講義名: 中国文化の問題
時期: 昭和25年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
なものを考えたかと思うばかりである。たとえば密柑の皮の腐ったものを陳皮と称して薬に[br]
用いた。これが今のペニシリンと同じ原理であることはペニシリンが発明されてからやっと人が覚[br]
った。小児の小便なども薬に使うと奇効を奏するが、これはホルモンが多く含まれているから[br]
である。今からそうした説明のつくものもその当時から最近まで何の説明なしにただ効果が[br]
あるということで使用されただけであったが、こうしたことを考えた天才が誰であったか全然[br]
分からない、むしろ民族全体が考えたのであろう〔停滞の社会の堆積した経験〕。それほど総合された経験の産物であっ[br]
たのである。すべて中国の研究には極めて広いベースに立ち、多くの資料を扱う必要があるのは[br]
この民族の産出した文化がこうした大きな範囲からの帰納であって、単なる一科の学問で[br]
は解き切れぬからである。曽てある朝鮮史の専門家が北京に行って柯紹忞という老先生を[br]
半ば儀礼的に訪問した。そして話の序でに朝鮮史の中で自分の独特の発明と信ずるむつかしい問[br]
題を取り出して老先生をへこまそうとした。しかるにそうした問題をこの老先生は悉く承[br]
知しておられたので、その専門家が吃驚して逃げ帰り早速門人何某と書いて入門を願い出[br]
られた。そして人に云われたことは、日本の学者は竹竿を立てたようなものであるが、中国の[wr]学[br]
者[/wr]は丘のようなものだ、高さは竹竿と丘と同じようだが幅がまるで違うと。つまり専門的[br]
なことだけやる学問と専門がない、あるいは専化しない学問との差であった。中国の学問は実に理論化されない理論で形って多くの学術的著作をその上に支えてきたのである。[br][brm]
第二は、中国の文化が著しく調和的であること。中国人は住み場所として選んだ土地に順[br]
応することを最も賢いとした。中国人が要するに大自然の一部分であるとする以上、自然に抵抗し[br]
たことを考えるのはナンセンスであって、大自然の如くすべて自分より大きな物については受身[br]
の態度をとった。それはひとり自然のみならず、人たちの集団生活においても大勢に順応する[br]
のが秩序を守ることであり、秩序を守ることが結局自己を保全し自己の主張を貫くものと考えた。従[br]
って人間集団の最小単位である家族においてもその中心となる老人を尊重することによ[br]
って集団保障を完うするから、少年たちには発言権がなくて、自分たちが老人になるのを根気よく[br]
待つ、そしてそれまでに自分も次ぎのジェネレーションを無意識の間に圧迫するようになっ[br]
てしまう。そこにはできるだけ多数の構成員が集まって他の集団と対抗し調和するわ[br]
けであるから、その多数の構成員の秩序はまったくジェネレーションの系列によって保たれる。[br]
したがって、お互いの称呼はまったく伯叔とかと数字の組合せで、家族のものが長上に出あう[br]
と必ず三叔とか四嬸とか云わねばならないのであるが、これをきれいに使い分けるのが中国のお[br]
嬢さんたちの教養だということが林語堂の Moment in Peking に書かれており、ある大家族の[br]
一員だった人から聞いた所では、それが面倒で子どもの時は長上の影が見えるとパッと逃げてし[br]
まったという。要するに家庭ではそうした方法によって調和を保つことが生まれながらに要[br]
求されている。中国人が外交に巧みなのはこういう複雑な家庭における訓練が役立ったも[br]
のだともいわれる。こうした家庭における秩序はすべて中国における倫理の基礎をなすもの[br]
で、道徳として孝が最上位に据えられたことも了解されようし、倫理によって社会を保全し[br]
自然と調和できるとしたら、その上に宗教的なもの超自然的なものを顧る必要がなく、これが神[br]
話を持たない、少なくとも神話に乏しい民族であった所以であろう。[br][brm]
調和というものはすべてある形式にあてはめることである。できあがった形式に自分を適合させる[br]
ことである。最近翻訳されたMacNair編のChinaの中にあるBodde氏の論文にも西方の[br]
二元論は善悪や明暗の対立であり争闘であるが、東方の陰陽という理論は対立でな[br]
くして調和であると云われる。従って陰陽という二つのカテゴリーに分けて何ごともこれにあてはめ[br]
ようとする。また五行という形式がきまると、天下の一切のものをすべて五つに分類する。その枠そ[br]
のものを批判したり、反省したりすることなしに、すべてこれに適合するように考える。それは学問とし[br]
てはまったく根拠のない、または相当無理のある配当であっても、社会の秩序を維持するには[br]
一応便利であった。これと全し人間の関係にも形成が重んぜられることは、中国の社会における繁文[br]
褥礼についても考えられることである。このいわゆる繁文縟礼は時間や物質が豊かなものを[br]
背景に持つべきであって、全民族の共通に享有できるものではないが、しかしやはり中国文[br]
化の典型的なるものがある。これを文というのはまさしくそれが調和ということを示すからで、[br]
およそ文とは美しく調和された形を象ったものと云われる如く、たとえ高踏的貴族的性[br]
格を帯びるにしても、深くこの民族に根を張った調和性と十分に連関されるべきである。す[br]
べて中国の文化はもし中国人の枠にはめて云えば陰、すなわち女性的であり、平和的であり、[br]
老熟的であり、妥協的であり、常識的であるという方向は疑うべくもない。[br][brm]
第三は、中国の文化は著しく停滞的であること。中国の文化が専門化もされず、妥協的であると[br]
いうことは、一面から云えば極めて実用的であるということになる。実用に役立たない理論はあ[br]
まりに価値づけられることなく、ある実際の用途をみたすことができたら一応その目的を達する。[br]
目的を達するとともにそれは忘れられてしまう。専門化されることがないと自然尖鋭な対立が[br]
なくすべてが大まかに形づけられ、そこに緊張がとけたあとの弛緩が続く。これに加えてその占拠[br]
した自然の地域が極めて広大でまた生活に適し、その環境を大きく動かす力がなかった上に、文化[br]
的にも他の文化圏からの刺激が乏しいという状態を続けた結果として、そこに社会の安定が[br]
保たれ、続いて来るものとしては停滞ということが避けられなくなった。これを郭沫若氏は中国[br]
社会の長期定型化(「今天創作底道路」――『今昔蒲劍』――)と呼んでいるが、文化もまさしく長期定型化を生[br]
じた。しかも前に述べた如く中国の文化が漢字による厖大の記録によって支えられている限り[br]
これに通じた上でないと一応の発言権がなく、これに通ずるためには、その訓練におびただしい[br]
時間をしかも方法なしに費さねばならなかったということは、たしかにその進歩をおくらしたといって[br]
も過言ではない。もとより象形的文字による意義を描出する方法が音標文字に比して古[br]
代人の思想を知り易いという便宜もあるが、体系なき思想が文法的拘束の弱い文字で綴られてい[br]
ることは、学術の時代を逐うた発展を促す力は弱かったといわざるをえない。そしていよいよ[br]
古い時代ほどが理想とされたのは、ちょうど家族の集団において老人が尊ばれたのと極めて近く、[br]
たとえば文章を書いても韓愈に近いとか詩を作っても李白に近いとかいえば非常な賛辞にな[br]
り、やはり尚古ということが社会の秩序、文化の系列を支配している以上、これが進歩的であ[br]
ることは極めてむつかしい。一面、またこうした秩序によって保たれる社会は常に歴史を尊[br]
重し、過去に成例のあることならば必ず承認するし、互いに討論する時も過去の有[br]
名な人のことばを引くことによってその解決がもたらされる。これは極めて早くから孔子曰[br]
といったようなことば、さらには詩曰、書曰という引用によってその行動の全部が是認さ[br]
れる。実はこのことばと実際の場あいとに相当のひらきがあっても、どこにか相似的な[br]
部分があれば、それだけでこの論争の採決ができる。つまり論理が採決しているのでなしに、[br]
直観が採決しているのである。これをふるくから断章取義といって中国的弁証法の[br]
基礎となっている。たとえば最近にできた老舎の『四世同堂』という小説は日本軍が北京[br]
を占領していた時のことを詳しく叙べてあって、日本人と中国人との差を極めてよく表わして[br]
あるが、その中に皮肉なことばとしてその小説の主人公の家庭で幾人かの兄弟が日本に対す[br]
る感情がそれぞれ違って、占領するものに絶対に阿附して自分の生活をはかるものと、あく[br]
まで抵抗しようとするものと、その中間に立って阿附はできないが具体的に抵抗もしないと[br]
いうさまを描いて兄弟がこうした違いを呈するのは、手の指がそれぞれ違うのと同じであ[br]
るというのは中国的弁証法だといっているとおり、何か諺さえ引けばあらゆる問題が解[br]
決する。蒋介石が日本に寛大な処置をするようにと布告した時も「不念旧悪」と[br]
『論語』のことばを引けば全部が納得する、少なくとも論理を知ったものがよりよく納得する。こうした[br]
現象は要するに停滞性に富んだ社会で最もよく見られるといってよいと思う。[br][brm]
こうした停滞性がつづくというに就いての重大な条件はもとより社会的に変動がないとい[br]
うことで、別のことばで云えばきまった枠が動かないということである。恐らく中国人があの言[br]
語で思考しあの文字で記録する限り、その文化が直観的となり、そして調和的となること[br]
は当然の現象であって、つまり自然のままに放任した場あいの結果であった。それが何千年[br]
という長い期間にわたって放任されたのは、必ずやその枠を動かすだけの外的影響がなかった、[br]
或いは乏しかったからだと思う。西洋で数学の発達したのは「零の発見」にあるといわれる。零[br]
という観念が導入されて、それを発達したことが西洋の自然科学の重大なポイントであるに[br]
比し、曽て中国の数字にはそうした観念はついに導入されなかった、と同じように自然の発達、それは一[br]
定の土地で一定の文化生活を営むために必要なものとして取りあげられたのであるが、ここまで到達した以上、[br]
文化の進歩について外からの刺激がない限り大きな変化を必要としない。そしてその枠の中[br]
での極めて精細な検討が始まるのである。ことに生活に必須な方面、すなわち食物と薬品[br]
についての吟味が精細を極める。それがいわゆる中華料理の発達であり、漢方薬の発達で[br]
あり、まことに微に入り細を穿ち、しかもそれは飽くまで調和ということを眼目としている。あ[br]
る味だけを出すとかある成分だけを取り出すのではなくして、多くの食品をまぜて煮ること[br]
であり、またさまざまの薬材をまぜて煎ずることであった。そうして長いあいだの直観による[br]
経験を生かしたものであって始めて何人もこれを生活の基準として疑わないようになった。[br]
そしてそういう生活に十分の享楽を見出した。ヨーロッパ人は多くのものを作りだしたが、これ[br]
を享楽することができず、中国人はわずかな物を用いてこれを十分に享楽していると大まか[br]
に批評される(林語堂)のもそのためである。中国人の生活における幸福とは与えられた枠に[br]
満足することであり、すべての判断は単な理に本ずくことなしに情を伴う。即ち論理的に正しい[br]
だけでは足りず、必ず人情に叶っていなければならぬ。それがむしろ中国的合理性である。したがって[br]
制度の如き人為的なものにも決して満足せぬのは、それが人情を伴っていないからであり、政治につい[br]
ても法律についても必ずゆとりのある見解をとり、興らざるものを憎む。さきにあげた『四世同[br]
堂』でも日本人は勤勉な国民だということを認めているが、同時に融通のきかないことで不[br]
評判であったことがわかる。たとえば、さきにあげた兄弟の父は呉服商人であった。それが日本軍から物資[br]
の統制を受けて一番困ったのは中国の統制では必ずゆとりを取ってあるのに、日本人の統制ではそ[br]
れが絶対に許されないことであり、遂に正直なこの老人が川にとびこんで自殺してしまう〔一丈だけしか売らせまい。日本人は背が低いからよいが、それでは商売にならない〕。満州の[br]
学校で冬の休暇を陰暦から陽暦に切りかえたとき、陰暦の正月には帰省を許さ[br]
ぬという掲示をした。所が学生が教官に陰暦の帰省をさせて下さいといって来る。掲示を見な[br]
いのかといえば見たという。意味が分からないのかといえばよく分かっていますという。しかし帰省させ[br]
て下さいという。これは友人からきいた話である。また別の友人が『上海三十年』の中で同文書院の小[br]
使たちが生活に困り切って陳情に来た。しかし彼等はいつもと同じニコニコ顔で[wr]陳情[br]
文[/wr]を手わたし、いつでも先生の御都合のときに当事者にお伝え下さいという。その実家[br]
庭は火の車などである。しかし中国ではそう云われると誰でもどうかしてやりたくなるのが社会[br]
の通念で、擲ったり、デモをかけたりしたら却って成功しないのである。そこには非常な忍耐がいる[br]
のであり、結局柔よく剛を制するわけである。こうしたゆとりがつまり中国のユーモアであって、[br]
如何なる難局に処しても泰然として最後までねばる力がここから出る。中国の諺にも歯は[br]
堅いが遂に痛むけれども、舌は柔らかいが遂に痛まないというそのねらいも正にここに在る。[br][brm]
こうした変動のない社会に行われる哲学はやはり極めて常識的でなくてはならない。その意[br]
味で偉大なる常識家であった孔子がこの民族の哲学を代表するわけで、同時にこれと対[br]
立する道家の思想や法家の思想も、これと争うものでなしにこれと調和してゆくことを[br]
要求された。また諸般の儀式は礼という形で社会の秩序を保ったが、それはさきにも[br]
述べた繁文褥礼といういわば心にないとも云えないが、ともかく形にはまればよいというユーモア[br]
のあるもので、たとえば葬式のときに若い嫁が猛烈な泣きかたをする。見ている方が本当に涙を出し[br]
てしまう、ところがいざ席にかえるとニコニコ笑って赤ん坊をあやしている。私が芝罘の郊外[br]