講義名: 中国における言語文字問題
時期: 昭和26年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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   四[br]
王照と並んで清朝末期の国語国字改良家として忘れることのできないのは労乃[br]
宣で、王照より十六歳の年長で、早く進士に及第し、地方官をつとめたが、北清事変のと[br]
きに官を辞して郷里に帰った。たまたま光緒三十年に召電を受けて南京に出、両江総[br]
督李興鋭の幕僚となり、その死後もつづいて総督となった周馥の幕にとどまり、三十[br]
一年秋周総督に建議して南京に簡字学堂を設けた。その説はヨーロッパでは[br]
二十六の字母を綴り合わせるだけだから十人のうち九人までは文字がよめる。日本の文[br]
化はわが国から出たもので、わが漢字を用いているが、漢字のほかに五十音の仮名があ[br]
って発音を示し漢字を助けているため、士君子の深遠な学問は漢字を用いるが[br]
愚賎のものはただ仮名だけおぼえても用が足せる。ところがわが国では昔から漢字だ[br]
けで、これを助けるものがない。そのため上等の人は文字をよむが、国民教育は普及[br]
しがたい。近年わが国でも教育に志す人たちの間に覚えやすい文字を作るものが[br]
たくさん現れたが、中でも王照の拚音官話書報社で作った官話字母は一番よく[br]

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できていて、五十母十二韻四声を組みあわせると二千余の音ができ、京師の語音は[br]
すべて包括される。もしこの数十字をおぼえてその綴り方を知れば、漢文のよめないも[br]
のも白話で意味を通ずることができ、新聞をよむことも手紙をかくことも十分やれ[br]
る。たとえ老人や子どもでも頭の好いものなら数日でわかるし、いくら魯鈍なもので[br]
も二三ヶ月たてば分からぬものはないという。元来労乃宣はいわゆる等韻学に通じた[br]
人で、早く光緒十年に等韻一得を著して名著として知られていた人物で、その見[br]
地から王照の字母を推奨したのである。[br][brm]
これよりさき、王照の官話合声字母を一番に賛成したのは袁世凱であり、一番[br]
気乗りしなかったのは張之洞であったという。袁世凱は前に述べたようにその子[br]
の克文がこれをすぐ覚えたことから関心を持ち、北洋遼瀋はもとより江南まで[br]
もこの字母をひろめることに尽力し、大いに王照を重んじて、一度面会したいといっ[br]
たが、王照は袁世凱が光緒帝に報いて西太后に加担したことを怨んで、ついに[br]
会いにいかなかった。しかし曾て厳修という人が「袁世凱は官話字母を賛成[br]

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するが張之洞は自分で教育家をもって任じながらどうしても分からない、きっと文[br]
の毒を受けたのだろう」というのを聞いて、王照もいかにもと頷いたという。その厳修[br]
というのが実は一番早く王照を助けて字母をひろめた人で、その家では老媽子厨夫[br]
車夫までこの字母をおぼえて拚音官話報をよんでいたというし、厳修が袁世凱の[br]
幕僚であったことを思えば袁克文が字母を覚えたのもここらに糸を引いている[br]
かも知れない。現に光緒廾九年に保定の直隷大学堂の学生たちが袁世凱に上[br]
って官話字母を頒行し、普通国語学科を設けよとの文章に対し、袁世凱が[br]
これに批を加えているが、それを見ると合声字母は厳修の家から出たとあるし、ま[br]
たその中には日本伊沢氏のことばが引かれている。それもその筈で、その頃保定の蓮池[br]
書院の山長にあった呉汝綸が京師大学堂の総教習に任ぜられるに先だって日本[br]
に赴いて学制を視察し、普通教育のゆるがせにできないことをさとり、同郷の門人[br]
五人に命じ官話合声字母をたずさえて安徽に帰り、これを江淮のあたりに広めさせ、一[br]
方また門人を遣し管学大臣張百熙に手紙を送り、これを小学に須行し普通教育[br]

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に便するようにと勧告している。その日本視察中に呉汝綸は伊沢氏はじめ土屋弘、[br]
勝浦鞆雄などとも交渉があって国語統一のことなどを論じている。当の呉汝綸は日[br]
本から帰り 光緒二十九年一月 郷里に立ちよったまま俄になくなったが、その年に張百[br]
熙は学堂章程を奏定し、その学務綱要第二十四条には「凡そ各国の言語[br]
は全国すべて統一せられ、同国人の感情融和しやすきは小学において先ず字母を[br]
教ふるによる・・・今官音を以て天下の語音を統一せんには師範より高等小学[br]
堂に至るまで国文科の中に官話を附設すべし」と述べてある。これがちょうど保定[br]
の大学生たちが袁世凱に上書したのと相前後した事実であり、こうした文字を採[br]
用する空気が俄に濃厚となる。ことに袁世凱は翌三十年に直隷学務署を通[br]
じ全省の啓蒙学堂で講習させるほか、義塾を設け専員を派し、また官費を[br]
以て新聞を字母に訳したりして奨励の道をひらき、さらに直隷提学司に命じて[br]
字母を師範および高等小学堂の課程に加え、また天津に大規模な簡字学[br]
堂を設けなどして普及に努めた。地方でも響応したのは盛京将軍の趙爾巽と[br]

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両江総督の周馥であり、周馥の施設は前述のごとく労乃宣の要請によった。[br][brm]
ただ両江総督の場合は直隷や盛京のときとは違った条件がある。つまり両江の方[br]
言は直隷や盛京とは非常に違って、いかに王照の字母がよくできていたとしても、そのま[br]
まは通用しにくい点があるからである。そこで労乃宣は王照の字母をもとにして音母に六[br]
字、唯音に三字を加え、四声には入声を加えて増訂合声簡字譜を作り、南京一帯およ[br]
び安徽に通用させ、また七母三韻一濁音を増して重訂合声簡字譜をつくり蘇州一[br]
帯および浙江省に通用させ、まず土音を学ぶこと二ヶ月、さらに一ヶ月は京師の字母[br]
によって官話を習う、というのが南京簡字学堂の課程で、元来その協力者であった[br]
程一夔をその総理とし、次第に各地にも学堂を設けようというのであった。翌三十二年[br]
の秋に周馥が転任して端方がこれを承けたが、労乃宣はやはりその幕中にとどまり、この[br]
年は簡字叢録を編集して簡字についての研究や文献をまとめ、三十三年には簡[br]
字全譜を作り、京音簡字述略を刊行した。これらすべて簡字五種と称する。これ[br]
よりさき三十二年の二月、中外日報に反対論が現れ、こういった方法は中国方言の[wr]統[br]

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一[/wr]を妨げるもので、この際はぜひとも南をまげて北に従わせる方法を取らねばならぬと称した。[br]
そこで労乃宣も中外日報に書を送って、理想は必ずしも一遍に到達できな[br]
い。必ずまず土音の簡字を覚えた後で進んで官音を学ぶべきであり、これこそ南を引[br]
いて北に帰する方法であり、たとえ官音に進めずにただ土音の簡字だけを覚えたとしても[br]
人民にとっては莫大な利益ではないかと酬いた。一方王照はわざわざ南京に来て実施調[br]
査をしていささか反対の意を表し、まず土音を綴るのは官話を学ぶに害があること、[br]
また南人が南音の字母を覚えるのにニケ月はかからないことなどをあげて、他省のもの[br]
がその轍をふまないようにと警告した。しかし学堂の卒業生はますますその数を増し[br]
十三回にわたって証書を授けられたもの数百人にのぼり、卒業生はさらに人に授けたので江[br]
浙各地に相当ひろまったらしい。[br][brm]
ところが、三十三年十一月に労乃宣は朝廷からお召し電報を拝し、翌年四月都に入り[br]
頤和園で謁見仰せつけられ、その機会に簡字の用途を奏上し、簡字譜録を進呈し[br]
た。労乃宣はもっぱら憲政の準備にあたったわけであるが、その年皇帝皇太后が[wr]崩[br]

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御[/wr]され、翌宣統元年には摂政王に上書して当時問題となった漢字の最小限度教育[br]
(一千六百字)に先だって簡字を授け、これを地方自治公民の資格になるようにと述べた。[br]
しかし当時の学部は前述の如く漢字の問題について全く頬かむりの態度をとり、せっかく[br]
労乃宣の上書したことも学部では握りつぶそうとしたので、宣統二年には北京で趙炳麟[br]
汪栄宝とともに簡字研究会を設けて勢力を貯えた。その年資政院がひらかれて労[br]
乃宣もその議員に選ばれたが、議員の中には簡字のことについて熱心に主張するものがあり、[br]
中でも江謙などは学部の分年立憲籌備事宜清単のなかに「宣統八年以後教員[br]
検定には官話を加え、師範中学高小の試練にも官話を加える」ということについて質問を発し、[br]
また議員汪栄宝厳復など三十二人の連署によって「学部は教育普及国語統[br]
一の空念仏を唱えるだけで国語教育の消息にすら通じない。こんなことで全国最高[br]
教育機関を掌握するとは何事か」ときめつけた。また畿輔、江南、四川の各地学界[br]
および京官およそ四百人が連合して資政院に請願し、官話の簡字を頒布普及す[br]
ることを求めた。そこで資政院をも厳復が委員長として審査した結果、音標文字を定めること、[br]

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議長は学部とともに奏請し聖旨を乞うて速に施行すべしということが決議された。し[br]
かし学部はなおも引きのばしを考え、中央会議にまわしたが、この会議も会長張塞[br]
副会長張元済傅増湘の司会で宣統三年六月、統一国語辦法案が決議された。[br]
一方、労乃宣はその十月をもって京師大学堂総監督に任ぜられ、十一月には学部副大臣[br]
代理を兼ね、王労両氏多年の苦節がいよいよ報いられようとした途端、宣統帝の退[br]
位によって一切は瓦解してしまった。[br][brm]
といって民国政府の成立は以上の経過を完全に無視したものではなく、大きな方針とし[br]
てはやはりその線に沿うのであった。すなわち民国元年七月十日に北京の教育部が臨[br]
時教育会議をひらき、切音字母を採用する案を通過した。十二月にはこの案等に[br]
もとづいて読音統一会章程を制定公布し、まず籌備処に教育部に設け、呉敬[br]
恒を聘して主任とした。時の教育総長は蔡元培であった。そしてその会員として八十人[br]
の人物をえらんだが、その中には各省代表も二人づつ含まれていた。この会は民国二年一[br]
月十五日に正式開会され、呉敬恒が投票によって議長となり、王照が副議となった。[br]

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呉敬恒は字を稚暉といい、王照より五歳の年少、今も健在らしいから今年は数え[br]
年八十八になるはず、三十六のとき日本に留学したが孫文の革命同盟会に参加して追放[br]
され、帰国してから蔡元培と愛国学社を創立して革命青年を養成した。それがた[br]
め又も弾圧をうけて英国に亡命、パリに渡って張静江李石曾などと無政府主義[br]
運動に投じ、民国革命直後に帰国した。その後民国十年フランスでリオン[br]
中法大学を創立して副校長となり十六年にふたたび帰国した。ちょうどその十六年に胡適[br]
が上海東亜同文書院の招きによって中国近三百年の四人の思想家と題する講[br]
演を行っているが、その四人とは清朝の初期中期にわたった顧炎武、顔元、載震[br]
のほかにこの呉稚暉をあげたがこの四人とも特に中国のいわゆる理学に反対した人物としてあげられ[br]
たという。胡適はそこに、呉先生は年こそ六十三歳であるが、思想界では依然とし[br]
て先陣を承る若武者だといい、また近年の思想家として呉先生ほど徹底し[br]
た人はいないといっている。その説の目的とするところは中国思想の根本改造で、それにはいわゆ[br]
る洋八脱化の理学でもだめだし、国故整理といった工作も無用である。宋明の[br]

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理学が反対されるのは勿論のこと、清朝の漢学とて今さら何になろうか、国故などは[br]
便所へ投げこみ、乾燥無味な物質文明を鼓吹することだ。人間というものは脚が[br]
二本しかない代りに手を二本生やし、三斤二両の脳髄 頭全体が九斤半、脳髄はその三分の一だという と五[br]
千四十八本の脳筋 常州方言では物の多いことを五千四十八という とを持った動物で、人生とは舞台に[br]
あがって芝居をやることだから、せめて脚本でもうまく読まなければ登場したイミ[br]
がない・・・といった調子で冗談まじりにまくしたてる。当時中国では科学と玄学と[br]
の論争がさかんで張君勱氏は中国は精神文明、ヨーロッパは物質文明だといった[br]
に対しても「張先生は中国の精神文明をあがめ物質文明に反対しているが、その身[br]
につける布一枚、その布を縫う針一本すらベルリン製ロンドン製で、張先生だ[br]
って汽車にも乗るし汽船にも乗るだろう扇風器もかけるだろうし電灯もつけるだ[br]
ろう。もしベルリンやロンドンから抗議が来て物質文明に反対しながらこれを用いると[br]
は何ごとかといったら先生は何とお返事なさるか」といった調子で皮肉を浴びせている。[br]
ことにその態度として自分が国学に特別深いくせに、今の中国で必要なものは[wr]科[br]