講義名: 中国における言語文字問題
時期: 昭和26年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
マ字式字母[/wr]を作り、中国第一快切音新字と名づけた。時に一八九二年、すなわち日清戦[br]
争の前々年であった。尤もその五十五といっても厦門語は三十六字、それに漳州語には二字を加[br]
え、泉州語には七字を加え、すべて四十五字、ほかに各地方のための十字を加えたというから、そ[br]
れで一応広範囲に適応させる考えであったらしい。そしてそれで書かれた読本として一目[br]
了然初階を作ったが、それは厦門語であった。ともかくこの方法によると半年ほどで自由[br]
に物が書けるし、福建にいた西洋人もこれを学んだといわれる。盧氏のこの書物が出て[br]
間もなく福建では力捷三、上海では沈学、香港では王炳耀などがそれぞれ同様の企[br]
画を発表し、別に蔡錫勇は伝音快字と称する速記文字を工夫した。それはたまたま[br]
アメリカに行って議会を参観したところ、議員の演説が時を移さず印刷されることに驚[br]
嘆して遂にLindolcyの方法に本づいてこれを発明し、その子蔡璋はその術を伝えて中国の議会の速記を主として担任することにな[br]
ったといわれる。さてここに盧戇章の同郷の林輅存という人がたまたま工部の虞衡司郎中で[br]
あったが、中国の文字があまりにも複雑で音標文字を用いない限り勉強ができないことを感[br]
じて盧氏をはじめ力、沈、王、蔡などの書物をあげて、その長短を調査し音標文字を作るべきこ[br]
とを奏上した。それは一八九八年のことで康有為梁啓超が光緒帝の親任のもとに新しい政[br]
治をやるように努力した時代を反映したものであった。しかもその新政はわずか百日で、西太后を[br]
擁した保守派のクーデターによって潰滅したため林輅存の奏上したことも握りつぶしになった。[br]
続いて翌々年即ち一九〇〇年には団匪の乱が高潮に達し、遂に八国聯軍が北京を占[br]
領し、西太后と光緒帝とは西安に蒙塵した。そしてその始末がまだ収まらぬ中に満州の[br]
風雲が急を告げ、一九〇四年日露戦争が勃発した。この戦争において日本が露国を[br]
押しかえしたことは日清戦争にも増して中国人に絶大な刺戟をあたえ、ふたたび新しい政治が胎動を始[br]
めた。ちょうどその頃かの盧戇章がわざわざ厦門から北京まで出て来てその著述を学[br]
部に提出した。ところが七年前にその問題は総理各国事務衙門で調査することに[br]
なっていたとのことで、学部では外務部にまわせという。いかにも総理各国事務衙門(当時はあらゆる新政に関することをとりあつかった)は[br]
外務部の前身に相違ないが、すでに一九〇一年團匪の乱の結果として正式の外務[br]
部ができてみれば、この件は当然学部の所管であるわけで、外務部としては又も握りつぶし[br]
の形勢であった。その間に盧氏は初め提出した資料を引っこめて新しい著述をさしだした。[br]
それは中国切音字母と称して、以前のローマ字式でなしに日本の片仮名に似たものであった。[br]
これに就いては盧氏の七年間の行動が関係しており、特にこの間三年ほど日本の兒玉台湾[br]
総督に招かれて総督府学務課に勤務したため、音標文字に対する意見が変わって[br]
ローマ字よりはむしろ漢字の一部を取った仮名の方が普及しやすいと考え、その式によっ[br]
て京音のほか泉州漳州福州広東厦門の五種の字母を添えた。これよりさき学部ではやはり所管事項としてとりあげることになり[br]
訳学館 北京大学第三院の前身 にまわして審定させ、遂に長文の審査書がで[br]
きた。それは当時の訳学館教授、後に日本に駐剳公使になった音韻学者が汪栄宝[br]
の筆だと云い伝えているが、まず音標文字が簡易で象形のむつかしいことを認めつつも、[br]
漢字は中国国粋の源泉、一切の文物の根本だから廃止はできない。ただ漢字のほかに[br]
音標文字を作り漢字と並んで行うほかはない。また音標文字としては日本の片仮名の[br]
例によるかまたはローマ字を仮りるかであるが、それが定まった上で漢字と配合して[br]
全国に通用させるべきである。ただし盧氏の書物は子音が不完全であったり入声が不足[br]
だったり書きかたがおかしかったりするから、これを標準として全国に通用させることはできな[br]
いという結論であった。そこで学部から外務部に回付し、外務部から盧氏に交付した。それ[br]
は一九〇六年のことで、実に盧氏の草創より数えればほとんど卅年である。[br][brm]
こうして盧氏のしごとが不遇である間に新しい運動が強力に推進された。それはかの[br]
一八九八年の康有為梁啓超の新政に加わった王照である。ちょうど日清戦争の最[br]
中に進士となりつづいて小学堂を創設したところを見ると初等教育には早く関心があった[br]
らしい。いよいよ新政が実行されたとき王照は光緒帝に西太后を奉じて外遊されること、[br]
それには先ず日本に行幸されたが好いこと、また教育部を創設すべきことを奏上した。政[br]
府部内には陛下の外遊をお勧めするとは禍心を包発するものだという批難さえおこ[br]
ったが、若い光緒帝は勇猛嘉ミスベシとお褒めになり、日本公使に抜粋される予定[br]
であった。しかるにクーデターの結果、王照も指名国事犯として逮捕命令が下っ[br]
たため、公使になる代りに亡命者として八月九日日本に逃げた。それから二年して一九〇〇年団匪の乱に乗[br]
じて帰国し、やがて天津に蟄居して官話合声字母を創作した。やがて西太后と光緒[br]
帝とが北京に還御されたが、太后は八国聯軍が北京に入ったのは康有為等の遊説の結[br]
果であると信じられ、その一党はその憎しみを買った。このころ王照は北京で偽名して家を借りて官[br]
話合声字母義塾を設けたが、袁世凱の幼子の克文がこの方法で早く文字を覚えたところから袁世凱[br]
がこれを喜んだという。しかし名がひろまれば危険も多くなるので遂に自首して出て入獄した[br]
が、やがて赦免され、ふたたび字母普及のしごとにかかり、この字母で印刷した書籍新聞を発行し[br]
た。さて王照がこの字母を作ったのは必ずやわが国に亡命中その教育普及の実情を見、こと[br]
に普及のための工具として仮名のはたらきを認めたからに相違ない。はじめ王照が帰国して 一九〇一 八月 [br]
李鴻章に面会を求めたとき、李鴻章は病と称してあわずに、于式枚に代って面会させた。その[br]
とき王照の説いたことは、今わが国には秀才挙人進士あわせて二十万あるが、日本で普通教[br]
育を受けたもの五千万に比べると、二百五十分の一にすぎない。一を以て二百五十にあたるようでは[br]
いかなる策といえども施しようがない。政府としてはぜひ下層教育に御注意を願いたい。そ[br]
れには言語と文章との間を通わすような文字を作り言文の一致を計らねばならないと述べ[br]
たが、于式枚は全然とりあわぬので王照は席を蹴って帰ったという。王照が天津で[br]
官話合声字母を作ったとき、まずその序列を日本で印刷し、のち中国で再版しているが[br]
その序文によると、外国では文言一致によって教育が普及するに反し、中国では文人と衆[br]
人とが全く別の世界に住んでいる。これというのも後世の文人が保守的で、ために文字が言語と[br]
ともに変化せぬからだ。自分は蔡錫勇と王炳耀の本を見たが官話に適合しないので、か[br]
ような字母(音韵闡微)を作ったという。この字母は古い中国文字の発音をあらわす反切を改良したも[br]
のであるから、当然二綴りで、そのため子音が多くすべて五十、これに母音十二、あわせて六十二の字母を必要[br]
とした。後に故服部博士が北京大学に赴任されたとき、その門人の王璞――王照が北京[br]
で教授したとき自分は顔を出せないので王璞に講義させて自分はついたての蔭に隠れてきい[br]
ていたという――にむかって「尊師の官話字母は数が多すぎるから、むしろ三綴りにして字母[br]
の数を減らした方がよい」といわれたというが、王照はこれを黙殺した。あとでその説明として[br]
いったことは「服部さんは自分で子どもを数えられたことがないからそう云われたので、実は三[br]
綴りをおぼえるのは二綴りの数倍も困難である。魯鈍なものは三綴りを習ったのでは[br]
何ヶ月かかっても使いこなせないが、二綴りならばだれだって十数日で使えるようになる。何[br]
事も苦心経験して見ないとその味がわからない。文人はとかく理論に走って人の注意を引[br]
こうとするが、そういう連中にかまってはおられない」といったという。元来王照の根本主張[br]
は、すべて字母は俗語を綴るためのものであって、文語を綴ってはならないという。もし、俗語を[br]
そのままに綴ってゆくならば決して誤りを生ずることはない。それはちょうど人がふたり一日中[br]
話をしていても君のいったwanは早晩の晩か茶碗の碗かとか、chaは茶葉の茶か[br]
査核の査かなどと問いただすことは決してないのと同様であるが、いざそれで文語を綴ったら読[br]
者の誤解を招くことがとても甚しい。しかもその俗語たるや必ず統一されていなければならず、[br]
統一するとしたら北京語を標準にすべきこと勿論である。ただ北京でも土語の烈しいものは[br]
棄てる。四声も北京語の実際どおりに上平、下平、上、去の四つで好いので入声はいらない、[br]
などと今日から見れば平凡きわまることでも一々自分の頭から割り出したのである。ただそれ[br]
だけに他人のしごとに対しては一歩も譲らない。たとえば王徳涵がこの字母に傚ったものを作[br]
ったとき、やはり二綴りで百三十の字母を必要としたが、王照はそれが煩雑なことと、その地方[br]
独特の音がまじっていることを指摘した。そこで王徳涵がこれを三綴りに改めて字母を三十[br]
六に減じたところ、王照はかえって覚えにくくなったと批難している。またわが[wr]伊[br]
沢修二氏[/wr]が曾て中国語の音標化を考えて明治二十七年に日清字音鑑を著し主として[br]
イギリスのThomas Francis Wade のローマ字により、さらにわが片仮名に若干の記号を施[br]
して併用したが、その後の経験によってローマ字も片仮名もこれに適合しないことを発見した。[br]
たまたま「清人王照氏は漢字の省画によりて新字を製しこれを音標に取用せし如き[br]
その創意佳ならざるに非ずと雖も惜哉彼もと音韻の理法に通ぜざるを以て」遂に完[br]
全な効果をあげなかったので、自分は心を潜むることに十年、清国官話韻鏡とその解説[br]
とを公にしたというのであるが、その字母ことに子音はほとんど王照に拠った。それを見た王照[br]
も負けてはおらず、伊沢は音理をわきまえない癖に自分の書物を剽竊し、妄りに増[br]
改したと酬いている。[br][brm]
もっとも自分自身では最初に比べてかなり改良を加えてきたのであるが、特に注意すべき[br]
ことはいわゆる漢文の書籍との関係で、この字母は専ら貧民や婦人など読書の力もなく[br]
暇もないもののために考えた便法であるが、読書人がこれを覚えて人を教える道具にした[br]
り、下層の人たちと通信したりすれば、これもなかなか便利である。もし読書の力とその暇[br]
のある人ならば十年かかって漢文の書物を読む方がよい。こうした近道があるからと云って漢文[br]
を軽視してはならない。それに漢文と俗語とは互いに長短があって、わが国の旧書が、これ人に慶[br]
されないのみか、将来西洋の書物を翻訳するにも漢文と俗語とを並用して互いに輔助[br]
しあえば、一層利益があろう。もし人々が旧きを厭い新しきを好むようになっては、われ[br]
われの志と違うといっている。この点は黎錦熙が「王先生こそは階級意識の最も[br]
発達した人で」と半ば串談にいっているとおり、貧民婦女など読書の力と暇のないものを下[br]
等人とし、読書の力と暇のあるものを上等人とし、下等人には字母をあたえ、上等人は[br]
漢籍を読むといった考えである。ただしこれは清朝時代としてはむしろ自然なことで、専ら上[br]
等人の意識をもち、上等人の立場に立って語るものである。ただ王照はこうした時代に在[br]
り、また自然こうした立場にありながら、下等人のために奮闘し、この階級のことばを利用して[br]
落伍した大衆をひきあげ、いささかながらも前進させようと努めた所に、その名を歴史に伝[br]
えたいわれがあるのである。しかしかれを繞る清末の政界はむしろ反動的であり、ことに宣統[br]
帝が幼くして即位したとき王照の拚音官話報が摂政王の忌諱にふれて、その社も封[br]
鎖され、官話字母の講習も禁止されたので、王照は難を蘇州に避けた。ある人の説によると[br]
北京語が標準語となることについて南方人が反対で、漢文がこれによって廃滅するように云[br]
いふらして摂政王に讒言したためであるという。ただこの間にあって始終王照の字母を鼓吹[br]
したのが音韵学者労乃宣であった。[br][brm]
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