講義名: 中国における言語文字問題
時期: 昭和26年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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見て始めて言文一致を提唱するには自分から模範を示さねばならないことを悟って、会[br]
員たちは老いも若きも競って白話文の練習を始めた。それは文学革命の側もそう[br]
であって文学革命によって古文を追放すべしと巨弾を放った人たちの文章はすべて古文で書[br]
かれていて文芸作品もまだ白話は少なかったほどである。ところが翌一九一八年には国[br]
語研究会の会員も千五百人に達し、文学革命家たちも胡適の建設的文学革[br]
命論が出て、国語的文学、文学的国語という標語を掲げて両者が次第に接近し[br]
た。これよりさき上海に居た呉敬恒はせっかく統一会で作った字典の原稿が久しく放置され[br]
ているのを歎いて、独力でこれを審訂して、元来の六千五百余の文字をはじめすべて[br]
一万三千余字を康煕字典によって排列をつくり、これを携えて北京に出た。すると[br]
もとの会員陳懋治が王璞馬裕藻および銭玄同、黎錦煕をその宅に招[br]
いて二晩がかりで全原稿を決定し、これを商務印書館に渡して至急印刷させると[br]
ともに、呉氏は陳懋治とともに教育部当局と会談し、たった一晩の話しあいで忽ち[br]
注音字母の正式公布の運びになった。それが民国七年十一月二十三日のことで、[wr]教[br]

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育総長傅増祥[/wr]が署名している。こうして久しく放置された注音字母が政府に[br]
よって公布されるとともにさきの統一会の後を承けて十二月に国語統一籌備会[br]
の規程が公布され、翌一九一九年の四月二十一日にはそれが正式に成立し、会長は張[br]
一●、副会長は袁希濤、呉敬恒ときまった。当時北京大学は文字革命派の[br]
拠点であったがその校長蔡元培が同時に国語研究会の会長であったことはこの[br]
二大運動の合作のために非常に好都合であったとともに、古文の大家林紓や武人政治家[br]
の中にはこれを喜ばぬものがあり、ために統一籌備会が行政方面を担当することになっ[br]
たといわれる。因みに商務印書館ではこの年の八月にかの国音字典を出版したが相当実用に疏い点があって、一九二〇年にふたたび改定出版した、これが校改国音字典である。[br]
籌備会が発足して一ヶ月に満たぬ頃、第一次世界大戦のパリ講和会議における[br]
中国外交の失敗に伴い、五四運動の大波瀾が起こり、それが文芸や思想の方面ま[br]
で大きな影響を及ぼし、白話の小新聞が突然にも四百余種も作られたのみか、日刊新[br]
聞の文芸欄も従来の旧式詩文や俳優芸妓の消息をやめて新文芸や国語の訳[br]
著をのせるという状態で、上海時事新報の学灯、民国日報の覚悟、北京晨報[br]

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の副刊なども次第に改良され、この勢に乗じて教育界の国文を国語に改めるという[br]
要求が、遂に千余年来の科挙の余威を圧倒して、行政機関も猶予することな[br]
くこれを実施するに至った。こうして国語研究会はその使令を終わるとともに有名無[br]
実になってきたが、そもそも注音字母がこれだけ公布がおくれたというのもいろいろ理由があ[br]
って、(一)固有の漢字に害をあたえる(二)これを単用すれば必ず文体の変更をおこす(三)[br]
これで注音をしても統一が保障できない(四)子どもがそのために負担を加える、という理由の[br]
ほか注音字母のできが悪いという評さえあった。しかし遂に時勢の力がこれを制圧したわけで[br]
ある。考えようによれば清朝末年までの事情が民国元年から七年までもう一度演出さ[br]
れたようなもので、さすがに事情が動いてきたため約七年間で一応の結末を見たわけであ[br]
る。[br][brm]
籌備会のしごととしては注音字母の整理など細かい問題もあるが、特に大切なことはい[br]
わゆる京国問題であった。それは元来の注音字母が統一会の表決によっただけに一定[br]
の標準がなく、いわばいろいろな妥協を含んでいたことから発した。つまりその注音の[wr]標[br]

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準[/wr]が人為的であって、どこの音に拠るというきまりがなかった。いわば大部分は北方的であるに[br]
しても入声のような揚子江下流地方のよみ方が加わっているといったことで批難の声をあげ[br]
たのが南京高等師範の英文科主任教授張士一で、一九二〇年に国語統一問題を著して[br]
注音字母から国音そのものにまで根本改造を要求し、特に標準語の定義を学理的に[br]
きめるべきで少なくとも中等教育を受けた北京人のことばを国語の標準と見なければならな[br]
い、ということを主張した。それは学理としてはまことに結構なことであるが、行政的にはま[br]
ことに困難であった。なぜならばせっかく三十年の苦心でいろんな反対を納得させてやっ[br]
とここまで漕ぎつけた注音字母を根本から動揺させることであり、特に国音というこ[br]
とでやっと我慢した人たちが京音だとなったら又々反対するおそれが十分にある。しかし[br]
理論としては筋が通っているので、この年八月上海で開かれた第六回全国教育会聯[br]
合会でもまた常州で開かれた江蘇全省師範附属小学聯合会でもこれに響応[br]
した決議が行われた。そのため籌備会でも捨ておけず、遂に十二月黎錦煕が呉敬恒陸[br]
衣言范祥善などと一所に南京へ出かけて、張士一、顧実、周銘三、陸殿揚などとこの[br]

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問題について討議したが、京音論者の鉾さき鋭く、遂に何の効果も見なかった。当[br]
時籌備会例としては二種の代案を用意した。(一)は根本改造のためには漢字に代わる音標文字を作る。それは国際音標に本[br]
づいた字母をきめそれは純北京語を標準とする(二)は注音字母はあまり精密に考[br]
えず、国音と京音といっても百分の五ぐらいの差にすぎないから、その点で妥協して、ただ声[br]
調だけを純北京風に統一して国音京調ということにしよう、という。しかし南京側は(一)につ[br]
いては先のことだ何ともいえないといい(二)についてはごまかしだといって遂に物分れになったのである。元来国音[br]
字典ではただ平上去入というだけで実際どこの声調に拠るかということは指定されていなかっ[br]
た。そのため陰平は天津音、陽平、上、去は北京音、入声は江北音といった方法を[br]
主張するものもあり、陰陽上去は北京で入は北京の去を短くする人もあったが、黎錦[br]
煕は依然として国音京調をとなえ、別に入声を廃止する案も唱えられ、更にそれならば[br]
いっそ国音が京音と違うところもやはり京音にしてしまったらどうか、音も少ないし字母も[br]
減らせるということで、遂に一九二三年の籌備会の第五回の大会でそれが決定し、国音字[br]
典に修正を加えることになった。[br][brm]

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一九二三年になって曹錕が大総統に当選したが、教育部は経費節減のために籌備会もわずかに書記数人をのこ[br]
すという状態に陥り、翌年南では斉燮元と盧永祥が江蘇と浙江とに拠って戦いを交え(盧軍敗る)、[br]
北では奉張   直呉   戦争に乗じて馮玉祥が北京に入ってクーデターを行い、呉佩字が逃げ曹錕は[br]
捕われ、今まで宮中に居た宣統帝が亡命するという騒ぎとなり、ふたたび反動政治家が抬[br]
頭し、ことに章士釗が司法総長に任ぜられたことは革新派にとって大きな脅威であった。[br]
章士釗は曾て短いあいだ北京大学校長になってもおり第二革命の後、甲寅 一九一四 雑誌を発行してい[br]
たので老虎として畏れられた人物で、桐城派の古文を守って文学革命家を蛇蝎のように[br]
嫌っていた。しかも遂に一九二五年四月十五日には教育総長を兼ねたため特に危険視[br]
されたが、幸に十一月末には政変によって退職した。しかし政局反動の状況はさらに改善されない。[br]
一九二六年三月十八日には国民軍が学生団に発砲するという惨事がおこり、加ふるに[br]
直魯奉の聯合軍が北京に迫り、直隷 呉 、奉天 張 の合作となり、全国にわたり白[br]
話を禁じ経書をよませるなど反動いよいよ烈しく、一九二七年六月劉哲が教育総長[br]
に就任してからというものは籌備会はまったく名義だけとなり経費は全然削除され[br]

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た。ただこの間にも蒋介石の北伐軍が遂に北京に達し一九二八年六月六日青天白日旗[br]
がこの古城にもひるがえった。[br][brm]
これよりさき一九二二年に公布された注音字母書法体式の中にローマ字をば注音字母の[br]
別体としてあげてあるが、その翌一九二三年の第五次籌備会の大会で銭玄同から国語[br]
羅馬字委員会を設ける旨の提案があり、一応通過したが、ちょうど反動時代に入っ[br]
たところで正式に進行できず、たまたまその委員十一人の中七人だけが北京に居り、そのまた五[br]
人――劉復、趙元任、銭玄同、黎錦煕、汪怡が最初に一九二五年九月数人会[br]
と称して会合した。数人というのは陸法言の切韻序に見えることばで、その頃数人の[br]
学者が陸法言の家に集まったときその討論の結果を書きとめることになり、会中の一人[br]
が法言に向かって我輩数人、定則定矣といったという故事があるにはあるが、定めれ[br]
ば定まるという程の意味ではなかったという。しかし音韻学者の懇談会に「数人」と[br]
いうことばを用いた以上にはこれが出典だといっても差支ない。ただこの機会に国語羅馬字[br]
の相談をするということであったが、これはなかなかの問題で、前後すべて二十二回にわたり[wr]一九[br]

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二六年九月[/wr]まで満一年を費して九回原稿を改めて、国語羅馬字拼音法式と名づけて[br]
籌備会に提出した。そこで籌備会は正式に委員会をひらいて決議し、教育部から[br]
公布するよう申請したが総長の署名が行われないので、遂に籌備会から十一月九日に[br]
布告を出して注音字母と並べて国語羅馬字拼音方式を標準とすることを一般に知[br]
らしめた。そこで国語羅馬字の読み物も、たとえば黎錦煕の国語模範読本首冊[br]
 一九二六年十二月編 一九二八年二月出版 、趙元任の最後五分鐘 一九二七年七月改課 一九三〇年四月出版 などが出版されて[br]
いるし、そのための宣伝として一九二七年二月の新生週刊は国語羅馬字運動特刊が[br]
出ている。一方、第五回大会の決定事項として国音字典増修委員会が開かれ、美し[br]
い 漂亮 北京語の発音を標準にして増修のしごとを進め、更にこれを本にして筆画順の増修国[br]
音字典のほか、字母の順、すなわち発音順の国音常用字彙を作ることを擬定した。[br]
これはすべて蟄伏時代のしごとであった。[br][brm]
さて一九二八年に革命軍が北京を占領してまもなく、その七月大学院からの電報によって銭玄同と[br]
黎錦煕とが国語統一の籌備員に選ばれたので、趙元任、汪怡、陳懋治と相談して[br]

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国語統一会の計画書を提出する一方、国語羅馬字を公布するよう申請した。かく[br]
て九月二十六日正式に大学院から布告してこれを国音字母の第二式とすることにした。大[br]
学院の院長は蔡元培であった。国音字母の第一式とは注音字母であるが、それも一九三〇[br]
年四月二十九日に注音符号と名を改めた。[br][brm]
私が北京に到着したのはちょうど北伐完成の直前であり、自然これらの動きが行われ[br]
ている頃は大抵北京に居た。そして銭玄同、黎錦煕をはじめその関係の人たちにも会[br]
っているが、少なくとも銭氏の考えでは、中国は遠いさきには音標になる筈であるが―― 一[br]
千年也可以――今のところは漢字の注音として注音符号を使って間に合わせる。ただ[br]
この符号は簡便を尚ぶあまり音理に合わなかったり、又外国語を取りいれるのに不便[br]
であるから、やや高級むきに国語羅馬字を作ったのであるという。自然それは国音字[br]
母としても第二式の地位しか与えられず、教育上も注音符号は初級小学で適用され[br]
ているが、国語羅馬字は高級小学で併用するという程度であったし、その綴り方も[br]
音韻学者が心血を注いだだけに一応精密で、一切の記号を用いず綴りだけで声調ま[br]

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でも表現しようとするのであったが、一般の使用には繁雑にすぎてあまり歓迎されなか[br]
ったことは事実である。しかもそうした取りあつかいにも拘らず一面では漢字を打倒して羅[br]
馬字をこれに代えたいという希望は相当に根強く、これがやがて拉丁化新文字としての新しい運[br]
動に結集して行ったのである。[br][brm]
なお国語統一籌備委員会とともに活発化した中国大辞典編纂処は先ず国音常[br]
用字彙を編集して第一次上海事変の難関を突破して一九三二年に出版され、つづいて国[br]
語辞典第一冊が出版された途端に一九三七年盧溝橋事件が突発して中止され、[br]
漸く一九四五年終戦の直前に全部の原稿が出版された。また教育の[br]
方面としては注音漢字が早く提唱されていたが、戦後は小学校のあらゆる教科書は(国語のみならず)す[br]
べて注音漢字を用いることに改められたのも、日本でルビ廃止の現状に比して極めておもし[br]
ろい対照をなしているといわねばならない。[br][brm]
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