講義名: 中国における言語文字問題
時期: 昭和26年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
しかもその背後にある三千年来の古典を顧るとき、それが如何に巨大な負担であったか[br]
想像に絶する。ただしこれらの文字を知りその古典を読むことのできる人たちは選ばれた[br]
人物として世に重んぜられ、これを読書人と称して優遇された。それらの人のためにのみ官途[br]
は解放され、自然、政治上の権力がその掌中にあり、またそうした人たちがある程度恣意的に運用[br]
できるという。これも中国的政治組織では、その人たちにして敢えてしようとする限り経済的[br]
特権も自らそこに生じて来る。清朝の官吏の生態を写した儒林外史 八四 にも三年[br]
清知府、十万雪花銀という諺があっていかに地方官吏が財産を作る早道であったかがわ[br]
かる。とすると自然それで不動産を買い入れたり、商人に資本を与えてその利益の分けまえ[br]
にあずかるとか、さらにこれを膨張させる方法もあり、かくて土地の所有はもとより経済界を制[br]
馭することもこの人たちの思いのままになったわけである。しかもそうした環境に居た人たちは[br]
もとよりその特権を子孫に伝え、更にこれを拡大しようと望むであろうし、それにはその子孫に[br]
文字を教え古典をよませ、そして政府の施行する試験に及第することが必要になる。そ[br]
の試験たるや、紀元前数世紀以上の古典の中から極めて短い句をとり出し、その句について[br]
その主旨を布衍した文を書かせる。その文は全くの対句でできて、しかもいよいよそれが固定[br]
するとさまざまの規範もでき、たとえば文の中で時の王朝や天子のことに触れたときは勿論行を[br]
かえるのであるがその前の行は一字のあきもないようにキッチリ詰まっていなければならない、[br]
というような技巧さえ要求される。さてそれがパスして役人になると司法省へ配属される[br]
人もあり、大蔵省へ配属されたり、知事になったりする人もある。だから始めにあげた老舎の趙子曰[br]
にも、いつになったら大蔵省の役人に財政のことがわかるようになるかと、春秋左伝の講[br]
義ができるからって市政があずけられるかと云って慨嘆しているのは一応もっともである。だ[br]
から学問だけは確にあり詩などはうまい。曾て日本の某首相の作った詩を見た中国人[br]
が首相の詩がこれでは日本の文化知るべしと断じたという。そこにも一理はあると思う。[br][brm]
今日問題はこうした少数の読書人を除いた大多数の人民たちに移る。これらの生活にめ[br]
ぐまれない人たちは如何にしても文字を習得するゆとりはない。たとえ若干の符牒として覚えることはあってもこれだけ無限といってよい文[br]
字をよみ古典に通ずることは不可能である。そのため大多数の人民は文盲であった。それが[br]
今でも全人口の八割だという宣伝さえあるほどであるから、清朝時代は押して知るべしであ[br]
る。それらの人たちとその子孫とは極めて偶然な例を除いては全く文字乃至古典教育を受ける[br]
機会がなく、自然政治や経済からしめだされるばかりか、文化そのものさえ享受できないとい[br]
う状態であった。こうした社会は一面極めて安定した様相をもった。しかも読書人は決して[br]
カストではなかった、だからその若干は暗に対流をなして動いていた。そしてそれが一面読書人の[br]
グループに対する自然の輸血作用を営み、必ずしも完全に停滞はしなかった。むしろ読書人の[br]
グループそのものも強化さえした。そのために読書人に対する尊敬となり、文字に対する[br]
尊敬となり、同時に非読書人の生活は一応浮かびあがる途もなかった。これは社会的に見[br]
て極めて偏頗な状態でもある。いわば表面は極めて安定した様相を呈しつつ実は極[br]
めて不安定な状態を包発していた。その原因の重大な部分をこの文字の問題が担[br]
任していたことは云うまでもない。[br][brm]
かような危険を孕みつつも中国の社会は久しく孤立して他の民族から大[br]
きな刺激を受けたり他の民族によって反省したりする機会をもたなかった。いわば武[br]
陵桃源の夢を貪っていたのであり、そうした期間こそ中国がこの危険に対しても[wr]無関[br]
心[/wr]で過ごすことができた。とともに、もっと早く他の民族を知りこれと接触していたならばこれほ[br]
ど烈しい摩擦に至らずして済んだかも知れなかった。それほど次ぎの時代は大きな変動で[br]
あり、自然、烈しい摩擦となって現れた。私は最初に中国の言語文字問題の特性は原始[br]
的な言語文字の性格を進化した時代まで持ちつづけたために発した摩擦であり、それは[br]
悲劇的性格を持つものと断じておいたが、もしここに至るまでに適切な改良が少しでも[br]
施されていたならば幾分の緩和はできたことであったろうし、その悲劇も必ずし[br]
もかくまで急転することはなかったと思われる。われわれは次ぎに来る大きな転換期を[br]
通してこの問題が如何なる摩擦をおこし、またそれが悲劇のどんな因子になって行く[br]
かを歴史上の事実に照らして考えねばならないのである。[br][brm]
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三[br]
中国が外国文化と接触しほかた歴史は極めて古いし、またその影響を蒙ったと思ぼしき事[br]
実を指摘することも比較的容易である。しかし中国人が外国文化を以て畏るべしと感[br]
じたのはアヘン戦争以来わずかに百年の歴史であり、その影響は実に深刻を極めている。それの政治的思想[br]
的な面については別に述べられる予定であるが、特に文字の面に就ての影響を拾って見ると、[br]
まさしく日清戦争をさしはさんだ時代に始まる。日清戦争は一八九四、五の二年にまたが[br]
っているが、おそらくアヘン戦争から現在までの半途にあたっている。アヘン戦争は1840年に始[br]
まり、一たびは一八四二年の南京条約で香港を割譲することによって解決を見たごとくであったが、実は根本的問題には[br]
いささかも触れていなかったため、一八五六年のアロー号事件を切っかけとしてふたたび英仏聯合軍が[br]
中国を攻撃し、一八五八年それは北方に飛火して、一八六〇年には英仏聯合軍によって首都[br]
北京が攻撃されるという重大な敗北を喫した。これより先、一八五一年に洪秀全が太平天[br]
国王と号していよいよ勢力を張った――これが今から正に百年前のことであるから中国では本[br]
年その記念の行事が行われている――そして一八五三年には南京を攻略してその勢あたるべ[br]
からざるものがあったが、一八六四年に至って洪秀全が自殺し、清朝未曾有の大乱は一旦終り、[br]
世は同治中興を謳歌したが、それは一八六〇年の天津条約を去る四年後のことで、内憂外[br]
患は全く清朝の土台骨をゆすぶったのである。大きな意味での外国からの侵略や大規模な内[br]
乱は日清戦争まで約三十年間は中休みの形であったが、しかしその間にアヘン戦争以来[br]
の影響が外国文化に対する見かたの上に大きく関係して、最初は外国の強さはその軍備[br]
であり産業であって、精神文化に至っては中国が依然として世界に冠絶するといった考えか[br]
たが一般に行われていたのが、やがて西洋の精神文化も恐るべき内容を持っていることに心づいた。[br]
その紹介を敢えてしたのが、思想においては厳復であり文学においては林紓であった。厳復[br]
は光緒の初年 一八七五――(一八七九年帰朝) にイギリスの海軍兵学校に留学し、帰国の後時の北洋大臣李鴻章に見[br]
出されて水師学堂の教授となった。彼が始めてHuxleyの天演論 進化論 を翻訳発表し[br]
たのは一八九六年すなわち日清戦争の直後で「西洋の学問のすぐれたところが象数形下[br]
の末にあり、その務むるところは功利の間を越えないと考えるのは誤りである」とその序[br]
に断言している。林紓はこれに反して自分では外国文が全然よめず、外国文に達した人[br]
が翻訳するのを聞きつつこれを流麗な古文に書き綴った。彼がはじめてのAlexandre [br]
Dumas Fils の茶花女遺事 La Dame aux Camelias を翻訳したのは日清戦争の直[br]
前一八九三年のことであった。この二人の重要な人物はいずれも古文について十分な訓練を積み[br]
西洋の思想や文芸を漢字という工具によって訳出したわけであるが、中国人にして漢字その[br]
ものに懐疑の念を持ちこれを改革しようと志したのもやはり日清戦争を挟む頃であった[br]
し、それを促したのも正に西洋人の使用する文字の影響であった。[br][brm]
これよりさき西洋人が中国に来て漢字を学習する必要を覚えたのは、主として明の末年[br]
十七世紀の始めジェスイット派宣教師の布教のためであって、その領袖であったMates Ricci [br]
利瑪竇 が程氏墨苑のためにペン書きにしたローマ字漢字対照の文章、それは西洋の[br]
宗教画に題したもので、万暦三十三年 一六〇五 という年号がついている。もっとも別に汪[br]
延訥の坐隠奕譜というものがあって、それにも利瑪竇が完全にローマ字だけで書いた[br]
ものが一枚ある。それは汪氏が京都で利瑪竇からもらったものだといっている。ただしこの[br]
ローマ字だけのものはこれを漢字に訳そうとしてもどうしても意味が続かない。おかしい[br]
と思って調べてみたら、それは全部程氏墨苑の中のローマ字を切りとっていい加減に並[br]
べただけであった。しかし当時の士人たちが如何に利瑪竇を重んじていたかはこれでも分[br]
かる――とそれは以上の資料を民国十六年に北京輔仁大学から紹介した陳垣氏[br]
の跋文にある話である。もっとも宝という字にteúという綴りをあてたのは正しく竇を誤[br]
認したためであるから、漢字に対する造詣はいささか疑わしい。これに反しほぼ同時に[br]
中国宣教師として渡来したNicolas Trigault 金尼閣 の著、西儒耳目資は極[br]
めて精密な操作のもとに中国語乃至漢字とローマ字との対照を行ったもので、天啓六年 一六二六 [br]
に刊行され、当時の中国の進歩的学者を驚嘆させた。しかしそれはただ宣教師[br]
乃至その周囲にある少数の中国人が使用したに止まり、もとより漢字を動揺させるよ[br]
うな気配もなかった。なぜならば当時の西洋人は同時に新しい自然科学の知識を中国に[br]
輸入しただけで、中国人をして自国の文化について反省[br]
せしめるほどの影響を持たず、またそのバックとしての軍艦大砲といったものを全然持たな[br]
かったからである。[br][brm]
これらの宣教師は明が亡びてからも清朝の天子に重く信用され、特に Joachim Bouvet の如き康煕[br]
帝の信任が篤くわざわざ一六九七年に勅令を奉じてフランスに帰り更に十人の有能な宣[br]
教師 Henri de Prémare 馬若瑟 などを引率して来るなど、宣教師の活躍はその極[br]
に達したが、たまたまジェスイット派の成功を嫉んだドミニコ派、アゴスチーノ派、ソシエテ[br]
ミションゼトランジェール 海外伝道協会 などがその布教方法を批難したいわゆる典礼[br]
問題が勃発し、この結果はむしろキリスト教に対する信頼の度を薄め、同時に中国政[br]
府の迫害を招き、遂に一七二三年にはキリスト教の全面的禁止となり、西洋人はすべて[br]
澳門に移されてしまった。しかるに十八世紀の末になってイギリスは東インド会社の貿易関係[br]
を打開するために使節を中国に派遣したが 一七九三年 これに少しおくれてRobert Morrison[br]
を筆頭にプロテスタントに属するロンドンミッショナリーソサイエティー ロンドン伝道会 の宣[br]
教師たちが相次いで中国に足を踏み入れた。そして広東福建上海と海岸に沿うて[br]
布教の線を伸ばすとともに、それぞれの土地について土語を研究し、その土語をローマ字に[br]
よって記録し、多くの方言辞書を作りあげた。元来、これらの土地には文語ならば[br]
これを一定の格式によって表現できるいわゆる読書人はもとより存在していたが、一般人の[br]
日用に供せられる言語はこれを記録する方法がほとんどなかった。それに対したとえば神[br]
天聖書(ホーリーバイブル)のような文言の著述や翻訳も必要であったとともに、一般人に通ずるための口[br]
語の学習、その結果としての辞典が必要であったわけで、モリソンの広東語辞典 一八二八 Medhurst[br]
の福建語辞典 一八三二 、降ってEdkinsの上海語文法 一八五三 などが公にされている。そしてこれらを[br]
表現するためのローマ字が同時に一般のキリスト教信者に普及され、その人たちの日常[br]
生活にも利用された。これがいわゆる教会ローマ字である。またそのローマ字によって刊行[br]
された俗語の聖書も多数行われていたらしい。中国人が中国の文字改良のために具体的な音標を[br]
考えたのは正にこうした環境の下であって、その時期は前に述べた日清戦争の直[br]
前であった。その人の名は盧戇章という。[br][brm]
盧戇章は福建の人で厦門に住み、曾てシンガポールで英語を学んだが二十五歳で厦[br]
門に帰りイギリスの宣教師を助けて英華事典を編集していた。それがたまたまその地方に行[br]
われた教会ローマ字にヒントを得て、十数年の苦心を費して五十五の記号を選定し、[wr]ロー[br]