講義名: 中国新文字の問題
時期: 昭和25年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
路』と『碼頭工人』とがあったが、いずれも拉丁化版を加え、識字班や伝習所があまねく成立しました。ウラジオストックだけでも三ヶ月一期の識字班が三十あまり、伝習所が三ヶ処、それに一ヶ月一期の講習班、六ヶ月一期の幹部訓練班および識字班卒業生の勉強にそなえた初級学校が多数できましたし、蘇聯国家出版部遠東分部の援助で各種科目の課本、文法、読物、宣伝パンフレットなど五十余種十万部が出版されました。一九三四年には伯力で『擁護新文字六日報』を創刊した(はじめ十日報)。
これだけの運動はもとより直ちに国内に影響を及ぼすわけで、一九三三年八月十二日の上海の中外出版公司から出た『国際毎日文選』第十二号に焦風が、エスペラント出版物La Nova Etapo(新階級)二号〔一九三二年八月〕に載った中国旅蘇討人蕭愛梅(蕭三)の「中国語書法之拉丁化」(La Alfabeta de I`Cina Revolucio)を転訳した文章をのせました。続いて、一九三三年十月には上海エスペラント協会で作られた『言語科学』の創刊号には焦風が「中国語書法拉丁化問題」と寄せて、この方法が必ず成功すべきことを予言しました 。たまたま翌一九三四年には当時の反動勢力がおぞましくも文言復興運動をおこしたに対し、
多数の識者がこれを徹底的に粉砕した、いわゆる文言白話大衆語論戦が行われたがこの論戦の最中六月二十四日の『中華日報』の動向に張庚の「大衆語的記録問題」が発表され、いわゆる方塊字は死んだ文字、文言の文字、封建の文字で、大衆の豊富活発な言語を記録できないということを宣言したが、これが一般に拉丁化新文字の存在を知らせた最も有力な発言であったといえる。更に七月十日の動向に葉籟士が寄せた「大衆語・土語・拉丁化」において、中国は五ないし七方言区に分けて方言区ごとに拉丁化して文盲を消滅すべきであると唱え、従来漢字が中国の文化を統一しており土語を音標で綴ったのでは統一ができなくなるという説に答えて、漢字は文言にしても白話にしてもその統一したのは執武器と揺鵝毛扇の人だけで大衆ではなかった、全国的に統一した大衆語と土語の音標綴りとは決して両立しないものではなく、土語の文字を提唱してこそ大衆語の成長を促進するのだ、といっています。その頃には上海のエスペランティストが既に蘇聯の同志を通じて拉丁化中国字の新資料を入手し、それは『言語科学』等によっていち早く紹介されるとともに『中華日報』の動向や『申報』の自由談にも転載されました。ここに拉丁化にとって
有力な援軍が出現した、というのはこの年〔一九三四〕八月三日魯迅が曹聚仁の質問に答えて『社会日報』に大衆語に対する意見を発表しました 。しかもそれは例によって痛烈なもので、「漢字と大衆とは両立しない、大衆語文を推行するには拉丁化より外はない、それには幾つかの方言区に分け、その区は更に小さい区にわけ、初めは純然たる方言を用い、それが進歩したら白話や西洋のことば、または語法をも採用せよ」と述べました。つづいて十六日に魯迅が「門外文談」十二節を書きあげ、『申報』の自由談に発表し、「特に拉丁化はなまけ者か低能以外、誰でも読み書きができ、しかも早く書ける」ことを指摘しました。そのほか魯迅が『申報』自由談にのせた『花辺文学』の一則「漢字和拉丁化」でも、「大衆語文は音節の数が文言や白話より多いから方塊字では書き切れない」といったほか、特に重要にして皮肉な言葉を放った、「漢字は古から伝えた宝物だ、しかしわれわれの先祖は漢字よりもっと古い、して見ればわれわれはもっと古くから伝えられた宝物だ、漢字のために我々を犠牲にする位ならわれわれのために漢字を犠牲にするだけだ、こんなことはまだ精神病になっていない人ならすぐに答えられる程分かり切っている!」と。一面には曽て注音符号や国語ローマ字を推進した[wr]黎
錦熙[/wr]〔『国語運動史綱』〕あたりが、拉丁化が国語統一を破壊するとか、拉丁化は外国人の余計なおせっかいだとかいう無理解な反対がありましたが、魯迅はその十月『新生週刊』双十節特刊に『中国語文的新生』を寄せて、わが国では大多数を根拠とする限り、これまで文字を持たぬに等しかったが、拉丁化が現われてはじめて問題を解く鍵が見つかった、冷笑家の賛成は成功した後に出る、うそだと思ったら白話文を提唱した当時を見たまえと解いております。さらに十二月には伯力の『擁護新文字六日報』に「関於新文字」を発表し、「物は比較しなければわからぬもので、音標文字を知らない中は象形文字のむつかしさがわからず、拉丁化新文字を見ない中は注音字母や国語ローマ字もやっぱり面倒であったこと、実用にならないこと、将来のない文字であることが気づかなかった、漢字は愚民政策の有力な道具であるから、それを除かぬ限り只だ死あるのみ、従来の音標文字がみな面倒だったのは、官話、四声を忘れきれぬ上に、学者が作ったものだから学者の気がまえが抜け切れなかったからで、拉丁化こそ労働大衆自身のものであり、唯一の活路である」と述べております。こうして拉丁化新文字はまずエスペランティストの紹介を経、ついで大衆語家の討論、特に魯迅の熱烈にして明快な賛同をえた結果、理論か
ら実践へと発展し、早くもその一九三四年八月中に中文拉丁化研究会が上海で作られ、十一月には「寧波話拉丁化草案」が『言語科学』で発表され、一面、満州上海両事変〔一九三一、一九三二〕以来の救亡の潮高鳴る間に大きな役わりをこの拉丁化新文字が演じ始めました。それは今こそ文盲を絶滅し教育を普及し民衆をして民族意識を自覚させる必要に迫られたというための絶好の工具として拉丁化が認められたからであります。
かくして上海を始め北平、天津、太原、開封、西安、重慶、昆明、漢口、長沙、南京、揚州、蘇州、無錫、寧波、貴州独山、広東菴岸、普寧、河南沁陽、盧氏、その他、曼谷(バンコック)、東京、巴黎、柏林などに新文字研究会、新文字推行社、新文字促進会などが相ついで成立し、その数、一九三七年日支事変勃発までに七十個以上に達しました。これらが漸く統一して全国的組織をもったのは陶行知の発起した中国新文学研究会〔一九三五年十二月〕であり、また広東区文字促進会〔一九三六年三月〕や閩南新文字協会〔一九三六年六月〕などの地方単位の団体もできましたし、自然その出版物も六十一種にのぼり、中でも「中国話写法拉丁化的理論原則方案」〔「写法拉丁化理論与批論」等 課本文盲用的〕などは二万冊以上も出たと申しますから全部ではおびただしい数に
のぼり、定期刊行物も『新文字月刊』、『我們的世界』、『中国語言月刊』、『火線上』、『語文月刊』以上上海、『〈北平〉新文字半月刊』、『拉丁化号外』、『改造』、『潮州話新文字』、『新世界報』、『開路報』以上北京、『活路』〔天津〕、『拉丁化半月刊』、『新文字週刊』〔太原〕、『四川新文字推行十日刊』〔重慶〕、『新文字半月刊』〔南寧〕、『西風』〔桂林〕、『光明』〔南京〕、『潮州話拉丁化十日刊』、『客話新文字半月刊』、『新潮州〈拉丁化半月報〉』、『活的道路』〔汕頭〕、『潮州話新文字半月刊』〔潮州〕、『新文字週刊』〔香港〕、『新文字月刊』、『新文字研究』〔広州〕、『咱們的話』、『語文週刊』〔慶門〕、『〈漢口〉新文字月刊』〔漢口〕、『新西安』『中華』〔西安〕、『新文字月刊』〔昆明〕、『紅色中華報拉丁化版』〔延安〕、『新文字線』、『大衆的呼声』、『認識』〔東京〕など三十六種の多きに達しております 。また四十数種の新聞雑誌が拉丁化を提唱したりその専号を出したりしましたし、六十七種の出版物が拉丁化の標題を用いており、一九三五年十二月に文化界六百八十八人の署名した「我們対於推行新文字的意見」などは極めて重要な文献であります。この際に意見を発表したときは茅盾〔『新文字月刊』第二期(『擁護新文字六日報』の「関於新文字」)〕、陶行知、郭沫若〔『留東新聞』第十二期「請大家学習新文字」・『潮州話新文語月刊』第二期「方言拉丁化的切要」〕、王了一、魯迅〔一九三五年十二月『毎週文学』にて「論新文字」を発表、四声のないことを弁護した。(GRは方塊字を主としたがSWは方言をうつす)〕、胡愈之等であり、特に魯迅は救亡情報の記者を病床に招いて極めて[wr]はっ
きり[/wr]と「漢字が滅びねば中国は必ず亡びる」と言い切ったと云います。何と強いことばではありませんか! ただし当時抗日運動救亡運動は禁止されていたため、これと関連をもつ拉丁化運動も公然と行われないことがあり、その教師が捕縛される等のことがあり、ことに一九三五年にこの文字の創始者である瞿秋白が上海の地下工作に加わるべく、紅軍の二万五千里の長征〔一九三四年十月末紅軍、戦術的撤退〕をよそにして、福建まで潜入したところを、長汀県で捕縛され、六月十八日に銃殺されたのは酸鼻の極みでありました。しかし上海でも学校や職工の夜学には新文字の小組や新文字班がおかれた所が多く、魯迅が一九三六年になくなった時もその葬式の聯には拉丁化も少なからずあったといわれ、郭沫若の聯にも「曠世名著推阿Q、畢生傑作尤拉化」と書かれてありました。北平でも一九三五年のいわゆる華北自治反対、即ち学生の抗日民族運動として有名な一二九事件以来、一度に新文字団体が二十余を加え、広西でも一九三六年に南寧の『民国日報』紙上に一ヶ月にわたる討論があってから非常に流行し、延安では一九三五年冬以来、農民新文字夜校を一百個所にわたって開き、また拉丁化幹部訓練班を教育部で持って、教師を農村、工場に派遣し、「続西行漫記」の著者Nym Wales〈ニム・ウェールズ〉によれば紅軍の兵士で新文字をよむものは少なくとも二万あり、個人の[wr]通
信[/wr]、ポスター、壁新聞ないし機関の公文までが新文字を用いるものが多く、各地の党政機関や軍隊の文化室、救亡室ではしきりに新文字を教え、延長県の魯迅師範では一切の課程を新文字で教えたので、文盲師範といわれたと申します。またフランスリヨンの華工子弟学校では、一九三六年に新文字課を増設し、シャムの曼谷の華僑学校でも潮州語の新文字を覚えた生徒が半数以上にのぼりました。これとともに方言の拉丁化が進み、上海、広州、潮州、厦門、寧波、四川、蘇州、湖北、無錫、広西、福州、客家、温州などの拉丁化方案が成立しています。
一九三六年魯迅がなくなった直後に上海中国新文字研究会、上海新文字研究会、上海新文字書店、我們的世界社などが連合して開く予定であった中国語文展覧会が租界当局によって禁止されたが、しかしこの運動はますます全国的に展開し、ことに一九三七年の八一三事変以後は租界当局によっても合法団体と認められ、上海出版の書籍は一九四〇年までに五十四種、創刊された定期刊行物の数二十三種、中でも『大衆報』や『中国語文』が著名でした。これに関する団体が六つ、講習班は一百五十以上、上海新文字研究協会の行った班だけ
でも五種三十九期におよび、学習した人の数は空前の多数にのぼりました。ことに目ざましかったのは難民収容所に対する働きかけで、最初ある収容所で実行したところ数ヶ月を経ずして三、四十個の収容所において新文字班が成立し、これに陳鶴琴氏が参加しました。陳氏は工部局華人教育処の処長で、兼ねて国際救済会難民教育組の主任でしたが、一九三八年一月収容所における拉丁化の効果を視察して大いに満足し、直ちにこれを拡大することに定め、自ら「北方話新文字民衆課本」等を編纂して熱心にこれを推行し、その経験を一九三八年三月訳報の『難民副刊』に「新文字与難民教育」として発表する一方、三万五千の難民を対象とする以上新文字でなければならないという決心でかためました。そのしごとは一九三七年十一月から一九三八年十一月にわたり、遂に収容所の経費の関係で難民を分散せしめましたのでそこで一旦終了しましたが、この大規模な実験は全国に伝わって、同志に対し大きな激励となりました。陳氏のほか、上海にはまだ陳望道、韋愨、陸高誼、周建人、呉志鶱、張宗麟、胡愈之、章漢夫、王任叔などがこの運動に協力しましたので、展覧会講演会教師の検定、養成ないし字母方案の改正などが行われております。[brm]
一九三八年三月ちょうど漢口に退いた国民政府が中央宣伝部を通して「中国字拉丁化の運動は純学術の立場から研究を加えました社会運動における一種の工具と認めることはさしつかえなし」と始めて正式に解禁され〔一九三八年漢口協商(関於新文字論)〕、漢口でも焦風、葉籟士等が『拉丁化研究半月刊』を出して国語ローマ字派の王玉川等と討論を試みたが、漢口、広州がともに陥落してからは中心が香港と重慶とそして延安に移りました。香港では広州の拉丁化同志を迎えて、一九三九年春から張一(鹿+吝)、馮裕芳たちが香港新文字学会を作り、香港大学の許地山、馬鑑などと協力して合法団体として出発しましたが、特に民国四年の教育総長で注音字母を起す張一(鹿+吝)は陳鶴琴の難民教育の刺激を受け、七十三歳の高齢を以って自ら青年と称し、熱心に資金を集めて運動し、国民参政会の主席参政員であった関係から、二度も参政会に拉丁化を提出しました。これには一種の反動もありましたが、許地山が香港の『大公報』に「中国文字的命運」という論文でこれを反駁しましたほか、講習会、講座、また中国文字拉丁化文献ほかの単行本、三種の定期刊行物を出し、また陳君葆はラジオを通じて英語による海外放送で拉丁化の宣伝を試みました。重慶でも一九三九年教育部で全国教育会議を召集したとき上海の中国語文教育学会からの提案