講義名: 中国における言語文字問題
時期: 昭和26年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
題[/wr]をえらんで簡単な報告をしてもらうことを要求し、その成績が加算される。これには二つの意味[br]
がある。一はこの講義は上述の如き多くの特別な意味を持つものであって、これを実現するに[br]
はひとり教官が努力するに止まらず、聴講学生も積極的に協力してもらうことが必要で、[br]
そのために全分科について全員が負担することはやや過重であることから、その一分科に限った[br]
わけで、二単位を取るものは各部から一分科つづをえらび、一単位のものもその部の一分科を[br]
えらんで聴講カードの余白に記入する。もし途中で変更したいときはあらかじめ申出[br]
ること。もう一つ意味は不幸にして前年は主旨が必ずしも徹底しなかったためと已むを[br]
えない環境がさせたためであろうが平素ほとんど出席しない学生が試験のときにかなり[br]
無責任な答案を出して担任教官の眉をひそめさせた事実がある。これはもとよりどの[br]
講義でも望ましいことでなく、また学生においても単位を得るという結果をえられないかも[br]
知れないことであるが、特にこうした重要な意義をもって教授会を通過して実施する[br]
いわば試験的講義としては最も望ましくないことで(出席をやかましく云うこととは違うが)[br]
それを消極的に防止することにもなると思うのでこの点特に諒承を乞いたい。同時に[wr]教[br]
官[/wr]がわにおいても一分科づつを選ぶための目やすとしてそれぞれの講義内容を簡単に予[br]
告することにしてあるので先ずこれをきかれて聴講カードに選択記入してほしいのである。[br][brm]
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中国における言語文字問題[br]
一[br]
中国における言語文字問題はたしかに一種悲劇的性格を持つということができる。現[br]
に中国はもとよりその影響を蒙った――少なくとも言語文字についての影響を蒙った諸[br]
国または諸民族――それは当然わが国わが民族をふくむものであるが――に一つとして[br]
この問題に頭をなやまさないものはない。わが国においても歴史の伝うる所によれば一八六六[br]
年すなわち慶応二年にすでにその悩みが明るみに出て、今日に至るまでその議論がくりか[br]
えされているし、またそのためにこそ今も政府に国語審議会が設けられて審議に当たっているが、一[br]
方これに対する賛成と反抗の運動も常に行われている。私自身国語審議会の委員の一人とし[br]
て当に日本の国語国字問題に特別の責任を負っている関係から、その淵源ともいうべき[br]
中国の言語文字問題を考えるとともに、中国自体におこったさまざまの文化ならびに社会[br]
の諸問題との連関においてもこれを徹底的に研究する責任を感ずるもので、その意味[br]
においてまずこうした悲劇的性格のよって出づる根本から解明していきたいと思う。[br][brm]
中国の言語文字問題の特性を一言でいうとするならば、極めて原始的な言語文字の性格を今日ほど[br]
複雑にして進化した時代まで持ちつづけてきたことから発した摩擦である。およそ人間の言語が音節をもつことに[br]
おいて動物の鳴き声と区別されるとすれば、その音節すなわち音韻的性格は単音節か[br]
ら始まることが当然である。今日の世界の言語が決して単音節で成り立っていないことは云うま[br]
でもないが、中国語もまた必ずしも単音節に限らない。元来単音節という[br]
条件は一つの音節で一つの概念が表わされることであって、たとえばしばしば用いられる、極[br]
く普通のことばは単音節の場合が多い。英語のman , day , cat からI , you , he ,[br]
she , it 乃至は run , see , sing などのような普通の動詞までが単音節であり、日本[br]
語でも め(目)、け(毛)、て(手)、は(歯)、と(戸)、ひ(火)、き(木)、といった極めて通用する単語には単音節が相当見[br]
られる。ただ日本語は音節構造があまりにも簡単で、五十音以上に出ることは[br]
ないので、むしろ複音節語の組織を促がしたかも知れない。その点中国語は現代の標準[br]
語のように簡易化したものでさえ音節の数が四百十一種と計えられるのみか、この各音節[br]
に対し一応均分的に配当された四つの高低アクセント、いわゆる四声を乗ずれば、総数[wr]一千[br]
六百四十四種[/wr]となり、これをわが五十音を単位とするものに比べては三百倍以上の能力を発揮[br]
する可能性があるわけである。尤も西洋の言語とちがってその構造がシムメトリカルにできていて、子[br]
音の種類、母音の種類、その組みあわせはもとより、語尾に現れる子音も極めて少なく、複母音[br]
の構造も一定し、また複子音が絶対にないといった現象から、この言語としては一応これで行[br]
きつまりであるということは否定できない。それにもかかわらず中国人の意識の中では今日に至るま[br]
で単音節を基調としていることはわれわれ自身も経験し、また言語学者もこれを承認[br]
している。尤も事実において話される中国語を語彙に分解した場合に二音節乃至二音節を含[br]
んだ多音節語が極めて多く発見される。それは或は中国語の多数を占める現象ともいえ[br]
よう。しかしそういう語彙を話す人の意識をさぐって見ると、文字によって記憶している人はしば[br]
らく別としても、少なくとも他の言語とは極めて違うほどに元来の単音節に還元することがで[br]
きるのである。一例をあげれば国という単音節は今の生きたことばではほとんど使用されないが、中[br]
国、英国、美国、仏国などと第二音節に無数に使用され、一方国家、国旗、国民などと第一音節にも使[br]
用されているから、それが同じ文字「国」で表わされることを知らぬ人でもそれが一定の意味を[br]
もった音節であることを知るのは容易である。ましてこの音節ㄍㄨㄛ(ˊ)については今の話しことばで[br]
は外に意味が全然与えられていない。それはㄙ(ˇ)という音節のごときまったく死という概念しか[br]
与えられていない如くㄍㄨㄛ(ˊ)としいえば極めてハッキリした意味内容が浮かんで来る。いうまでもなく人間の[br]
複雑な意識をすべて単音節に盛りこむことはちょうど数少ない都営住宅に多数の申[br]
込が殺到するようなもので、抽籤によってそのどれかの入居を許したのは国であり死であった。[br]
しかし遂に押しかけて来たものが二所帯三所帯になったのはたとえば同じㄅㄧㄥ(ㄧ)の中に兵と氷[br]
とがあったり、同じㄆㄧㄥ(ˊ)の中に平と屏とあったりするようなものである。ただし二所帯[br]
三所帯が入居するについてもそれがお互いに全然無関係に押し込んでくるわけはなく、必ず[br]
最初の入居者とある程度の関係または契約がなければならない、と同様にㄅㄧㄥ(ㄧ)の中に[br]
同居している兵と冰とは兵が元来は兵器だったことを反省すれば「氷の刃」という表現によ[br]
る姻戚関係がすぐに冰解するであろうし、平と屏とが屏風や塀がまっすぐな、つまり平[br]
な、更にいえばピンとしたものであることを考えれば、その姻戚関係がすぐピンと来る。[br]
元来、ㄅㄧㄥといいㄆㄧㄥといいその音節を組み立てる音そのものがある一定の方向と[br]
特色とをもっているから、そこに宿る概念もおのずから一定の範疇をもち、そのハッキリした場[br]
合にはただ音を聞くだけですぐその概念が浮かぶし、その概念が浮かべば発音機関がすぐ[br]
それにふさわしい活動を始める。こうした訓練が生れおちるとともに始められた人たちにとって[br]
は、単音節ごとに一つの概念を思い出し、また一つの概念を思い出すごとにこれを単音節[br]
で表現する――わたくしはこれを定義して中国人とは一音節ごとに一つの概念を吐きだす[br]
民族であるというのである。従って他の外国語のようには二音節間の紐帯が強くなく、いつ[br]
でも切り離すことができるし、また結びつけることもできる。いわば他の外国語が麻の紐[br]
で結びつけられた複音節から成っているとしたとき、中国語は細いゴムバンドでちょっと[br]
とめたに過ぎないのである。事実から云えばバラバラの単音節を並べたのでは到底人にその[br]
意思を伝達できない。たとえばただㄓ(ˇ)といっても指のことか紙のことかそれとも只かちょ[br]
っとわからないので、その前後に来ることばの関係から指だった紙だったというこ[br]
とを判断するほかないのであるが、しかし指のときには指頭といい紙のときには紙張といい、[br]
只のときには只有とか只是とか動詞または動詞的なものとの連合において表現された[br]
ならば必ずしも前後のことばの助けを借らずして一応その目ざすところがわかる。そうした[br]
場合にも頭は何か突き出たもの、ある丸みのあるものという概念を忘れないし、張は[br]
平たく伸びたものという概念を忘れていない。ただそこで前に述べた兵と冰とが同じ概念、[br]
平と屏とが同じ概念だといったに対し、指と紙とはどうつながるかという難問を提起さ[br]
れるおそれがあるが、それは今こそ全く同じ音になっているものの、古代は別の音韻系統[br]
であったのが長いあいだにその区別が磨滅し、そこがシムメトリカルの構造であっただ[br]
けに両方のある条件を媒にしてその区別が全然なくなるという結果を見たからにすぎ[br]
ず、起原にさかのぼればやはり別種のものと考えてよいのである。もちろん只と紙とはそ[br]
の頃から同音である証拠があるが、それは一つは文法関係を示すもの、一つは物の実体[br]
を示すものであるというところ、まちがいが起こりえないばかりか只も紙と同じく物の平に伸び[br]
ることから関係を求めてゆく可能性があるのである。ともかくこうして指頭、紙張、只有な[br]
どという一組のことばが、約束によって定められていて、それはゆるいながらも組み合わせごとにあ[br]
るリズムが働くことにより、聞く人にとってすぐその意味を知ることができるのである。[br]
つまり音韻論的にいって基調はあくまで単音節であるが、一種二音節的な作用を兼[br]
ねたものである。逆にいえば二音節語が非常に多いにもかかわらずそれは単音節という本[br]
質を忘れていないということができる。[br][brm]
次ぎには意味論的にいってこれらの語彙はそれ自体文法的な変化を一切おこさない。それは西[br]
洋語が数や人称や時制によってさまざまの文法的変化を生ずるのとは正反対であり、また日本の[br]
ように動詞の活用や敬語によってもさまざまの変化を生ずるようなこともなく、まったくあらゆ[br]
る場合にそのままの姿で現れる。もっともすべてが単音節を基調とする以上、そこに変化を求[br]
めることはむしろ無理であって、単音節語の裏はつまり意味論として見た孤立語である[br]
のが当然である。それは言語の線条性と緊張性とに応じて必ず一定の順序に排列される[br]
ブロックであってその順序とこれにからんだリズムとを損なうことがなければ、たとえ何等の文法的[br]
変化がなくともその意味をあやまることはない。たとえば、我打他と他打我との間の区別[br]
はブロックそのものにはなくして、全くその順序にあり、また順序に伴う緊張とにあるのであって、[br]
こうした性質の言語では必ずしも文法的変化又は助詞によって――ガ――ヲといった関係を指定[br]
せずともその意味を誤解する危険はないのである。しかるにこうした構造こそはやはり人[br]
類の言語の最も基本的な構造であって、それが簡単である限りこれこそ最も適切なまた[br]
自然な表現法であることは、小児の言語を顧みたときに直ちに理解されることで、中[br]
国語は単に音韻としての単音節において原始的性格を維持したのみならず、意味[br]
的にいっても線条性を最も自然に維持してきたものといえる。して見ればこの言語こそ[br]
最も簡明な語法をもつ言語であるといってよいが、同時にこれだけの簡単な方法で[br]
は盛りきれない複雑な関係や語気を示す必要に迫られたときはどうするか、と[br]
いえば、たとえば複数を示すときは文の中のどこにか両个とか好些とか都とか数が多いことを示せばよい[br]
――その必要のないときは加えない――時制を示すときには文の中のどこにか今天とか已[br]
経とか要とか時間を示すものを加えればよいのであって、特に全体を通じた規範的な[br]
ものがない。ただ極めて注意すべき現象として文中の動詞、または目的語を伴っ[br]
た動詞、すなわち述部における一つのニュアンスを示す方法が最もよくそこにお[br]
ける微妙な関係を簡明に表出する。これがいわゆるaspect であって、そもそも文[br]