講義名: 中国における言語文字問題
時期: 昭和26年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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学[/wr]であり、国学には黴菌がたくさんあると考えた以上、国学にだって相当な価値があ[br]
ることを知りつつもこれを仇敵のように排撃するし、他人ならば漢字が新時代にむ[br]
かないことを知っても、自分がそのために数十年を費した骨折りが惜しさに良心にそ[br]
むいてもこれを擁護しよって自分の地位をも保持したいと思うところを、呉氏はそ[br]
んな連中よりずっと旧学に達していながらいち早く漢文を廃止して音標文字[br]
を主張している。また自分には極めて質素であるが他人のために働くことは少しも[br]
厭わない。民国の初年に学年百人あまりを引率してヨーロッパへ行った時も西瓜[br]
の種や果実の皮の散乱する甲板の掃除は自分がやってのける。またその舟で珍しい掲示を[br]
出した「汚れたパンツ一着、拾って洗濯しておきましたから心あたりの方はお持ちくだ[br]
さい」といった調子である。孫文の葬式のとき汗ダクになってたくさんのビラを路々[br]
配って歩く老人を誰かと思えば呉先生であったというし、暁荘の新しい教育の学[br]
校を参観したとき、来賓として若いものと一所にマラソン競争に出たのも呉先生[br]
であった。ところがこの呉敬恒議長に配する王照副議長――出席者四十四名[br]

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で選挙して呉氏二十九票、王照五票であった――は呉先生とは氷炭相容れなかった。[br]
はじめ王照が摂政王を避けて南京に居たが、会員に選ばれたので北京に帰ったとこ[br]
ろ、この会が教育部の専門司の所管だときいてまず怪んだ。音標文字を行[br]
うのは白話教育を普及するためで、当然社会教育司に属すべきものであ[br]
る。それが専門司に入ったのでは音韵学になってしまい、主旨が抹殺されるといって[br]
慨歎した。そして天津で厳修にあったときも会の名を問題にしたところ厳修[br]
もこれは読書の音注ということを看板にしたのだから、われわれが倡道してきたこ[br]
ととはまるで別だ。君が会に出ても効果は知るべしだといった。また王照は呉[br]
氏の書いた読音統一会進行程序を見て、即座に筆をとって玄虚荒謬[br]
と書きつけたという。この調子だから会議は思いやられる。[br][brm]
さていよいよ会議が始まるとまず呉敬恒が立って演説したが、読書注音と[br]
いう題目をかかげたきりで、白話教育のことには一言もふれなかった。それを王照[br]
は批評して滔々数万言、ことごとく的はずれだといっている。呉敬恒の演説が[br]

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終わると今度は王照が立って[br][brm]
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   五[br]
はじめ読音統一会において漢字の読音を決定したときは、その方針として清の李光地の[br]
音韻闡微の中から同音字を拾い出し、その中でも比較的常用なものを選んでプリント[br]
にし、これに会で用意しておいた暫定的な記音字母を各省ごとに加えさせ、各省一票という表決権で多[br]
数によりその読音を決定し、一応六千五百余字の音を決定した。尤も音韻闡微は[br]
十 世紀の編であるから新しい学術語のための文字がないことはもとより、当時の習慣と[br]
して俗字を加えることもできなかったので、このたび闡微以外の文字も六百余字を加えた。[br]
さていよいよ正式の字母をきめる段になって又も騒動がおこったが、およそ三種の提案が現[br]
れた。その一つは偏旁派であって、日本の片仮名の先例により音の近い漢字の偏旁を[br]
取って作ったもので、かの王照を始め汪栄宝、汪怡、蔡璋などがそれぞれ自分の工夫し[br]
たものを主張した。その二は符号派であって、自分で任意な符号をきめるもの、呉敬恒を[br]
始めとして馬体乾、李良材、邢島、王隺、胡両人、楊麹、高鯤南、盧戇章、陳[br]
遂意、鄭藻裳などであり、その三は羅馬字派でかの呉敬恒や邢島はローマ字を変通さ[br]

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せるだけであったが、楊曾誥は純ローマ字を主張し、また劉継善はローマ字と義符と[br]
を組み合わせようと主張した。これは黎錦煕の分類によったのであるが、呉敬恒の表現で[br]
は西洋字母もあり偏旁もあり図画もありでありとあらゆる品物がでそろって[br]
しかもそれぞれが工夫を凝らしていた。経典に本づくもの韵学によるもの万国発音学によ[br]
るもの、科学によるものなどで、いわば人々が蒼頡となり佉盧とならんことを期し、それ[br]
はすべて音標文字を目標としたのでそのどれを採りあげることもできない状態であったという。[br]
こうして非常な難航をしていたときに、馬裕藻、朱希祖、許寿裳、銭稲孫および[br]
周樹人の提議によって最初の字母を審定するときに暫定的に使用しておいた記[br]
音字母が正式に通過した。この主張は前のいわゆる三派のどれにも入らないもので、漢字の[br]
最も簡単な形を取ってそのまま字母にすることで、呉氏のいう縮写というものがあるい[br]
はそれかも知れないのである。そしてその方法を最初に考えたのは章炳麟であった。はじめ章氏は[br]
清朝に対する革命の志を抱いていたために追放されて日本に走り民報を編集して[br]
革命の鼓吹をするとともに中国の留学生を自宅にあつめて説文の講義をしてきか[br]

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せた国粋主義の総師であった。たまたま呉敬恒は欧化した思想で無政府主義を[br]
唱えたためこれも遠くパリに走って新世紀を編集していた。その新世紀が日本東京にも[br]
送られ章炳麟がこれを見たとき、たまたま中国用万国新語説という投書論文を発見して、て[br]
っきりそれは呉氏が書いたものと考え、直ちに筆をとって駁中国用万国新語説を書[br]
いて民報にのせた。それには言語は風土によって違うもので、万国新語は欧州を標準とした[br]
だけで、欧州以外の国のことばは少しも参考していない。ことに中国語が象形文字になっ[br]
たのはすべて一音で成立しているため音が同じで意義の違うものが多く、音標文字では[br]
表しきれない。漢字の音を知るには反切というものがあるが子どもには分かりにくいから、そ[br]
の字の横に書けるようなものを作らねばならない。それを従来作った人もあるが、みな音[br]
韵学の素養に乏しくまた一地方の音に拘泥して十数個乃至三十ぐらいしか符号を作ら[br]
ないのが欠点である。また中にはこれさえあれば漢字はやめてもよいというが、それでは同音で訓[br]
の違うものを区別する道がない。切音は本字の側に書きつけておくもので、本字を廃し[br]
ようというのではない。この符号はいろいろあるから単なる記号では区別しきれないし、[wr]今[br]

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隷[/wr]では本字に紛れやすいから、古文篆籀の形を省いたもので紐三十六韻二十二を作った[br]
といってその形をあげている。実は新世紀の投書は呉氏の筆ではなく、呉氏自身の意見もほぼ[br]
同様で、呉氏が章氏に対する駁論もあるが決して遠く違っていたわけではない。従って[br]
呉氏が主宰した読音統一会であらかじめ準備しておいた暫定的記号字母が章[br]
氏の考えたものとよく似ていたことも了解できるし、会でこれを以て正式字母にすべしという[br]
ことを提議した人たちが揃いも揃って章氏が東京で説文を教えた門弟たちであったと[br]
いうことも思いあわせて、最初からいわば章派の勢力が隠然として存していたことが想像される。[br]
尤も章氏の字母がそのまま用いられたのではなく、たとえば今の注音符号のㄉㄊㄋㄌ[br]
が章氏ではㄉ土ㄋ了であったという位の関係である。[br][brm]
こうして極めて困難であった国音統一会も王璞臨時主席のもとに予定の三ヶ月を一[br]
週間延期しただけで一応閉会にこぎつけたが、その際に決議されたことは国音字母伝習[br]
所を設けること、初等小学の国文科を国語に改めるか又は国語科を増設すること、[br]
会できめた読音の字書ができたら小学校の教科書には全部漢字の横にそれ[br]

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でルビを振ること、その他一切の公文布達などもルビつきにすること、などであった。[br]
こうした進歩的な動きにも拘らず政局はまた逆転して、孫文に代った袁世凱がふたたび反[br]
動政治を行ったため、忽ち一九一三年七月には第二次革命が蜂起したが、忽ち失敗して孫[br]
文および黄興が日本に亡命した。という状態であるから教育部も勿論首脳部が更迭[br]
し、せっかくの改革案がまったく文書科の棚に押しこめられて鼠の巣になっていた。青島の戦[br]
もすんで一九一五年には王璞等有志の読音統一期成会から二回にわたる請願を行う[br]
とともに注音字母伝習所を設けたところ、時の教育総長張一●が私財を割い[br]
て援助してくれ、やや復活の兆候が見えた。しかし袁世凱の帝政問題がいよいよ喧しく[br]
なり政府としては到底かまってくれない状態で、ただ王璞がその師王照の運動を学んでほ[br]
そぼそ継続したにすぎなかった。[br][brm]
たまたま一九一六年六月洪憲皇帝袁世凱が病死して、帝政問題が崩れるとともに、[br]
ふたたび改革の機運が芽生え、せっかく誕生した共和制がすぐ帝政などによって動揺する[br]
のはやはり民智がまだ発達していないからであり、その発達のためにはその根本に教育そして更にその[br]

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根本に文字問題が横たわっている、ということで有志の人たちがそれぞれ新聞雑誌に論文を発表して言[br]
文一致と国語統一とを主張した。しかもこの運動について最も強く反対したのが何と、曾て日[br]
清戦争前 一八九三 から西洋文学の紹介者として著名な林紓と、経学者して有名な[br]
胡玉縉で、この両先生が彭清鵬黎錦煕などと北京日報で往復弁論した文[br]
章が十数篇に上がったという。しかしこれがむしろ原因となって地方からも賛成が続々とお[br]
こり、各省から数人の代表がえらばれて国語研究会を組織したのがその年十月のことで[br]
あった。その翌一九一七年の大会で蔡元培と張一●とが正副会長に選ばれ会の方針が[br]
きまった。たまたまこの年がかの文革革命と称せられる運動のおこった年で、胡適がアメリ[br]
カ留学中に送ってよこした文学改良芻議が北京大学の新青年にのせられ、つづいて陳[br]
独秀の文学革命論が発表されて大きな波瀾を捲きおこした。その胡適がこの年[br]
の暮れにアメリカから国語研究会に入会したいというハガキをよこした。見るとそれは白[br]
話で書いてあった。実は従来言文一致を主張した論文は多く出て、反対者と烈しく鎬を削ってき[br]
たが、みなそれは言文不一致体で書かれていて誰もそれを怪しまなかった。今胡適のハガキを[br]