講義名: 中国における言語文字問題
時期: 昭和26年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
七[br]
一九四五年に太平洋戦争が終結するとともに早くも上海の時代日報の副刊語文[br]
週刊に語文革命の問題がとりあげ、香港でも香港新文字学会が復活した。[br]
そして具体的な出版活動として現れたものが一九四八年の拉丁化新文字の国語訳本、[br]
高級読本、また謝景永の速成課本、また新中国書局の新文字課本、さらに[br]
早く一八四一年に中国字拉丁化運動年表を出した倪海曙がふたたび活動を[br]
はじめ中国拼音文字運動史簡編、拉丁化新文字概論などを陸続出版し、一[br]
方、中国語文的新生と題して拉丁化中国字運動二十年論文集すべて五八一頁の[br]
大冊を一九四九年三月刊行した。それはすべて九編に分け、その第一編は第三次文学[br]
革命と羅馬字新中国文(一九二九-一九三二)としてこの文字の創作者瞿秋白の論文とウ[br]
ラジオストックの第一次中国新文字代表大会決議とをあげ、第二編は世界語者[br]
の拉丁化中国字の介紹と討論として(一九三三-一九三五)エスペラント学者の論文をあげ、第三[br]
編は大衆語の討論から拉丁化の提唱として(一九三四-一九三七)葉籟士や魯迅をあげ、[br]
第四編は拉丁化と国語羅馬字の論争と両種方案の合流についての討論で(一九三四[br]
-一九三七)黎錦煕王玉川が適役として登場する。第五編は初期の各種拼音[br]
文字推行問題の討論として(一九三五-一九三七)方言や統一語また四声についての討論をあ[br]
つめ、第六編は抗日戦争時期の拼音文字論として(一九三七-一九四五)陳望道、陳鶴[br]
琴、張一●、郭沫若、許地山などの時局に因んだ論文をのせ、第七編は抗日戦[br]
争時期の拼音文字問題の研究と実際工作の討論として(同上)林迭肯や呉[br]
玉章の論文等をのせ、第八編は抗日戦争勝利後三年間の拼音文字論(一九四五[br]
-一九四八)第九編はその間の拼音文字問題の研究で、これだけ蒐集し整頓された[br]
ものは他に比を見ないが、惜しいことに単行本になったリストは細かくできているが、せ[br]
っかく集められた論文がたとえば何年何月の何雑誌に出ていたかということが全然出て[br]
いないのは遺憾である。[br][brm]
一九四九年上海解放以後、解放日報にも「人民政府は一貫して順序をふみつつ[br]
中国文字を改良しようとしている。毛主席も新民主主義論の最後に『文字は必ず[br]
一定の条件のもとに改革されねばならない』と述べている」といっているが、果して一九四九年[br]
十一月十日には北京で中国文字改革協会が成立した。はじめ中国文字改革協進会[br]
として準備されていたのがいよいよ実現したもので、呉玉章の司会のもとに開かれた。その[br]
際の呉玉章の演説には「今のところ大規模な文字改革を実行するには客観主観[br]
の条件が成熟していないから、いかなる方案にしても大規模には発展できない。しかし[br]
人民政府の賛助の下に中国文字改革の偉大な事業の目的は必ず条件の成[br]
熟したときに実現することを確信する」と述べており、つづいて南京大学でも十一月[br]
二十二日に南京大学文字改革研究会が発起されている。倪海曙が一九五〇年八月[br]
十三日の光明日報新語文にのせた解放一年来全国新文字運動の大概情況[br]
によるとそれが六十地方にわたり香港東京でも行われ、その学習研究応用宣[br]
伝が進んでいるし、正式の団体は十九地方で、その学習に参加したものは一万四千[br]
人、学校でも正課としたところがあり、定期刊行物には新文字週刊がすでに三十二期ま[br]
で(最近は一九五一年四月十四日に六十六期が出ているのを見た)、単行本は二十種(それ[br]
までに百四十種の単行本、七十八種の定期刊行物が出た)ラジオの講座も行われ東北[br]
地方の鉄道の電報カード速記などにも応用されているといっているし、一九五一年[br]
四月に同じ倪海曙が新文字週刊にのせた目前的新文字運動的一些情況[br]
によると、現在は各地で別々に発展しており、各地の発展は各地の具体的条件と実[br]
際の必要によって決定される。東北の鉄道では最も発達し特に鉄道電報で成績[br]
をあげているし、広東では北方語学習の必要に伴い、広州に四五ヶ所の北方語学校が[br]
できているが、その一つだけが解放以後新文字を用いて二千余人に北方語を教えた。ま[br]
た北京と上海とでは通俗化に向かい、工農の語文教育と専門の語文研究(特に文法[br]
研究)とに出路を求め、直接新文字のしごとでないまでも中国の文字改革運動に[br]
力を添えている。特に出版物としては北京から「学文化」が出て工農のために横組みであ[br]
る文章はいわゆる辞素速写を実行し、またむつかしい漢字の代りに同音字を用いる[br]
ことも実行しており、上海の「文化学習」も重点を語文におき、たえずいかにして新文字の精[br]
神に結合するかという点を研究し、工農の語文学習を助けているが、二種の雑誌[br]
は非常によく売れるという。また学問の方面では文法研究の進歩とともに科学院語言研[br]
究所の手でソ連における言語学論戦資料の翻訳が行われ、その第一部分十七[br]
万字が完成し出版されんとしてる。また北京では新聞雑誌の封面や報頭標題などは横[br]
書きが励行されているし、新文字による注音も新学期の初中語文課本で実施[br]
され、上海出版の字典もほぼ新文字で注音することになった[br]
という。また外国人のための新文字課本も上海で進行する一方、少数民族の拉丁化も進み、[br]
最近は彝族から正式に始められる。[br][brm]
同じ倪海曙の報告が一九五〇年八月から一九五一年四月までの間に、これだけ調[br]
子が変ったことにあるいは怪しまれる人があろう。しかしこれには客観的状勢を計算に[br]
入れなければならない。前に述べた如く延安における陝甘寧辺区新文字協会が成立し[br]
たのは一九四〇年十一月でその後三年間ほどは新文字の普及工作に従事したが、大体[br]
一九四三年から四四年にかけてそれが識字運動に切りかえられた。それは香川孝志氏の雑[br]
誌「民衆の旗」における座談会の発言および一九四四年に延安を訪れた[wr]マンチェスターガーディ[br]
アン[/wr]の記者ガンサースタインの旅行記(Gunther Stein : The Challenge of Red [br]
China) 一九四五 を綜合して知られることである。この理由が小野忍、斉藤秋男両氏の中国の[br]
近代教育 七十四頁 に見えているが、農民側からは漢字学習の要求が出、知識階級や[br]
郷紳の側からは新文字に対する疑問が提出された。農民としては官吏や地主商人が用[br]
いている文字を習いたいということを村の集会や党の役員との談話にも持ち出した。また[br]
知識階級の方では(一)すべての必要な文献を新文字で印刷できないこと(二)漢字を覚[br]
えたものを一夜で再教育できないこと(三)新文字普及のために方言を統一するかまた[br]
は標準語を第二の一般的言語にしなければならないこと、ただそれは平和の時でさえ何十[br]
年もかかる、といった疑問によって拉丁化運動は中止された。[br][brm]
これに代った識字運動は早く一九二一年ごろ晏陽初陳鶴琴が中心として編集し[br]
た平民千字課という教本以来、国民政府の下でも一千字を目標として進められた[br]
ことであるが、毛主席も人工の百分の八十を文盲から解放するのが新中国を建設す[br]
るための必要条件と考えており、必ずしもその千字に拘泥せずに識字運動を[wr]展[br]
開[/wr]しているらしく、近着の旅順大連地区一九四九年的識字運動などもその一つの文[br]
献であるが、それにはどれだけの文字をどういう方法と順序とで教えるかは出ていない。ただ[br]
倪海曙によってもその漢字はできるだけ簡単化し同音字は融通するという方針[br]
であり、また漢字についてさえ分かち書きを行っていることが分かるし、教授法としては識[br]
字者をすべて動員して職業教師を自発的に協力させ、地方の党支部の役員、地[br]
方政府の官吏、郷紳のほか特に小学生を小先生と称しこれをも動員して文盲の教[br]
育に従事させ、農閑期に識字班を組織して集団教育を行うほか、村の入口に黒[br]
板を立てて漢字を書き、通りがかりの農民に読ませたり、耕地の隅に漢字を書いた[br]
大きな板を立てて耕作しながら覚えさせるような新工夫を考えたし、漢字への関心を[br]
喚起するために識字の必要をしくんだ秧歌劇を見せたりしたといい、その結果辺[br]
区の住民の八〇%は一九四四年には最小限度三乃至四〇〇字をおぼえているらしく、[br]
農村工場での活動分子は一年前に読み書きのできなかったものが今や解放日[br]
報をよみ得るに至ったというのが中共概論 外務省調査局一九四九年三月 に見えた記事で[br]
ある。こういう状勢の下では拉丁化運動を農民に行うことは無理であり、自然それは北京香[br]
港上海など文化の高い地方で浸透しつつあるというのが現状であると思う。[br][brm]
次に拉丁化そのものの本質として各地方の方言をそれぞれの法案によって示すことに[br]
なるのであるが、特に最も広く行われているのがいわゆる北拉、すなわち北方話拉丁化[br]
新文字で、その書法はほぼ山東あたりの方言を基礎としたらしい。これには拉丁化が[br]
ウラジオストックの労働者におこったことが関係するのであって、これらの労働者は満[br]
州から移住していったものであり、満州の労働者は元来渤海湾をこえた山東がそ[br]
の故郷であり、だからこそ山東語乃至満州語に本づくわけである。従ってこれまでの[br]
国語運動が提唱した北京語に比べると、たとえばgi ri xiとzi ci [br]
siのごとき北京語で区別のない音韻を区分してある。尤もこの区別は北京以外の[br]
北方では多く存在しており、初期の注音符号でも区別しているし自然旧劇でもこれを団字尖字と称して区別していたもので[br]
あるから区別することも困難でない。しかしge(格革)とgo(哥果閣)との区別に至[br]
っては頗る了解に苦しむものがるがこれはその標準語の問題でそれが決定すれば自然きまることである。さらに拉丁化の特長として四声の区分を表記[br]
することなく、復音節的綴りによってこれを文字化してゆくのであるが、これにもそのローマ字[br]
の用法に対する批判と声調を用いないことに対する批判とがあって、いづれも一応は[br]
国語羅馬字に対比して考えられる問題である。まず後者については早く一九四二[br]
年に林迭肯博士の中国拼音文字的出路に見えるような新法式が提案された。[br]
つまり国語羅馬字と拉丁化とを対照して前者はその基本の綴り方がよいが、しかし声調が[br]
綴りに示されることは繁雑で堪えがたい。これに反し拉丁化では四声符号を取り消して複音[br]
で区別することにした点が進歩している。だから国語ローマ字の基本形式をとってこれを[br]
声調なしで綴るということで国語ローマ字の簡易化したものであり中文拉丁化の改正であ[br]
るという一種の折衷法である。すなわち拉丁化のxをhとすること、rhをrと改めるこ[br]
と、gi(y) ri xi をji chi shi に改め、c zh をts j に改めるなど国語羅馬字に近づけ[br]
て国際化を計るとともに、これを基本形式に限り、ただ特字をきめてそれだけを国[br]
語羅馬字に近い方法で写す。すなわちbaの中から八だけをbahとし、banの中から[br]
半だけをbannとする。またbuは不だけにしてあとはbuuにするといったような方法である。[br]
[0x0030-0990out01]
日本式とヘボン式
その討[br]
論は一九四四年に中国拼音文字的整理として公表されているが、一九四八年東北の解放とともに新文字のスタイルとして出現しまた推行実験されたという。また謝景永編林濤校訂の[br]
新文字速成課本もxをhに改め、yをiuに改めるといった折衷案を提出してい[br]
る。[br][brm]
曾て国語羅馬字を工夫した人の一人である黎錦煕ははじめ拉丁化の論者に対し[br]
一九三三年から一九三八年漢口の拉丁化研究半月刊に至るまで五年にわたって討論した[br]
結果、一つの協商的妥法を見出した。それは国語羅馬字が声調を示すことを強調[br]
したのはこれを以て確実にし完全に漢字に代わるためで、ために基本形式のほかに一[br]
つの完全形式を作った。もし基本形式だけでいうならば拉丁化と同様で、もし最初に[br]
注音字母を作らずにこの基本形式を採用していたら拉丁化は早く人民大衆に行[br]
われていたに違いない。そしてそれは林迭肯によって折衷されている。したがって今日においては[br]
曾ての国音字母として注音符号と国語羅馬字とを併存したように国語新文字[br]
としては拉丁羅馬字母を採用し、別に注音字母は漢字の反切として引きつづき[wr]注[br]