をはずした人たちから見てもその不合理がことにはっきり見[br]
えるわけで、こうした人たちの努力によって中国文化の新しい発展が準備されてきた。もと[br]
より文化のごときものがそう急テンポに進展するものでないことは明らかで、これらの人たちの生[br]
命をも賭した提唱がなかなか実をむすばない中に、中国は大きな試練に直面し、しかも[br]
その試練にたえたのである。曽て北清事変のとき即ち二十世紀のはじめに連合軍が北京[br]
を占領したとき、北京の人民は明治天皇の人民だと平気で云っていた。しかし半世紀ののちに[br]
日本の侵略にたいして抵抗をつづけた。それのみか西洋に対しても敵愾心を発揮[br]
した。わずかに五十年の間であるのにこうした変化を見たというのは、まさしく枠がはずされた[br]
からであり、その枠の中だけで満足した時代の文化と枠をはずしてからの文化とを比較して考え[br]
ることが、中国の文化を考える上に最も重要な問題と考えられるので、最後の一回をこれに[br]
あてたいと思う。[br][brm]
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これまでの中国の文化が直観的であり、調和的であり、そして停滞しやすい状況にあることは前に述べた。ここ[br]
に中国の文化が一つの枠をもち、その枠の中では最も精妙なまた最も釣りあいのとれた状態にあ[br]
り、もしこれがいつまでも停滞を続けるとしたら、少なくとも枠を動かすだけの動揺がないとしたら、[br]
一応はすべての者が現状に満足しつつ過ぎてゆくことであろう。魯迅をして云わしめたならば戸口のあかない鉄[br]
の部屋に眠っていてやがて窒息して死ぬことを知らぬものである。それを叩きおこして苦悩を与え[br]
るが良いか、そのまま眠らせて安らかな往生を遂げさせるべきかということが問題になる。魯迅は初め叩き[br]
おこせばただ苦しみもがくだけでどの道救われないと考えたが、救えるかもしれないという友人[br]
のことばを積極的に否定できないということから、これを救う道として小説を書いた。そして『狂人日記』[br]
の中に従来の中国の書物はすべて表は仁義道徳を書いてあるが、その行の間には「吃人」という字が一杯につまっているんだということを、それも狂[br]
人のことばに託して書いた。ここに先覚者として苦悩があった。なぜならば中国の枠すなわち鉄の[br]
部屋は中国人が自然に作った自然の結果であって、ちょうど蚕が自分の口から吐き出した糸[br]
によって繭を作り、その中に入って眠ってしまい、眠っている中に熱を加えられて死んでしまう、それを[br]
何百代もくりかえしつつ、又もおなじ繭を作っているようなものである。したがってこうして自然[br]
にできた枠を否定しようということはまさしく狂人のしわざとも云えるからである。悟った人から[br]
見れば放っておけないことも、その中に居るものとしては全く感じないことが多い。ただそれが感[br]
じないからと云って害がないのでは勿論ない。むしろ感じないほど慢性な疾患が全身を犯[br]
していることもあろう。[br][brm]
こうした状況に心づいた先覚者とて、もし彼等がまったくこの枠の中に居たとしたならば、自らこ[br]
れを覚ることは不可能である。彼等が先ず覚ったのはまさしく枠の外に居た、とまで行かなく[br]
とも枠の外のことがわかってきたからである。枠の外とはいうまでもなく緒外国ことに文化と武備[br]
とに進んだ諸国であって、それが中国に迫ってきたのは、十九世紀の半からであり、中国人の中で[br]
早くこれに接触したり、またその中に身を投じたりしたものが、自分の国の現状について深い[br]
憂を抱くに至ったわけである。つまり中国人の作った文化と外国人の作った文化とを比較してそ[br]
の差に驚くとともに、いたずらなる自己欺瞞や一時の申しわけを弄するよりもいさぎよく[br]
その劣性を認め、さらにこれを改革するにはどうしたら好いかを真剣に考えたわけである。[br]
もとより如何なる人でも負けおしみがあり、如何なる民族にもお国自慢がある如く、中国でも[br]
西洋の自然科学ことに機械や軍備には頭があがらないことを数度の痛烈な打撃によって[br]
覚りながらも、中国自体の精神的発達は決して諸外国に劣らぬという、いわゆる「中学為[br]
体、西学為用」といった考えかたも一時は行われたし、さらに西洋の自然科学も実は中国の[br]
学問の受け売りにすぎない。それは墨子にも幾何学や光学などの原則が説かれているが、それの[br]
末流が西洋へ逃げていって発達させたのが西洋の学術だということを王闔運などが大まじめで[br]
『墨子』校注序に書いているといった滑稽なことがある。そういった荒唐無稽なことが長つづき[br]
しないのはもとより中学為体すら厳復が翻訳したアダムスミスやハックスレーなどによって[br]
完全にくつがえされた。[br][brm]
これは外からの刺激であって、この方面のことは後に榎助教授の方で詳しい講義があると思[br]
うが、こうした外来のものによって反省したとき、最も重要なことはこの枠をはずしたとき従[br]
来は最も釣りあいがとれ、また最も精妙であると認められたこと、乃至そう認められたこ[br]
との中に必ずしも釣りあいがとれて居らず、また必ずしも精妙ならぬものがあったことが分かっ[br]
たことである。たとえば従来の社会が極めて安定した状態にあって、もとより完全なカースト[br]
ではないまでも、治者と被治者との間にはっきりした分界があって、吃人という制度がこれを[br]
保証していた。そして治者たちは漢字で書かれた古代の経典に通ずるという義務とともにそ[br]
の特権を持ち、被治者がその地位を向上するためには漢字をまなび経典に通ずるという[br]
大きな負担を持つだけに、容易にこれを実現できない。かくして貧窮なものは常に貧窮[br]
であり、無知のものは常に無知であり、進歩競争のない社会が形成されていた。もちろん天[br]
才の発明した直観の産物や調和的に考えられる方向とが、こうした民族全体にとって向上の[br]
途をひらきまた一種の潤滑油となって、必ずしもそれが絶対の沈滞であり完全の摩擦で[br]
あることのないようにされて来たという事実は証明できる。またいわゆる枠といってもこれを否定[br]
する側が痛論するほどにぎこちないものでなくして、中国流のゆとりもありユーモアもあって、そこ[br]
に長い時代を軟く過ごすだけの弾力をそなえてはいたが、それがあまりにも長く停滞した[br]
ことは、何といっても排泄物が体内にたまった如き状態となり、全体の健康に対する大きな[br]
障碍とならざるを得なかった。だからこそ組織はあってもそれは既に自壊の段階に達してお[br]
り、これを改革することは決して不可能な事ではなかったのである。鉄の部屋は必ずしも鉄ででき[br]
ておらず、これを叩いて見ると案外に脆かったのである。[br][brm]
これを最もよく示したのが中国における新文学運動であって、中国を離れてアメリカに遊学[br]
した青年たちのあいだから中国の文学は文言であるわけはなく、白話でなければならないという[br]
叫びがおこり、それが忽ちの中に全国を平定し、またそれが五四文化運動の源ともなった。そして今[br]
日に至るまでおよそ三十余年、その作った新文学によってたしかに中国文学史に一つのエポ[br]
ックが作られた。どうしてそれがそんなに速に到達できたかといえば、実はその運動の前に地下[br]
における潜行状態が非常に長く続けられていたのである。清朝時代でも真の文学というべきものは『紅楼[br]
夢』『儒林外史』または『児女英雄伝』の系統のものと思うが、これらはすでに白話であった。ただこれ[br]
は下敷きであってその上に鎮重したのが王漁洋や袁随園、さては樊樊山、鄭孝胥に至る[br]
系列であった。明代でも『水滸伝』『金瓶梅』さては『還魂記』に優る文学はなかったが、前後七[br]
子や公安、竟陵が王庫にあった。元代にさかのぼっても元曲のごときすばらしい文学、宋代では詞や[br]
『京本通俗小説』など、さらに唐代でも変文などの白話文芸が無数の古文や詩などの下に[br]
隠れてその花を咲かせていた。むしろ文学の実権は早くこれらの白話に帰していて、それはいわば[br]
便衣隊の如くに詩文の陣営ふかく潜入していたのである。して見れば一たび文学革命ののろ[br]
しがあがったからといって、まったく根本から新しいものが生まれたのではなくして、古くから徐々に芽[br]
ばえ、適度に生長していた白話がたまたま時を得て急に伸びだしたまでのことである。し[br]
かもこうした便衣隊の存在を許したことは、別に詩文の陣営の不覚ではなくして、むしろそ[br]
の安全弁ともなったのものである。なぜならば、もしそうした文学がなかったとしたら、つまり詩文だ[br]
けがいつまでも独立して存在し得ることもなかったと思う。それほど社会はやはり文学を必要とした。必要[br]
な文学が別途で満たされる限り、たとえ大きな興味はなくとも一応詩文の世界を[br]
認めてその調和をとることはユーモアある社会として当然のことであったと云える。[br][brm]
これはただに文学のみでなく、社会を繋ぐ道徳そのものも必ず治者のための五倫だけが[br]
厳重に主張されたわけでなく、たとえば文学に見える『水滸伝』の如く治者の非行に対する叛[br]
逆がむしろ天に代って義を行うものとして掲げられており、『老残遊記』の如く官の非行に対する[br]
反撃が小説の形で表れておる。男女の間にしても男尊女卑という思想は家庭おいて社会におい[br]
て完全に行われていたかといえば、必ずしもそうでない。女子の力が相当に強いこ[br]