講義名: 中国における言語文字問題
時期: 昭和26年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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しく老舎のいう文明であった。もし中国の文化をば文明的野蛮とか野蛮的文明[br]
とかいって表現できるとしたならば、中国の言語文字はまさしく文明的野蛮の言語文[br]
字であり野蛮的文明の言語文字であるといえる。ただ老舎はユーモア小説家であるから故国に対する反省と忠告とをある程度誇張した上で[br]
野蛮的文明ということばを用いているが、われわれが冷静な学問的立ち[br]
場でいうならば、その野蛮とは人類の最も原始的な状態であり、文明とはその進化し[br]
た状態である。しかもいかなる人類といえども原始的状態を脱却し得るものは[br]
ない。もしそれを失ったら人類である前に生物であるという資格を失うに違いない。現に[br]
人間はその胎内に居たときからを計算すれば人間以前の生物の歴史を反復していると[br]
いう以上、原始的状態を失うことは絶対にできない。早い話が戦争のような原始的状[br]
態が極めて複雑にして進化した武器や方法によって行われている。そしてこれから人間が完全に脱[br]
却できるということは何人にとっても確言できない。むしろ戦争に強い国が文明的であるとい[br]
う評価さえ下される。これも老舎にいわせたら文明的野蛮であり、また野蛮的文明で[br]
もあろう。それをわれわれは人間の悲劇的性格として理解しているが、同様に中国の[br]

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文化について、またその言語文字についてもまさにその悲劇的性格を指摘できる。ただしそうした[br]
およそ人類としての共通のものならば老舎も必ずこれを中国の文明について指摘しなかっ[br]
たであろうし、われわれも中国の言語文字問題の性格として必ずしも指摘する必要は[br]
ない。つまりこうした人間の悲劇的性格が特に中国において――それは文明であろうと又[br]
言語文字問題であろうと――中国において顕現しているからであって、いわば[br]
人間一般の問題が極めてよく中国[br]
から見てとられるわけである。[br][brm]
では何故にこうした現象が中国で顕現したか、といえば中国人は何事にまれ根本的に改[br]
選することを好まず、――少なくとも自発的にはやらないのみか、不用になったものを取り[br]
すてることさえしなかった。一例を以て云えば清朝時代の制度でもわかるが、文を重[br]
んずるこの国のことで天子に対しては翰林院があり、皇太子に対しては詹事府があってそれ[br]
ぞれその文事を掌っていたが、清朝のある皇太子が時の天子に対して謀叛をはかったこと[br]
が発覚してその皇太子は廃された。それのみか皇太子を立てることは自然群臣が[br]

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将来のために皇太子を取りまくことになるから、以後皇太子を立てないことに決定した。では[br]
皇位の相続はどうしてきめるかといえば、天子は在生中自分の意中の子どもの名を書いて[br]
それを正殿の中央にかけてある正大光明という四字の額の裏に隠しておく。いざ天子が[br]
なくなると、みなでその額をおろしてその蔭から次の天子の名を発見する。その時まで[br]
本人も知らない、といった仕組みであるが、それはともかく皇太子が立てられないとなる[br]
と詹事府もその必要がないから、その役所が廃止されるのがあたりまえであるが、不思議[br]
にもそれは清朝の最後まで続いて、しかも誰もこれを怪しまない。それのみかもしこれを廃止す[br]
るならば祖宗の法を破るという批難がおこるにきまっている。またもっと新しく清朝末年に内[br]
閣が従来の組織では対外事務を処理することができなくなった。それは従来の政府は[br]
対外事務について全然考えていなかった、もし考えていたとしてもそれは理藩院といった属[br]
国をとりあつかう立てまえであって、同格に外国とつきあうことすら考えなかった。だか[br]
らイギリスの大使マカートニーが始めて清朝の皇帝に謁見したとき、ぜひとも三跪九[br]
叩の礼をやれといって大さわぎをおこしている。しかし現実として清朝と同格の外国がある[br]

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ことを否認しきれなくなったとき、政府は始めて総理各国事務衙門というものを設けた。[br]
ところが、当時の国家の重要な政務がすべてそこに集まったため、肝腎の内閣は全[br]
くおるすになり、内閣大学士といったものは全然無用の長物となってしまった。それだ[br]
のに内閣制度は廃止されず、大学士はその首班として会典の最初に記されており、総[br]
理各国事務衙門はいわば臨時の官として小さく書かれているにすぎない。つまり新[br]
しい事実を認めまたその価値を承認することも吝ではない。しかしそのために既成の[br]
事実を抹殺しようとはしない。かくして時勢の動きによって生じた新しいものが、旧い[br]
ものと交って共存しているのが中国の官制であるし、また中国の社会の特長である。も[br]
とよりこうした姿はどこの国にもあるにはあるが、中国ではことにそれが著しい。つまりそう[br]
することが社会に波瀾をおこさず一応妥協してゆく最も賢明な方法である。一[br]
応そうしておけば発達するものは自然に発達し、衰退するものは自然に衰退す[br]
る。決してある個人に対しまたある個人から文句がおこらない。社会は春風の吹きわた[br]
るように穏やかで、しかもある進歩はある。人間に尾骶骨があるのも、昔の[wr]尻[br]

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尾[/wr]を一ペンに折断したわけでなく、尻尾の作用を逐次に他の機関で代理するように[br]
なるから、尻尾の発育が止まってしまったのと正しく同様で、人間の生理的発達について自[br]
然で無理のない方法が中国の社会で一番よく顕現しているわけである。[br][brm]
 今この事実を念頭に置いて中国の言語文字問題を見ると、単音節という原始的[br]
構造をそのままにして複音節的作用を営むには、単音節を重ねてしかもこれを[br]
ゆるいゴムバンドで結びつけるだけにしておくのが極めて巧妙な方法である。とりはずせば[br]
いつでも単音節に還元できるし、結びつければ極めて複雑な内容がいえる。[br]
同じく「文」という単音節を使用しても文明、文化、文教、文物、文雅、文芸、文学、文采、文章、文藻、文事、文辞、文書、[br]
文治、文弱、文飾、文理、文字、文脈、文法、文墨、文房、文人、文士、文盲などから対称した形の[br]
文武、分質、文酒などまで二音節語が無数に作られて、少なくとも文字の力を借りる[br]
限り、実に微妙なニュアンスがこうした音節の配合によってあやしきまでの光を放っている。[br]
実に「文」という単音節を頭においた二音節複合詞が一体これまでにどれだけ作られ[br]
たか、これを調べる方法もない。それが二音節であるかどうかさえ定めかねるものが[wr]あ[br]

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る[/wr]からそれを網羅できる筈もない。曾て清朝時代に進士の試験に及第して翰林院に入[br]
った人がなくなると、その謚には必ず文を上にした二字を用いたが、その中文正というのは最[br]
もえらい人物であり文忠、文簡、文恪、文貞、文恭、文敏、文清、文荘、文勤、文[br]
瑞、文毅、文節、文裏などの謚がそれぞれの人の性格に応じて選定されたものであるが、[br]
このほかでも適当なものがまだ考えられてさしつかえない。こうした複雑なものがかく[br]
も簡単な方法で作られるということはまったくこの原始的性格を巧みに利用したか[br]
らにほかならない。[br][brm]
また孤立語という基本的性格をそのままにしておいて屈折語に劣らないニュアンスを[br]
添えるには、それぞれの必要に応じて動詞のあとまたは動詞+目的語、すなわち文の最[br]
後にaspect的なものを添える。これをとりはずせばそのままで基本的な意味を示すし、[br]
これを加えればそれぞれ継続とか完了とか開始とか反復とかを示す。たとえば站という動[br]
詞があったとする。ただ「立つ」という基本的意味を示したいときは站だけでさしつかえ[br]
ないが、――事実単音節だけで使用することは殆どないが、ともかくこれに対して継続の[br]

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意味を示したければ、站着といえばよい。しかもこれをもっと確認したければ站着哪というよ[br]
うに助詞を加える。ところがそれは「立ったままでいる」という状態が継続しているこ[br]
とを示すもので、もし立ち始めることをいうならば站起来といい、今まで座っていたのに今から改めて立ち始めたことをいう[br]
つもりならば站起来了という。更に立ちかけてから立ち終わるまでの状態をいうには站哪[br]
という、すなわち立つという動作が継続していることを示す。同じ継続にも大きく分けて、[br]
站着または站着哪と站哪とでは全く違っている。こういった複雑な相違があの[br]
単純な孤立語の組織からどうして生まれて来るかと疑うばかりである。しかもこうした区別[br]
がそれぞれの動詞によって一々違っており、それぞれの動詞にとって必要なニュアンスが十分[br]
に発散するしくみになっている。つまり孤立語の示し得る最大限のニュアンスがそこから発[br]
散していわゆるテンス的な制度や単数複数のきまり、active , passive の如ききまりに[br]
束縛されずして云わんとすることは微妙に表現できる。たとえば受身にしても受身でいわ[br]
ねばわからないところはその表示を加える――損害を蒙ったということばを加える――だか[br]
ら好いことをされた時には特別の表現をしない。日本語でも著者ハ文学博士ノ学位ヲ授[br]

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クベキ資格アルモノト認ムといっても好いと思うが、西洋の文に慣れた人は授ケラルベキと修正される。[br]
また損害とまでいかずとも使役の表現が同時に受身を示す。叫我去とい[br]
うのは使役であるが、他叫電車軋了といえば結果は受身になる。しかし電車に引[br]
かれたことと電車に引かせたこととは結論として同じことであるからそこは極めて簡単に一[br]
つの形式で済ましておき、いざ細かく表現したいという時には十分細かいニュアンスの出る[br]
用意がしてあるわけである。だからこそ中国語を知るには――口語でも文語でも――[br]
ただ名詞や動詞形容詞だけを知ったのではまるで意味がなく、こうしたニュアンス[br]
を十分に汲みとるまでにしなければ全く意味をなさないのはそのためであり、それがわかってこそ中[br]
国人の物の考えかたもわかり、そうした考えかたが人間の一つの思惟の法則または方[br]
法として大きな意味を持つこともわかって来るし、引いては中国人の生活やその営[br]
む社会の中に案外にもわれわれの心づかなかった重要な意味が発見されて来る。[br]
次ぎは文字のことで象形文字だけでは極めてわずかな物事しか描き切れないため、[br]
事物の複雑な区別をしかも単音節に応ずる一字によって表現しようとするには必[br]

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ず半ば音標的に使用される文字を組みあわせて一字とし、偏にはその種類を、旁にはその[br]
性質とこれを呼ぶ音とを配したわけである。この方法を加味してから極めて多数の文字[br]
が極めて簡単な手続で、しかも前述の語法的の場合と同じくかなり恣意的にさえ[br]
作られて行って、そこに夥しい文字が繁殖し、その数実に五、六万の多きに達した。世界[br]
のどの民族とてこれだけ夥しい文字を作ったものはない。だから西洋人はこれをdevilの文字[br]
だといい、またterribleといっておじ気を振るった。中国人だってその五、六万の文字をおぼえ[br]
ているのは辞典だけで、これを全部使いこなすのはどのみち人間わざではないのである。その中には勿論これ[br]
を作った人やそのできた時代には生きていても今日では全然必要のないものもあるが、それは事実[br]
上死んでいるにもかかわらずこれを葬ることはせず、昔からの人を全部戸籍に入れておくやりかた[br]
である。しかし中国ではたくさん文字を知る人ほど偉いと考えられていた。いかにも二音節の[br]
詞を作るにしても選ぶにしてもそれは文字の力が多分に作用していたし、いわゆる汗牛充棟と[br]
いうべき世界で最も夥しい文献がすべてこの文字で書かれている以上、これを読むためにまず[br]
この文字と取り組むのが中国における知識人乃至知識人たらんとする人の何よりのしごとで[br]

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あった。いかにもこの経験を重んずる民族として先祖の書きのこした経験を読んでそれを身[br]
につけ、又社会の指導原理としたのは極めて当然であり、書物に対し自然文字に対す[br]
る信仰は極めて篤かった。伝説的に文字を作ったといわれるのは蒼頡であるが、これは目が[br]
四つあったとか伝えられ、また蒼頡が文字を作ったとき空から米が降ってきたり幽霊が夜泣[br]
きをしたりしたという怪談があるのもそれをよく証明する。しかも言語を発明したことに対[br]
する伝説は一つもない。ここに言語文字問題といってもその大きな摩擦はむしろ文字に[br]
あり、すなわち文字の比重が言語に比して如何に重かったかを語るものである。そこで今暫らく[br]
問題を文字の方向に偏せて見る。[br][brm]
これだけ多数の文字がいつ定められたかはもとより知るべくもないが、紀元一世紀頃漢の許[br]
慎の作った説文という字書には九千三百五十三字を載せているし、その後さらに増加し、[br]
いくら死んでもゴーゴリの死せる魂の農奴みたいに抹殺しないから増える一方で、遂に康煕字典[br]
 紀元十八世紀 に至って四二一七四という厖大な数になった。たとえそれだけ覚えている人はない[br]
にしてもそのどれがいらないということはないから、一応は覚えなければならない責任だけはある。[br]