講義名: 中国新文字の問題
時期: 昭和25年
1 2 3 4 5
Back to viewer
倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
中国の文化は原則的に申しますと根本は極めて原始的構造でありまして、それが時勢に合わなくなると、その差し支えのある部分だけを改造するという形で彌縫をつづけます。もっとも原始的だと申しまして決して中国文化を侮ったわけではありません。原始的というのは自然のままですから、むりな人為の入らない一番根本的なものです。従って一番強靭だともいえますが、それがあまり長く動きませんと、時勢との間のずれが烈しくなります。ただ中国では社会の組織そのものが長いこと大きな変化なしに、ズルズルと伸びて来ましたので、自然社会の産物である文化も大きな反省なしにズルズルと伸びて来ましたので、やがて時勢との摩擦を生ずるわけですが、さて時勢と申しましても自分自身の中からそれを見出すことはなかなか困難で、たとえ自分自身に問題がありましても、外からの刺激でもないと、いつまでもこれを革めたりすることはできないものであります。中国がその古い殻をぬぐようになりましたのは云うまでもなく西洋人の刺激でした。最後にそれがはっきりと現れましたのはさき程の十七世紀のはじめ利瑪竇たちの影響で、このいわゆるジェスイット宣教師たちは自分自身が中国語を学ぶ便宜からローマ字で漢字の注音
を試み、特に金尼閣のごときは「西儒耳目資」という大きな蓄述を残し、ローマ字によって中国語の組織を示して中国人学者を驚嘆させておりますが、これはもとより漢字を改革することとは関係せず、ただ西洋人が中国語を学ぶための便宜から作ったローマ字にすぎません。その後清朝の中ごろになりまして宣教師が内地で布教することが禁ぜられましたので、一時まったく影をひそめましたが、やがて十九世紀になって阿片戦争〔一八四二〕に敗れた中国が、外国人のために開港を許しましたので、新にプロテスタントの宣教師が東方に派遣され、これが中国の民衆に接近したとき、最初に考えられたのが文字問題で、聖書を一応漢字で翻訳して見ましたが、大多数の民衆は漢字を了解せず、漢字の読める士大夫たちはなかなか食いつかぬ、ということでいわゆる教会ローマ字がいろいろの人の手で考案され、自然それが各地の方言に基礎をおいているために、各方言による聖書の翻訳が極めて多く作られましたし、こうした宣教師たちのほか西洋の外交官たちが中国語の勉強をするためにローマ字標音が考えられ、有名なウェード式をはじめ、これは英佛独露それぞれの式がきめられました。日本ではウェード式が主として行われましたが、一方伊澤修二先生のように日本
の假名を用いて北京音の音標にしたいという企画をされた人もありました。しかしこれらは要するに外国人がその中国における事業の便宜のために考えたもので、中国人自身が漢字の缺陥を自覚したことにはなりません。しかし次ぎに申します中国人自身が漢字の缺点を自覚してそれに対処する企画を致しましたのも、実はこうした外国人の試みや外国の事情に刺激された結果で、これと彼とは全然別物ということはできないのであります。
中国人がこの運動に着手しましたのは、福建の人、盧戇章が最初だといわれていますが、元来福建は広東に次いで西洋人の集ったところであって、いわゆる教会羅馬字も早く浸透しておりました上に、この人は新加坡に参りまして英語を学び、それから厦門にもどって英国の宣教師の手助けをして『華英字典』の翻訳係をしておりまして、特に教会ローマ字との接触があったわけですが、教会ローマ字が一音節の綴り方がまちまちで、概して長すぎるところを改良しようと考えて、五十五の記号による「天下第一快切音新字」というものを作り、厦門音のほか漳州、泉州、汕頭、福州などにも適用できるように工夫しました。無論その主旨は漢字が繁雑であって人民がこれを学ぶことは容易でないということから、言文一致と筆画簡易という[wr]ニ
大[/wr]方針のもとに男女老幼がすべて学問を好之道理を知るための道具にしようというので、即ち当時のいわゆる洋務運動にマッチしたものであります。洋務運動とは外国人の技術を学んで、結局は外国人と対抗することを提唱したもので、それには漢字を学ぶために費やすおびただしい時間を節約して数字や物理化学その他の実用に役立つ学問にふりむけることが大切だということになります。ただしそれが福建の一隅でやられたしごとでありますから、その土地ではかなり流行したらしいのですが、当時の北京政府まで伝わることは容易でなく、やっとこれを紹介する人がありましたその年が例の戊戌改変〔一八九八〕で、洋務運動のために絶好の機会であった康有為、梁啓超が失脚してしまい、頑冥保守的な一派が西太后を擁していわゆる新政を顛覆しました上に、つづいて例の庚子〔一九〇〇〕の北清事変が勃発して、朝廷としてはローマ字どころの騒ぎでなくなり、遂に実施の機を逸しました。尤もこれに少しおくれて蔡錫勇、沈学、力捷三、王炳耀などの志を同じうする人たちが現れて、それぞれ新しい字体を作り出し、ことに蔡錫勇の「伝音快字」は、アメリカで議会の討論が直ちに速記録となって印刷されることを目撃して、中国文字の速記術を考えたもので、その術を伝えた子どもの蔡璋が清朝末期の資政院から民国の[wr]国
会[/wr]に至るまで専らその速記を指揮担任することになった。ただしその記号はまったく速記式であったためにその他乃至一般には影響が少なかった。この一類の運動で一般に最も影響したのは王照の「官話字母」であったが、この王照こそは先に述べた康有為、梁啓超とともに新政に参与し、そして同時に失脚した人で、直ちに日本に亡命し主として東京に滞在していましたが、その間に日本人は誰でも新聞雑誌をよんでいることに刺激され、中国の文盲たちにもこうした假名文字を作って与えたいと考え、ひそかに天津にもどってから「官話字母」を考案しました。これはその刺激が日本の假名にあり、日本の片假名そのものが漢字の偏旁をとって作られたものであるだけに、王照の字母も漢字の偏旁をとって専ら北京語を写すために必要な六十二の記号から成り立ち、必ずその組み合わせは二個以内ということにして、これでこそ一般に普及できると信じたが、果たしてその字母は十三省にわたって流行したほどの勢力をえ、却って王照その人はしばしば誤解を蒙った程であるが、ともかくその功績は最も著名であった。ただしその主張は飽くまで北京語で押しとおすことと、読書人は従来の漢字でよいが一般民衆には字母でよませるといった、いわば一種階級主義であったこととは今日から見れば批判の種となるのであります。これに対し各方言を
も写す方法を工夫したのは労乃宣の簡字で、方法は全く王照のとおりで、ただこれを各方言に適用するように工夫しただけであるが、特に江南地方では地方大官の後援のもとに簡字学堂が作られて相当普及した。ただし王照はこれに満たず、自分でわざわざ南京に来て実地調査までしているところ、いかにも利かぬ気の男であります。しかしこの二人の事業が次第に認められ、遂に資政院において音標文字を定めよという議案が可決された途端に清朝が瓦解して、二人のしごとは全く漂没されてしまいました。今ではせっかくあれだけ普及した官話字母なども覚えている人はほとんどなく、曽ては数万部も印刷したといわれる官話字母の教本も今日では非常に得がたいものになっております。
さて民国になりますと、御承知の読音統一会が招集され、呉稚暉が会長、王照が副会長で烈しい討論が行われ、結局、今の注音符号の前身、注音字母が作られましたが、これは明きらかに漢字を普及するために注音を加えることで、その当然の結果として漢字の横に注音符号のルビを加えた注音漢字が作られ、今日の小学校の教科書は国語はもとより歴史、地理、理科すべてがこの活字で印刷されているということです。ただしこれは飽くまで古書をよむための注音であって
そのため最初から読音統一会と称されていまして、王照などは最初から反対で、読音統一会のはじめに吴稚喗が登壇して読書注音ということを述べたが一言も口語教育のことに触れてない、というので憤慨して、王照自身が登壇して新字母は白話を綴るのが大切だと力説したが、会員一同更に感動の色もない、これというのも自分の説が会の名と合わないから余計な議論と認められたからだろうと云っております。ともかく注音符号が定められたことは漢字教育について画期的なことで、その意義も十分に認めてよいことであるが、元来の漢字に対する反省や攻撃はむしろこの処置によって緩和され回避された形になりました。従って各種の新字母を作る案もまったく影をひそめたのみか、外国人の宣教師の教会ローマ字すらすっかり押されてしまって、一向に伸びず、むしろ注音符号入りの聖書や注音符号だけの聖書が次次に作られるような始末でした。
尤もローマ字を用いて中国語を現わす案がなかったわけではなく〔一九二二年公布の「注音字母書法体式」の中にローマ字を注音字母の別体とした(GR以前)〕、ことに中国人が世界共通の字母たるローマ字を使うことの便宜が一方で主張されました結果、一九二三年以来国語羅馬字拼音研究委員会ができて、半ば私の会合である数人会 の案をもとにして一九二八年に公布されまし
た。これは最初に銭玄同氏によって考えられた程の強い色彩がなく、ちょうどその頃直接に銭玄同氏にお伺いしたところでは、中国は遠いさきには音標になる筈であるが、今のところは漢字の注音として注音符号を使って間に合わせる、ただ注音符号は簡便をたっとぶあまり音理に合わなかったりまた外国語をとりいれるのに不便だから、やや高級むきに国語羅馬字を作ったのだと申されました。自然、それが国音字母の第一式である注音符号に対して第二式としての地位しか与えられず、注音符号は初級小学で適用されたが国語羅馬字は高等小学でこれも併用するという程度であり、ことにその綴りかたが学者の机上の方策に近くてかなり繁雑であったため遂にどれほどの効果もあげられなかったのであります 。
この国語羅馬字が公布されましたのが一九二八年でありますが、ところがこの間に早くも拉丁化新文字は胎動しておりました 。即ちさきに申しました瞿秋白 〔一八九八―一九三五〕が中国拉丁化字母を作りあげましたのが一九二九年であったのであります。瞿秋白がなぜそんなことに立ち入ったかと申しますと、この人は新聞記者として民国十年〔一九二一〕 に蘇聯にまいりましたが、ちょうどその前年から蘇聯では文盲を絶滅するための大きな運動を展開しておりました。元来蘇聯は民族が非常に多く、
言語文字は複雑をきわめ、全国で一八〇種の民族が一五〇の言語を使用している上にコーカサスあたりの百種ほどの民族はただ木に印しをして覚えにするといった程度の文化でしたので、そうした民族のために垃丁字母即ちローマ字綴りで各地の方言を写す新文字を作りましたところ、それが簡単でしかも合理的だということで非常な成績をあげております。瞿秋白はちょうどその際に蘇聯に居りまして、その運動から強い刺激を受け、中国語を垃丁字母で綴るにはどうしたらよいかということを考え、その準備も致しました。ところがやがて、一九二四年国内で例の国民党と中国共産党との合作が成立しましたので、国に帰って国民党第一次中央候補執行委員となり一九二七年 には陳独秀に代って中国共産党総書記になりましたが、一九二七年の蒋介石による四一二クーデターの結果、外は弾圧が烈しくなり遂に一九二九年ふたたび蘇聯に入り、中共の駐蘇代表として活動するかたわら、ふたたび呉玉章等と新文字問題を研究し、その結果がかの一九二九年に書いた中国拉丁化字母であります。その年に蘇聯領内で拉丁化新文字によって文盲から免れた人の数は百五十二万といわれているが、それには蘇聯で労働する中国の労働者およそ十万人(その七割はシベリア東部に居た)もその対象となりました。たまたま瞿秋白は一九三〇年に
帰国して李立三とともに中国共産党を指導したが、その書き残した『中国拉丁化字母』がなお蘇聯在留中の呉玉章、林伯渠、蕭三、王湘宝などの中共党員によってひきつづき研究され、十万の中国労働者の識字教育に適応するためこの人たちが『拉丁化新字母法案』の起草者となり、さらにロシアの言語学者ドラゴノフ教授の協力のもとに討論をかさね、遂に瞿秋白の中国拉丁化字母に若干の改正を加えて正式に拉丁化中国字の方案を制定しました。かくしてその年〔一九三一〕九月二十六日にウラジオストックで開かれた中国新文字第一次代表大会には蘇聯各地の華僑代表と中国の労働者とがおよそ二千余人参加して、数日討論の上、「中国新文字」の方案、写法、原則を議定し、また一九三二年中には「拉丁化新文字」によって完全に遠東の中国労働者の文盲を絶滅させるという決議案を採択し、大会の代表たちは一致して文化建設のための突撃隊員となり、中国文字革命また世界文化革命のために奮闘しようと申合せました。それから後は新字母地方委員会の指導のもとにウラジオストックと伯力(ババロフスク)とが中心となり実際の工作にあたり、一九三二年にはウラジオストックで第二回の中国新文字代表大会が開かれ、新文字の出版と教学の問題が討議された。当時蘇聯には漢字による労働者の新聞として『工人之