講義名: 中国文化の問題
時期: 昭和25年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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根源であると云える。なぜならば文化そのものは自然の中に備わっていないものを――自然の中にあって――[br]
創造するからである。ただそうした共同の心が根源であり基底であっても、これを表面から[br]
窺い知ることは極めて困難であり、われわれはまず之を民族によって最も違ったもの――即ち[br]
言語から窺わねばならないのである。およそいかなる民族でも一定の言語といった社会慣習[br]
を持ち、しかもそれは多少にまれ他の民族とは違った、少なくともある程度以上の訓練を[br]
積まない限り互いに了解もされない状態にあるものを持つ。これは衣食住のごとく、互いに異[br]
るとはいえ容易に推察もでき、また相当に順応もできるものと違って、民族間の差を[br]
――少なくとも人為的の差を最もよく表わしたものといえる(体質などは自然の差であろう)。[br]
民族共同の心とは即ちこうした社会慣習を育てたものであるとともに、またこうした社会慣習に[br]
よって育てられたものである以上、これを手がかりとして民族共同の心を見るという企ては一応[br]
是認されてよいことである。しかるに世の学者にはこうした連関を取ることは無意味である、[br]
少なくとも危険であるという説をなす人もある。いかにも曽て日本精神花やかなりし頃、あ[br]
る言語学者の試みたような日本語論はわれわれから見ても極めて牽強傅会に失[br]

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し、たとえばある物の名を例として、日本人の精神が物の名を附ける[br]
にも極めて優美であることを論じてあるのを見たことがあるが、安ぞ知らんその物は曽て[br]
日本に伝えられた中国の物であって、この学者は中国語を写した日本語を例にして日[br]
本精神を礼讃していたのである。こうした行きすぎが反省されるのは当然であるのみか、た[br]
とえばイギリスとフランスといったような言語系統の近い民族のあいだでこれを振りまわすこ[br]
とはこれまた相応危険であり、言語と国民性――民族精神との結びつきを考える学[br]
問が否定される傾きを助けたものである。しかし、それは民族精神乃至言語の結び[br]
つきをあまり小細工式に考えたからで、その小細工というのはかのイギリスとフランスとの如く近い[br]
系統の民族にまで適用したり、あるいは細かい語彙の構造にまで及ぼしたりしたことを言[br]
うのであるが、こうした細かい手さばきに適用しがたいからと云って、大[br]
きな民族精神の特長を大きな言語の特徴に結びつけることまでは否定できない。もし中国の言語について蘇[br]
州人と広東、福建人との精神的差別を蘇州語と広東、福建語との差別に求める人[br]
があったとしたら、私は極めて危険視するであろうが、もし中国人と欧米人との民族精神[br]

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の特長を中国語と欧米語との特長に求める人があったら、私はそれが慎重に研究され[br]
る限り相当な成果をあげることを予言して憚らないし、また中国人と欧米人との民族[br]
精神はこうして研究せぬ限り――少なくともこの研究を加えない限り到底不可能だとさえいえる[br]
のである。[br][brm]
中国の言語そのものの問題はちょうど本年度に中国語学概論を開講中であり、その最後に[br]
中国語の特質をまとめたいと考えているが、その特質中の特質は即ち単音節的性格である。[br]
もとよりどの言語も単音節語を数多く含んでいるのみか、原始的状態としては単音節を主と[br]
したことも推定されるが、それが今日まで継続し、形のみから見ればあるいは二音節らしく見えて[br]
も、やはり欧米語のように複音節語となりきれず、単音節の複合体として意識の底ふ[br]
かく根を張っているのである。ということは中国人の意識においては常に一音節が一つの言語[br]
単位となり、これをやや大胆な表現で云うならば、中国人とは一音節ごとに一つの概念を吐き[br]
出している民族だということ[nt(0X0050-0230out02)]で、こうした社会慣習をいやしくも物心ついてから百歳の最後[br]
まで休みなしに遵用し、こうした訓練を受けつづけるということは中国人の物の考えかたに[br]

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(未入力)

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わが国語では音節をカナで代表するから普通には音節そのものが概念を荷っているにも拘らず、中国語ではすぐ概念が来る。たとえば、中国古代の習慣として君や親の諱のことがやかましくいわれた。それはこれに相当する音節を発音するとすぐに君や親のことが胸にひびいたからである。諱を悪むという現象は他にも原因はあろうが、その言語の特性も原因の一つである。また死という概念を表す音節は他は同じ音節にたくさんのものが夾雑していたにも拘らず、ただ死ということ一つしかない。これは日本人が四の社会を営み、ずっと長いことを示す。

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どのような制約を与え、どのような精神を支え、また形成してゆくかということを考えると[br]
き、われわれはこの問題の大きさとその提起する意義の重大さに驚かざるを得ない。こ[br]
うした重大な問題に対しある個人が俄に完全な答策を提出することは無理であるが、[br]
自分の力の及ぶ限り一応の説明を試みたいと思う。[br][brm]
中国人が単音節制の言語を使用して、即ち一音節ごとに一つの概念を吐きだすと[br]
すると、ごく理論的に云えば、中国人の概念の数――少なくとも基本的概念の数は[br]
音節の数によって限定される。これを逆用すると、音節の数を数えることによって基[br]
本的概念の数を求めることが可能なわけである。こうして比較的限定された音節の中に[br]
ほどんど限りのない概念を詰め込もうとすれば、いきおいその音節の代表する概念の総[br]
計はきわめて抽象的なものにならざるを得ない。何となれば中国人の頭にひらめく概念が[br]
まず音節の中から適切なものを選んでそこに定着するとするとき、それは全く音を[br]
媒介としたものである。たとえば大きいという概念ならば口を大きくあける音節に定着[br]
するであろうし、パンと音がしたりパッと飛び出すという概念ならば唇音、ことに[wr]有[br]

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気音[/wr]を捕えることが自然である。大砲の砲と跑去の跑とが同じ音節になるのはそのため[br]
である。そしてこれに近い概念はすべてこの中に落ちこむ。早く気づかれた例として有名なこと[br]
は、洞穴のことも桐の木のことも筆筒のこともみな同じ音節に集まっているのは、どれも中[br]
空だからであり、銅というのはその音を発するとき口を丸く中空にするからであるし、売ること[br]
買うことが同じ音節ですましてあるのも、誰が誰に物を渡したかを考えず、ただ金銭に[br]
よって物の所有権が手から手へ移ることだけ考えたからであって、こうした抽象性こそこの言語の[br]
持つ一番大きな特色である。従ってこれを徹底させると、ほとんどすべての音節はある[br]
性質またはある動作を示すことが想像され、一種のonomatopoeiaに還元できるか[br]
も知れず、中国語をすべてonomatopoeiaの連続と見ることはあまりにも大胆だとしても、[br]
こうした云われを持った抽象的音節であってこそ、中国語が破産せずに済んだとは云え[br]
よう。もとより世界の言語は必ず何等かの安全弁をもつもので、たとえばドイツ語のごとき[br]
超語法的言語にしても、中国語のごとき超語彙的言語にしても、それぞれが語彙の要[br]
素や語法の要素を完全に消失しては到底言語として成立できず、中国語においても[br]

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こうした抽象的なものを抱合する習慣を作ることによって具体的な事実に対応したの[br]
である。[br][brm]
このような抽象的概念は常にある幅を持つ。決して単なる点ではない。その概念の幅を線[br]
ABで表わすとき、その具体的な事実は常にAB線上にある、あるいはAB線上にある[br]
限りすべてその抽象的概念を以て代表される。つまり具体的な事実は多種多様であ[br]
るが、すべてある音節の持つ抽象的概念に含まれる。しかもそれは必ずしも、否、決してABの中[br]
点にあることを必要とせず、その現実の事態に応ずるようなsliding scaleを以て巧に[br]
平衡を取る。これを私はむしろ三角形を以て示すことが分かりやすいと考え、仮にこれ[br]
を三角形の理論と呼ぶ。三角形ABCの底辺ABは一定である[br]
が頂点Cは常に移動するが故に、三角形ABCは常に一定であ[br]
り得ない。しかしそれにも限度があってC `C 〝Cの軌跡はほぼ[br]
ABを弦とする弧を画くものと考える。この図式はひとり一つの[br]
音節のみの問題ではなくして、仮に大という概念と小という[br]

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概念とがあったとしたとき、このそれぞれの概念は対手を考えることなしには定立でき[br]
ないのみか、両者の中を取るということは直線ならば数学的に二等分する、三角形ならば幾何学的な[br]
二等辺三角形を作ることではなしに、むしろ極めて自由な形において折衷される。中庸[br]
とは決して数学的な等分でなく、時中という形で決定される。ただ大切なことはこれにも[br]
限度があって線ABの外において折衷されることもなければ三角形ABCの頂点がA[br]
Bを弦とする弧の外に出ることもない。それは明きらかにAとBとが互いに牽制するから[br]
である。つまりこうした枠を設けることと、更に枠の中で融通性を設けること、これが中国の言語を通して中国人[br]
が一時も休むことなく訓練された考え方で、中国語の特質の一つであるとともにまた[br]
中国人の心の動き、即ち考えかたの特質の一つであると私は考える。後にやや詳[br]
しく触れるとして最近社会学者の間で問題にされている林耀華氏の書いたGolden [br]
Wingにもしきりに均衡理論を説いて、中国人の生活はちょうど時計のふりこのよう[br]
に両方の端の間を往来して常にその均衡を求めているといっているのも、まさしく主旨は[br]
同様であって、これを社会生活の面から指摘したものである。[br][brm]

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 次に中国語のもう一つの大きな特質は、以上の概念の綴り合わせ方であって、これには非常[br]
にあらまし考えるとして二つの基本形式が認められる。一つは修飾する概念は修飾される概[br]
念に先だつこと、もう一つは主語すなわち場を作るものとその場について叙述説明また[br]
は描写するものとがこの順序を追って現れることである。しかしその二つの場あいとも綴[br]
られたものは別に特別な文法的成分によって修飾語であり主語であること、または被[br]
修飾語であり述語であることを明示していない。簡単な例でいえば、我們学校という[br]
時と我們研究ということは、語彙の用法における習慣が承認されていない限り、文法[br]
的差異を示していない。すべて説明または描写するために用いられる語彙は、一応すべ[br]
て抽象された動作または性質だけを示すため、一音節ごとに吐き出される概念としては[br]
動詞または形容詞と名詞との間に厳格な分岐点を認めがたい。研究は研究する[br]
という動作を示すとともに何何の研究として名詞になることは、わが国語に応用された実[br]
例でも了解できる。ただし今日の生きた複雑な言語としては、単にこうした簡単な枠だけ[br]
に依存せず、この枠の中でいろいろな条件を設定して現実の事態に対応する、た[br]

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とえば我們はまったく同じだとして、学校は決して述語には使用されない。しかし研究は[br]
述語としても使用される。つまり我們も学校も研究もすべて名詞的な立ち場で、文章の[br]
主語や動詞の目的語として使用できる性質を具有している。しかし研究だけは述語に[br]
も使用され得る。では我們学校が主述を具えた文でありえないことは云うまでもないが、[br]
我們研究はなぜ「われわれの研究」とならないかといえば、その時は文法的成分「的」を加えて「我[br]
們的研究」という。更に、では「我們学校」のときに「我們的学校」となぜ云わないかと云えば、云[br]
ってもさしつかえはない。事態を明確にするためにはむしろ言う方が好い。しかし我們と学校との間で[br]
は我們と研究との間におけるような誤解を発生する恐れがないし、また我們と研究とは[br]
我們と学校との間におけるような親密性を欠いている。親密性のあるものは「的」のようなも[br]
のを夾雑することなしに親密に結合される、といったような非文法的説明によって合理[br]
的に解決されるのが中国語のsyntaxの行きかたである。従ってそこにはむしろ上にあげ[br]
た大きな枠――同時に極めてゆとりのある枠を除いては文法的な規則が存在しない。[br]
しかし中国人の理論はその間に極めて融通のある方法――事情によって処理するという[wr]方[br]

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法[/wr]によって常に円満な結果をえている。[br][brm]
しかし、一人の生涯が始から終までこうした方法で訓練され、一つの民族の精神が何千年[br]
にわたってこういう形式で支えられたとするとき、極めて重要なことは個個の論理が常に省略され[br]
がちになるとともに、民族全体の物の考えかたが論理性を薄くするということである。それ[br]
が不必要なほどにまで論理を徹底させるのが欧米語の特色であるに反し、必要な時に[br]
まで論理を省略する危険が中国語に内在している。欧米語で物を考えるならば必ず[br]
論理の動きが文法の拘束によって支配されるが、中国人はそういう拘束からかなり自由[br]
に概念を列挙することも可能である。列挙された概念はこうした訓練に熟した聞[br]
き手によって巧みに同じ映像を再現される。ちょうど映画のフィルムの一こま一こまは、一応[br]
互いに無関係な形に切り離し得るのであるが、それが一定の速さによってスクリーンの上に[br]
写されたとき、人の目はこれを極めて生き生きした有機的な動きとして頭脳に送る[br]
ことができる。中国人が思考を伝達するときは、まさしくこうした方法を利用するもの[br]
であって、それが不完全なりと認める時だけ之を補うことを試みる。こうした言語は始[br]