講義名: 中国文化の問題
時期: 昭和25年
1 2 3 4 5 6 7 8
Back to viewer
倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
中国文化の問題[br]
パリのコレジュ・ド・フランスで支那学講座が設けられたのは、一八一四年の十一月二十六日のことであっ[br]
て、翌一八一五年(ナポレオンをセントへレナに没した年)一月十六日その最初の教授となったAbel RémusatがCollège de [br]
Franceで支那学講座開講講演にあたり、 “Sur l’Origine, les Progrés et [br]
l’Utilité de l’Etude du chinois en Europe (ヨーロッパにおける支那語[br]
研究の起源進歩並に効用について)”と題する講座を行い、それは “Programme du [br]
Cours de Langue et de littérature chinoise et de tartaremand [br]
choue(漢満語言文学講義要目)”とともに三十二頁の小冊子として刊行されているが、[br]
ここに開講される「中国の文化および社会に関する諸問題」の総合講義においても、[br]
その発端において日本における中国研究の起源進化並に効用について論ずる必要が[br]
あると考える。[br][brm]
日本が中国の影響を蒙ったのは恐らく料り知るべからざる古代からであろうが、それが[br]
少なくとも研究というに近い程度に達したのは、云うまでもなく帰化した百済の学者た[br]
ちの影響であり、その年代は信憑しがたいまでも、今から二千年近い昔であることは確か[br]
で、われわれの中国研究は世界各国に比しおびただしく年を経たと云わねばならない。も[br]
とよりこの間の中国研究がはっきりした区分を持つことができず、自然に変遷している[br]
ことはいるが、これを通観するとき、大きな時代的区分を考えることができないでもない。今こ[br]
れを大きく分けると、第一は曽て中国と直接交渉を持った時代、第二は中国との直[br]
接交渉が妨げられていた時代、第三はそれが再び復活した時代の三つに分けて考える[br]
ことができる。曽て中国と直接交渉を持った時代と中国との直接交渉が妨げられていた[br]
時代とは、わが国にとって中国文化乃至は中国を経由して来た文化が外来文化とし[br]
て絶対であった頃で、そして直接交渉が復活した時代はその外来文化としての絶対権威[br]
が崩れた時代でもある。そして同じく外来文化として絶対であった頃も第一期はおよ[br]
そこの国の文化としても中国文化が絶対であった時代であるが、直接交渉の妨げられてい[br]
る間に、この国この民族としての文化的自覚がおこって、いわゆる国学が漢学の蔭か[br]
ら伸びて来たことは中国研究の方向にも重大な変化を起こす機縁となったが、まも[br]
なく洋学が伝えられて来て、これが直接交渉の復活を促がす力となったとともに、中[br]
国研究の重みを洋学に置きかえるという結果を生じた。のみならず中国研究そ[br]
のものも洋学乃至は西洋人の中国研究の影響を直接に蒙るのみか、中国そのもの[br]
がヨーロッパやアメリカやロシアの影響によって大きな変化を示している以上、ヨーロッパやアメリ[br]
カやロシアの研究なくしては中国の研究もありえないという世界史的意味を持つに至[br]
っている。[br][brm]
本講義においては現代中国の研究に重点をおくのが立てまえである以上、こうした[br]
過去における個々の事象につき詳しい説明をする暇もないが、ここにその特質を示[br]
すに足るような事実を織りこんでその傾向を述べて見ると、第一期の特色としては中[br]
国文化の無条件模倣であった。当時の日本としては中国から渡来した書籍を通[br]
してその文字によって表現された文化を吸収したいと務めたことは云うまでもないが、た[br]
とえば暦法の如き農業生産に関係ふかい知識にしても、織縫のごとき被服工業も、乃[br]
至は医薬のごとき人間の健康も音楽のごとき人間の娯楽についてもその範を中[br]
国に求めたことは、暦博士(こよみのはかせ)、医博士(くすしのはかせ)、採薬師(くすりとり)、楽人(うたまいびと)などが来航したり、呉に使いを[br]
出して呉織(くれはとり)、漢織(あやはとり)などを求めたという記録によって明らかであり、むしろ生活全般にわた[br]
る指導を先進文化国たる中国に求めたとさえ云い得る。しかも当時の朝廷はすでに強大な政権とし[br]
て階級的に成熟していた以上、中国で発達した形式的制度を取り入れることはその政権を強[br]
化する手段としても絶好であった。もとよりかの仏教の伝来を中心として仏教を排斥[br]
する物部、中臣に対してこれを崇んだ蘇我氏のように争いは行われたが、結局異国[br]
的なものを採用しようとする大勢を動かすことはできず、大化改新に至りそれは絶対[br]
不動の方針として確立された。これよりさき中国との直接交渉にあたった人たちは多[br]
く帰化人であったためもあるが、その文章から見れば明らかに中国に対する政治的服[br]
従と見てもよい表現さえあらわにしているにも拘らず、隋に使した小野妹子たちはさすが[br]
これを棄てて外交的には一応対等の如き面目を保つことに務めたが、文化の優越性[br]
についてはほとんど絶対として疑う余地がなく、留学生、留学僧が踵をついで西に渡ったの[br]
はまさに今の東にむかう状態と相似ている。今議会で問題とされている[br]
元号のごときも飽くまで中国のひそみに倣おうとする朝廷の方針を映して制定され[br]
たもので、それが遠く大正、昭和まで一千三百年余にわたり日本の天皇のために中国の古[br]
典から選ばれた元号が用いられて怪しまれなかったことは、今なおこうした第一期の匂の残[br]
ったものとして興味ある実例であり、しかもそれが西洋紀元によって取りかえられようとする所[br]
に大きな動きを覚えるものがある。[br][brm]
第一期の特長は上述の如く中国研究といってもただ中国文化の絶対模倣に止まったの[br]
であり、中国と日本とは同一の文化圏にあるというよりも、正直にいえば日本が中国の文[br]
化圏に隷属することを望み、またこれに光被されることを光栄としたものであった。そして[br]
それは極めて不便にして危険なる交通を冒しての直接交渉によって推進され、両国[br]
の直接接触はもっぱら文化の面で、しかも極端な片務的状態をつづけて来たのであ[br]
る。それは遣唐使が唐末の乱によって廃された後までも、即ち少なくとも平安朝を終わる[br]
までは些かも変ることなく続いたと思われるが、やがてこうした貴族中心の古代から中[br]
世の封建制度へと移って、たとえば仏教にしても天台宗や真言宗が衰えて浄土宗[br]
や日蓮宗が広く行われるに至ったと相応じて、中国の古典研究も方向を改めた。即[br]
ち養老令以来の学制に見える古注中心の経学は、自然明経博士世襲の学[br]
問として固定したのが、あたかも中国における宋学の勃興に呼応する如く、学者と[br]
しては必ずしも家伝の学統に固執せず、社会的に見ては門外不出のおきてがゆる[br]
んで門戸をひろめて僧俗にこれを伝えようとした。これが結局江戸時代における学[br]
問普及の状態を導いた。そして遂に国学者のいわゆる「やまとごころ」によってこ[br]
れまでの からごころ や ほとけごころ 即ち儒教仏教絶対の信仰に対する反省を生[br]
じた。もとよりこの封建時代を通じことに江戸時代は中国との直接交渉の許され[br]
ない制度のもとでこそ やまとごころ の自覚が成立したものと思うが、この両国の間に直[br]
接交渉がなくわずかに中国の商人が長崎を通して連絡するに過ぎなかったことは、中国[br]
研究に自然日本風を帯びしめたことになる。即ち従来遣唐使のごとき大規模[br]
にしてしかも公認の交渉使が親しく中国の土を踏み、いやしくも中国の文化という[br]
べきものは遊戯の末に至るまで輸入しようと務めたに比しては、時代こそ降れ、[wr]中国[br]
人[/wr]の生活は日本人からよほど疎外された。この両国が曽て同一文化圏にあるべきであ[br]
る、否、日本は中国文化圏に属すべしという信仰は江戸時代までに漸く修正されて[br]
来たとともに、両国の接触は相当遠ざかった。江戸時代に荻生徂徠が日本橋から[br]
芝に移転して中国に近くなったといって喜んだというような話は両国の接触を希望しつつ[br]
遂に実現できなかった中国研究者たちの感情を誇張したものと思うが、荻生徂徠[br]
たちの主唱した『唐詩選』などは江戸時代の文芸教育として極めて普及され、狂歌などにま[br]
でこうした材料がいたく取りこまれたほど古典的教育が行われ、やまと心の自覚はと[br]
もあれ、漢学の普及はむしろ最高潮に達した。もとよりこうした現実の中国と[br]
の遮断を好まず、可能の範囲で中国人に接触したいと希望した人たちは長崎に赴[br]
いて中国の現代語を学習し、自然、古典を日本的に訳読することで解事了れりとした[br]
一般の中国研究にあきたらず、これまで徂徠門下におこった唐話学者が一つの勢力を[br]
なしたが、何といっても多年にわたる慣習は牢として抜きがたく、むしろ唐話による研究は[br]
いわゆる漢学を改革する代りに、外来文化としての中国文化の地位を西洋文化に譲る[br]
ための前奏曲となった感じがする。即ち薩摩藩主の島津重豪のごとき一面には侍臣[br]
石塚崔高たちの唐話学者を集めて『南山俗語考』を編輯したが、一面また従者千余[br]
人をひきぐして長崎に一ヶ月も逗留して和蘭の大汽船に乗って西洋文明の長所を満喫[br]
したというが、もしこの二つを比較するとき当時の志ある人は必ず洋学をおさめて前人未踏の天地[br]
を開拓しようと務めるのが常で、しかもこの二つはほぼ同じ性行をもった人を吸収するため、[br]
唐話学は自ら洋学に席を譲らざるを得なかったのである。[br][brm]
以上第二期を通じて見るとき、中国文化の優位は一般的には遂に動かなかったのであるが、第一期と違って[br]
日本文化に対する自覚を発生したとともに、自然中国研究においても日本風の匂が強[br]
まった。たとえば伊藤仁斎の如き荻生徂徠の如き中国古典の解釈について中国人の考え[br]
及ばなかった新しい説を発明し、従来の明経博士などがただ古典の意義をあやまらぬ[br]
よう戦戦兢兢としていたに比しては非常な進歩であるし、徂徠の影響を蒙った山井[br]
鼎『七経孟子考文』の如きたとえ足利学校に稀代の玲籍が伝えられていたにもせ[br]
よ清朝校勘学を刺激しその著は四庫全書にまで収められるといったような[wr]業[br]
績[/wr]は到底前代には期しがたいことで、古典研究としては相当な結果を見るとともに現実[br]
の中国からは相当遠ざかるの已むを得ざるに至っている。[br][brm]
これまで中国研究ということばをやや広く用いて来たが、実を云えば中国研究という名[br]
に価する業績はこうした中国古典の普及を通して始めて発生したもので、その余勢[br]
は直接交渉が開けるようになった第三期にも及んでいる。これが云わゆるわが国の漢学[br]
の伝統であって、たとえ中国文化を絶対とする程に頑固なものは減少してきたが、中国[br]
と日本とは同じ漢字を使用するが故に同文同種であると主張し、その実、両国[br]
の直接交渉は鎖国時代と相去ること遠くない状態に置き、ただ文字の上における[br]
交りであって言語を通して生きた交渉をする必要を軽んじた。これは一面において[br]
江戸時代に自覚された国学への反動でもあって、曽ての漢学全盛の夢を見つ[br]
づけたあまり、時代の大きな動きに目を掩い、はなはだしきは中国の文化は日本が[br]
これを保全しているかの如き錯覚をさえ抱くものがあった。またそれは一面において前[br]
代の唐話学の系統を引いた中国との直接接触を望む人たちの活動に対し[br]
ても非協力的であり、両者の間は決して円満でなかった。これは要するに第二期の惰[br]
性であって、ちょうど第二期に入っても明経博士の末裔たちは第一期さながらの家伝の[br]
誓約を守り続けたと同様の現象であるが、第二期が普及的効果を収めただけにそ[br]
れが第三期まで相当の量的影響を持ったことは著しく、最近漸く普通教育に[br]
おける漢文が反省され出したのも、第二期の残滓として掃除される運命を示す[br]
ものである。[br][brm]
これに対して第三期の特色とすべきことは、新しく紹介された西洋の学術研究法、[br]
乃至は西洋人の中国研究の成果の利用であって、帝国大学の各講座は多少[br]
ともその方向を取らざるを得なかった。特に中国に対する歴史学的研究は、一般[br]
歴史学の進歩に伴って著しい発展を遂げたことは白鳥博士などの指導よろ[br]
しきを得たためであって、その点においては西洋人の研究と比して遜色なきに至った[nt(0X0050-0100out01)]。た[br]
だ西洋人が中国を研究したのは、元来宣教師が布教のかたわら中国の事情をそ[br]
の故国に報告したことに端を発し、西洋とは違った文化圏にある中国の奇異な[br]
[0X0050-0100out01]
また日本では特にその学問の成立が西洋人の研究を足がかりにしたため、中国人と古く関係のあった諸民族の歴史、その記録が中国の書物に見えたものの考証、あるいはそれらの諸民族と中国との間の交渉史といった所に重点が注がれ、中国人自身の関係、ことに文化の問題にふれることはわりあいに乏しく、胡適はこれを虜学と称した位である。