講義名: 中国の文化と社会の諸問題中国における思考形態と生活形態
時期: 昭和25年~昭和29年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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これから開講する講義「中国の文化と社会の諸問題」は少なくとも本学文学部の[br]
諸講義とはかなり性質を異にするものであるから本日はまず私から関係教員講師に代ってその主旨乃至われわれの主張を総[br]
括的に述べてみたい。文学部の他の講義は普通に毎週2時間をある単位として一人の[br]
教員が担任することになっているが、この講義は毎週2時間を3人乃至4人の教員で[br]
リレー式に分担しつつ進行する。しかもそれは第1部第2部と一応別れた形に[br]
なっているが、実は本質的にいって毎週4時間の講義にほかならない。ただ文学部の[br]
講義の現状に鑑みて毎週4時間の講義として実施するときはかなりの無理がおこ[br]
ることを免れないので、学生諸君聴講の便宜を計って仮に第1部第2部の別[br]
を立てたまでである。従ってこの講義本来の目的から云えば第1部第2部あわせて毎週[br]
4時間の聴講を希望するが、もとよりこれを強制することなく、第1部のみ第2部[br]
のみという聴講も認める。これは形態的な特色である。更に重要なことはその内容としての目的である。元来文学部の諸講義はそれぞれ各講座に分属してい[br]
て、ただ若干の語学や地学、生理学、文化人類学などが講座外講義として行われて[br]

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いるが、この講義はまさにそうした分類に入る、というよりも一般の講座に属しえない種[br]
類のものであり、同じく講座外の講義としてもこれに類したものは全然ない。ではそう[br]
した意味の特色がどこにあるかといえばわれわれはこれを area study の方法と唱え[br]
るのである。元来文学部の諸講義は大きく考えると哲学、史学、文学という[br]
枠があってほぼこれで分類できる。もっとも若干の学科は哲史文のどれに属するか[br]
ハッキリしないものもあっていつも問題になるが、それらを除けばおよその分類は可能[br]
であり、現に文学部をその三つの学科に分けている大学も少なくない。ところがこの分類[br]
はごく一般的な意味でいえば研究方法を標準としたものであって、もしこの分類を縦[br]
の分類とすればもう一つ横の分類が可能である。たとえば国文学国史学といって「国」[br]
の字を共通な因数(公約数)として代数ならば因数に分解することができる。また中国哲学、中[br]
国文学、東洋史学などは「中国」と「東洋」とで多少の差はあるがこれも公約数とする[br]
ことができる。印度哲学、梵文学もこれに準ずるし、西洋史学、英文学、独文学、仏[br]
文学といった組合せもできる。実は文学部の諸学科の並べかたには幾分そうした匂[br]

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が伝わっている。しかし少なくとも学部の現状からいってこの方の枠はあまり強くなく、むし[br]
ろ哲史文の枠が強いというのが実情である。この講義はそうした弱い枠、すなわち人[br]
間の文化的営みがどの地方を中心として行われたかを取りあげる方向を強化しよう[br]
とするもので、即ち世界における文化のある中心地を捕えてそこにおこった事象を必ずし[br]
も哲学とか文学とか史学とかいった研究法に拘泥せず、いろいろな視野から一斉にラ[br]
イトを浴びせ、哲史文という枠だけではハッキリ浮かび出せない処まで照らし出[br]
そうという試みである。いうまでもなく人間の生活は環境によって大きな制限を蒙[br]
る以上、それぞれの環境のもとに生み出された文化がそれぞれ違った形態をとることも当[br]
然であって、こうした環境の下に作られた文化の一般的特質を具体的に捕えてこれを他の環境[br]
の下で作られた文化の特質と比較するしごとは、別にいろいろな環境を通じて作ら[br]
れた文化における共通な性格を抽象するしごとと相待ってそれぞれの重要性を持[br]
つ。しかも後者すなわち抽象するしごとのみに重点がおかれやすい現実においては、[br]
われわれの試みるような企ては、たしかに在来の学問の盲点を衝きその不備を補[br]

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うものがあるといって好い。その上、たとえば中国という地域におこった文化現象を考えるに[br]
ただ中国哲学、中国文学、東洋史学だけで事足りるものではなく、別にこうした地名を[br]
冠していない社会学や美学美術史または考古学などについても中国という因数が[br]
含まれるのも当然であり、また実際にこれを抹消しては成立しえないものである。これらは[br]
なお文学部に含まれる諸学科であるが、法学部における中国の法制や政治、ま[br]
た経済学部における中国の経済、理学部における中国の天文、数学、地理、乃[br]
至医学部における中国の医学、薬学、農学部における中国の農学農芸、教[br]
育学部における中国の教育といった驚くべき多方面にわたった事がらがやはり中国と[br]
いう因数を持つものである。しかるに文学部内でさえこうした学科を因数によってくくる[br]
方法が不十分である位だから、况して法経理医農教育諸学部を横にくくるこ[br]
とに至っては更に困難である。もし特別な工夫を用いてこれらを連係する手を考えない[br]
かぎりそれらがバラバラになったままでいる外はない。ことにこれらが学部を異にして存在し[br]
ているという事実は、われわれの学制そのものがこうした行きかたを一応考えないことを示[br]

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すもので、自然そこに横の枠があることすら忘れられがちであった。われわれの講義は[br]
こうした意味においてひとり文学部の張り出しであるばかりでなく、全学の張り出しでもあ[br]
って、同時に今の八学部制に対する大胆な挑戦であるともいえる。自然、文学部[br]
の講座内の各講義とはもとより講座外の語学や地学、文化人類学が講座別の講義を補完するという主旨とも完全に違[br]
っているのである。[br][brm]
こうした主張に対しては直ちに有力な反問が生ずるに違いない。それはこうした [br]
area study の必要性乃至その価値は仮に諒承したとしても、もしそれならば世界[br]
における文化の各区域においてそれぞれの area study がない以上話にはならないという[br]
反問であって、まことにご尤もである。少なくとも文学部ではほかにこうした講義がな[br]
い以上大きな声で area study を主張することはおかしいともいえよう。自然もっと[br]
たくさんの地域についてこうした趣旨の講義がたくさん並ぶことが望ましいに違いない。[br]
しかもそれがなぜ実現できないか、その理由の第一は極めて簡単で、つまり経費がない[br]
ことである。しかし経費がないことと中国だけがこうした講義をひらいていることとの間に正[br]

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しい論理は貫かれていない。たとえ同じ経費だけしかないとしても日本、ロシア、印度、乃[br]
至西洋などを主題とする area study の一つが行われることもあり得る。しかもこの講[br]
義が東大文学部に出現してからすでに第三年を迎えているが、三年とも専ら中国[br]
をとりあげているのはなぜかということになる。これにはいろいろな理由を考えることができる。[br]
第一は日本の問題でアメリカで行われる area study には勿論日本がその対照の一つで[br]
あるが、われわれにとっては日本の問題は自分たちの本国の問題である。その点ちょうどア[br]
メリカの area study が一応アメリカの文化や社会をとりあげないのと同様である。これにつ[br]
いてはいわゆる area study の成りたちから考えないと説明できないので、しばらく Harvard[br]
大学の Reishouer及びFairbank両教授の説明を借りておく。それには次のように述べ[br]
てある。[br]
今や欧米文化の枠のほかに存在する文化の伝統や社会について研究することに対[br]
しその必要と否とを論ずるものはほとんどなくなった。こうした研究を実際面に適[br]
用することが急務であることはもちろん、さらに違った種類の文化の伝統に関する知識[br]

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を増し、理解を深めることによってわれわれ自身の文化と社会とをゆたかにすることが、[br]
広大な価値をもつということも従来に見られないほどハッキリしてきた。ただこの必[br]
要を実際上效果的にすることは容易でない。一つは言語の研究に莫大な時間と精[br]
力とを注ぎこまねばならないこと、もう一つはそれぞれの研究に従事する学生に対し[br]
てある組織とまた釣りあいのとれた智識を与えるために広い背景をもたねばなら[br]
ないことである。いうまでもなくこの二つの問題はアメリカ自身の文化研究についても存[br]
在する問題であるが、アメリカの学生は自分たちの国の文化を研究しているという[br]
意識を持たない中にこれらの問題――(本国の言語と本国文化社会の概観)[br]
――を克服している。つまり赤ん坊のときから言語の研究と area study とを始め[br]
ていたからである。従ってカレッヂまたはグラデュエイトスクールに入学する頃には、すで[br]
に言語や文化伝統、社会機構、または自分が専門研究に入るために有利[br]
な程度の社会に対する評価のやりかたなどについて必要な基本原理はすでに身に[br]
つけているわけである。従って哲学者、経済学者、政治学者、または歴史家としての[br]

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教育を受けながらも、自己の属する文明の他の面についても安んじてやっていけるだけの[br]
常識は具えているからである。[br]
この相当ながい引用によってわれわれは area study がどうしてアメリカで発生したか又[br]
どういう点がねらいであるかを知ると同時に、日本において日本本国を対照とした [br]
area study が考えられないことに対する答えとしても適用できると思う。少なくとも[br]
大学教育に特にこうした学科を設ける必要はないということは一応いえると思う。その[br]
意味においてわれわれの文化と異種のもの、われの文化の埒外にある文化伝統や社会[br]
の研究についてこうした学科が大学に設けられることは、必ずやアメリカにおけると同様にそれが必[br]
要か否かを議論する人はもはやなかろうといってさしつかえない。少なくともこうして[br]
その講義を選ばれた諸君と改めてこの問題を論ずるのはあまりにもむだであると[br]
考える。従ってわれわれの当面考えるべきことは最初に戻ってなぜ中国だけが始めから[br]
三年もつづいて実施されているかの問題になるが、更にまず西洋について欧米文化につ[br]
いてなぜ実施されていないかを考える必要がある。それにはわれわれが現在もっている[wr]文[br]

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化[/wr]が非常に欧米化していて欧米文化が大学生諸君にとって必ずしも自分たちの文化の[br]
枠の外にあるように考えられない。現にアメリカの area study が少なくともそれ自体[br]
の問題と並んで「言語研究に莫大な時間と精力とを注ぎこまねばならない」というこ[br]
とを取りあげているが、日本の大学生は中学以来最少どれか欧米の一国、おそらく[br]
大部分は二ヶ国乃至三ヶ国にさえわたっておびただしい時間と精力とをその言語研[br]
究に費してきているわけである。自然そうした訓練は一面 area study という形を借[br]
りずに自らある程度欧米文化の概観を身につけることができているわけであり、また直接とはいえずとも[br]
欧米人の著書の翻訳によって欧米の文化伝統や社会機構乃至はそれに類したもの[br]
を、一応自分の専門をやるにさしつかえない程度の常識として持っているものと信ぜられ[br]
る(旧制の語学と英独仏に限ったこと)。従って文学部の張り出しとして欧米文化社会について特別の施設をすることは少なくとも[br]
急務ではないといえる。尤も同じ東京大学において教養学部の教養学科として立[br]
てられた課目にはアメリカの文化と社会、イギリスの文化と社会、フランスの文化と[br]
社会、ドイツの文化と社会というものがあって既に開講されているはずである。あるいはわれわれ[br]

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のこの講義は教養学科のまねではないかと疑われるかも知れないが実は双方とも全然[br]
連絡なしに考えられた案であって、どちらがどちらをまねしたという事実は全然ない。[br]
たとえまねしたってさしつかえないことではあるが。また近ごろ毎年夏にはアメリカから特に学者[br]
たちが来てこの文学部あたりを中心にアメリカ研究の特別な施設を行っている。これらは[br]
つまり一般大学生としての水準では不足であるとして特に専門のコースを設けた[br]
ものであって、この意味からいえばわれわれが今意図している中国の area study に[br]
比べてはかなり程度が高いといえようが、とにかく規模が大きいしくみである。ただし私[br]
が最初にいった大学の学部の組織にたいする挑戦というのみではやはりわれわれの考えと完[br]
全に近いほど一致するものがあると思う。こういうわけで欧米文化を目標とした area [br]
study が少なくとも文学部自体の講義として実施されることはほとんどありえないと[br]
さえ考えられる。次ぎにはたとえばアメリカの area study を参照してもソヴィエ[br]
トがあり東南アジアがありインドがある。それらについてはなぜこういうことが行われないか[br]
といえば、現状遺憾ながらそれだけのスタッフがないという外はない、おそらくスタッフさえ[br]