講義名: 本邦における支那学の発達
時期: 昭和21年度
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
本邦における支那學の発達
昭和二十一年度
本邦における支那学の発達[br]
日本は中国と極めて近く、ことに海上往来の便もあったから、日本人が始めて中国を[br]
知ったのはいつであるかというような問題は、もとより今から解くすべもない。ことに朝鮮半島[br]
を通じて間接に中国と接触したことは更に古いことと想像されるが、日本の史料としてこ[br]
れを証明すべきものは殆どない。さすがに中国は記録に富む国であるから、『魏書』、『三国志』の「倭[br]
人伝」、「烏丸鮮卑東夷伝」や『後漢書』の「倭伝」などに見える日本についての詳細な記事があって、彼我の[br]
関係が極めて古かったことを思はしめる。尤も、これらの倭人倭国の記事は極めて難解[br]
であって、特にその中に見える卑弥呼という女王は何人を指すかということに就て、古来[br]
紛々たる異説が出、ことに内藤湖南先生が明治四十三年五月より七月にわたり、『藝文』[br]
〔第一年二三四号〕に連載された「卑弥呼考」(『読史叢録』に載す)が動機となって、白鳥庫吉、橋本増吉[br]
の如き東洋史家や、高橋健自、三宅米吉 の如き考古学者が競って研究を発表し、或は九州の豪族にあて、[br]
或は近畿の大和朝廷にあて、その何れが正しいかは容易に定[br]
めることもできないが、つづいて明治四十四年六月の『藝文』〔第二巻第六号〕に、内藤先生の「倭面土
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国」が掲げられ、その八月には稲葉君山氏が『考古学雑誌』〔第一巻第十二号〕に「漢委奴国[br]
王印考」という論文を発表し、委奴、倭奴ともに倭面土(ヤマト)と同じく単に声に緩急[br]
あるに過ぎないと云うに至り、少なくとも委奴の問題はある方向が定められたように[br]
思はれる。その漢委奴国王印とは、天明四年(一七八四)、筑紫志賀島で発掘された金印で、『後[br]
漢書』に光武帝の中元二年(五七)、倭使が入朝し印綬をたまはったといふ記事に応ずるものだと云はれてゐる[br]
が[nt(050180-0020out01)]、その外にも魏の明帝の時に倭の女王卑弥呼が大夫難升米(タジマモリ?)等を遣して朝[br]
献したので、親魏倭王として金印紫綬を授けたといふこともあり[nt(050180-0020out02)]、当時はかやうな[br]
ことが実際に行はれたことに疑ひはない。では、当時わが国で支那のことを何といったか[br]
と云へば、恐らく漢と称したのが最も正しいと考へられる。つまり、わが国が始めて接触した[br]
支那は漢の時代であったらうから、その朝代の名が長く支那の称呼として用ひら[br]
れたわけであり、その文字を漢字といひ、その人を漢人といひ、その学問を漢学といふこ[br]
とも怪しむに足らない。[br]
わが国の記録の中に支那の書物のことが始めて見えてゐるのは、応神天皇の時に[we]百済か
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建武中元二年倭奴国奉[br]
貢朝賀使人自称大夫[br]
倭国之極南界也光武[br]
賜以印綬(『後漢書』)
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景初二年六月倭女王遣[br]
大夫難升米等
から阿直岐、王仁などが来朝帰化し、ことに王仁が『論語』十巻と『千字文』一巻とを献上[br]
したといふ。それは、『古事記』では阿知吉師(あちきし)(新●の十七等の初十四を吉士という)が命をうけて和邇吉師(わにきし)を貢したとあり 、『日本書紀』では[br]
阿直岐(あちき)、王仁(わに)と記してある。しかるに、応神天皇の十六年(二八五)に王仁が『論語』と『千字文』を献[br]
じたとすると、『論語』はともかくとして、梁の周興嗣(?~五二一)が作った『千字文』がそれより百九十年も早く[br]
日本に渡来してゐたといふことは不可思議である(尤も、『書紀』には王仁来朝のことだけで、『論語』『千字文』のことは見えてゐない)。従って、古くから[br]
このことが問題となり、たとへば新井白石の『同文通考』などに云ふやうに、『千字文』ではないほか[br]
の書物、たとへば、『凡将篇』、『太申篇』、『急就章』などの小学の書物であるといふ説もあり、[br]
谷川士清の『日本書紀通証』などに云ふやうに、同じ『千字文』でも魏の鐘繇(一五一~二三〇)の[br]
『千字文』であったらうといふ説もあり、本居宣長の『古事記伝』などのやうに伝聞の誤りだ[br]
らうといふ説もあり、なかなか帰一しがたいが、近年フランスのPelliot氏がそのことを考証[br]
して(『図書館学季刊』六ノ一に馮承鈞の訳あり)、『古事記』の記事は日本の年代とともに信をおきがたいと論[br]
じてゐるし、宣長もいふ如く『日本書紀』にはこの書名を欠いてゐることも、宣長のいふやうな、[br]
上代に文籍なかりしと云ふことをあかずおぼして、此の御代に始めて渡り来りしことを[br]
とを忌み隠されたる物とぞ思はる。[br]
といふことは首肯しがたいまでも、むしろ『古事記』があくまで正しいといふことを立証できない資料に[br]
なるかも知れない。ともかく、この頃から百済を通じた支那文化の輸入が行はれたことはほぼ疑[br]
ひなく、これより後、太子の莵道稚郎子をはじめ典籍を学習した人も多く出たらしく、[br]
一面は、阿知使主が呉に赴いて織縫の工を求めたり、雄略天皇の時に身狭村主[br]
青(ミサノスクリアヲ)たちを呉に遣して呉織漢織の女工を求め、さらに呉の使者をむかへるために磯[br]
歯津(シハツ)路を開いたことが『日本書紀』に見えてゐるし、一面は、宋の永初二年(四二一)には倭王讃が貢し、元嘉年[br]
間(四二四~五三)には讃がなくなって、珍がこれに代り、安東将軍倭国王に任じたり、元嘉廿年(四四三)には倭王済が貢を入れ、大明六年(四六二)には興が安東将軍倭国王となり、やがて武(雄略天皇?松下見林『異称日本伝』の説及び菅政友の『漢籍倭人考』の説)がこれに[br]
代り、安東大将軍倭王に封ぜられ、南斉の建元元年(四七九)には武を鎮東大将軍に[br]
進めたといふ記事が『宋書』九七、『南斉書』五八に見えてゐるが、互ひに独立した記事で[br]
印証するよしもないのが遺憾である。また、三韓からは、継体天皇の七年(五一三)に百済か[br]
ら五経博士段楊爾(ごふみのはかせたんやうに)を貢し、十年(五一六)には五経博士の漢高安茂(あやのかうあむも)を貢して段楊爾(たんやうに)に[br]