講義名: 支那学の発達
時期: 昭和18年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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支那学の発達[br]
われわれが支那という名称で呼んでいる国家、支那人という名称で呼んでいる民族が、地球の[br]
一角、亜細亜大陸において儼然たる存在をなしていることは、固(もと)より明明白白の事実であ[br]
り、殊にわが日本の位置が支那の隣りであり、支那人がわれわれ日本人と多くの類似点共[br]
通点を持つことは、両者の相互関係が並並ならぬことを示すに足ることである。従って支那とい[br]
う国家において支那人という民族が、如何なる文化を持ち、それが如何に発展されて来たかと[br]
いうことは、それだけの意味においてもわが日本の学術の一科として取りあげられるべきことであり、更に[br]
それがわが日本において如何に影響し、如何に吸収され、又は如何にそれを発展せしめたかということは、[br]
殆どわが国学の重要なる課題の一つとして提起されて好いことである。ただし、この広い意味[br]
における国学が、純粋に日本的なるものと然らざるものとを更に分析するとき、支那の[br]
文化と関係する部分は古くから漢学と呼ばれている。漢は勿論、支那という意味である。[br]
この種類の学問が、わが日本の文化を理解し、その発展を希(ねが)う意味において、極めて重[br]
要なことは今さら云うまでもなく、われわれは今日における漢学の衰微について極めて[wr]深[br]

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刻な[/wr]憂慮を抱くものであるとともに、支那自体の文化をば日本人としての立ち場で研[br]
究すべき支那学が、今なお十分に成長していないことは遺憾とせざるを得ない。しかし、われ[br]
われがこの学問に携る以上、たとい如何に微力なりともこの学問の向上発展に努むべきことは[br]
云うまでもなく、そのためには少壮有為の学者の養成に努め、次の時代を荷(にな)うべき後継を求め[br]
ねばならない。ところが、曽(かつ)て漢学の華やかなりし頃の学者たち、又はその影響を十分に受[br]
けついだ人たちの間には、たといその当時相当の方法論であるにしても、支那の書物に親し[br]
む機会も多く、その意味を正確に知ることもできた上に、社会全般としても支那文化的[br]
雰囲気が強く、自然、支那学について全般的常識が漢学を通じて、或は漢学、支[br]
那学の混沌たる状態のままに相当行きわたっていたことは、今日の六、七十歳以上の人人[br]
について十分にその証拠を求めることができる。支那学がわが国に興ったのは、むしろ西洋から[br]
伝えられた学問の方法論に本づくものであるが、同時に、単に西洋の模倣に出づるものではな[br]
くして、所謂近代化された学問として当然進むべき過程でもある。然しながら、それは直ちに[br]
むかしの漢学と正反対な立ち場を取るものではなく、漢学の中から生まれ出たものであって、[br]

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ほとんど二千年にわたるわが漢学は、明治以来の支那学の温床として懐しき記憶を持つ[br]
べきものと云える。しかるにこの漢学が明治以後、学問近代化の影響にあたり、従来の学界における[br]
絶対的地位から引きおろされて、ここに急速度の顚落を見るに至ったことは、さきに述べる如き[br]
漢学の衰微という現状齎(もたら)した原因であった。そして漢学の中に孕まれていたものの一つが支那[br]
学として生み落とされ、これのみは一般学問の近代化と呼応して将来あるものと嘱望されている。も[br]
しその母胎であった漢学も既に支那学を生み落した以上、自分は専ら国学の一支として、又[br]
支那学との合理的連関のもとに進んでゆくならば、古くして而かも新しき学問としてこれ[br]
亦将来を持つべきものであるが、一つには多年の惰力もあり、一つには有為なる人材が多く[br]
他の方面に吸収されたため人的資源も手薄となり、自然、今なお十二分の希望を繋ぐ[br]
までに立ち直ることができず、ともすれば世間から時勢おくれの標本として軽侮されることを[br]
免れないのは、極めて遺憾なことである。而かも支那学の立ち場から云えば、その母胎たる漢[br]
学が今日に至るまで曖昧なる存在であり[nt(050150-0030out01)]、世間から侮られているために勢いその連累として[br]
種種の迷惑を蒙るのみならず、その温床が荒らされる一方、新しき温床が昔の温床と[wr]違[br]

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大学ニモ講座ガナイ

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って[/wr]独自の培養力を発揮するまでの時日を持たぬため、一面においては、過去の漢学時代の[br]
真の好さを失おうとする危険もないではない。われわれとしては、一面その培養力を発揮し、一面[br]
昔の好さを失わぬために、具体的に如何なる方法を取らねばならないか、それには支那の書物の読解力が[br]
絶対的に低下しないように訓練することと、今一つは支那学についての常識を整理して、後来の人たちに学び[br]
やすからしめることが必要で、本学科における演習は即ちその前者の訓練であり、本講義は[br]
実に後者の試みである。曽て余は三年前に支那学概論の名の下に極めて簡単な講[br]
義を試み、実はその序説としてヒントを与えたに止まっていたが、今はその続篇とし、或は各論としてこの[br]
講義を行い、聊か(いささ)新たに斯の学問に志す人人を中心に大体の指針を与えたいと考える。ただし、叙[br]
述の便宜として、先(ま)ず先(さ)きに述べた序説の中、やや肝要なるものを抜き出してこの度の講義[br]
の冒頭とすることは、自然の必要に出づるものであって、事実、聴講学生諸君にもほとんど重複[br]
を覚えしめることはないと信ずる。[br][brm]
支那学概論の序説として最も重要なる問題は、支那学の属性乃至特質である。こ[br]
れは勿論、支那文化の属性乃至特質と相一致すべきことである。元来、各国文化のことはなかなか[br]

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容易にその特質を紬(つむ)ぎ出すことは困難であり、しかも人類の文化には大体一定の類型が[br]
認められる以上、これを更に詳しく対比するには、各国乃至各民族の文化について深い研究[br]
なり洞察なりが必要であるから、一人二人の力を以て正しき結論を得がたいことではあるが、今[br]
暫く(しばら)西洋文化なり日本文化なりに比して支那らしさを覚える点を列挙して見たい。[br][brm]
その第一の特質として考えられることは、支那文化の綜合性である。元来、支那人はある概念を[br]
捕うるのに、その言語の特質に従って、一音節を用いることを原則とした。かかる特質は即ち、[br]
思惟の方法、乃至形式と不可分離の関係に立つべきものであって、その言語が結局品詞[br]
による変化も持たず、デクレンションを知らないということは、如何にその民族の思惟が具体[br]
的に一音節を以て圧縮されるかということを示すもので、こういう訓練を幼時よりくりかえしていること[br]
がその文化の綜合性を将来するに役立つことは、容易に推測できると思う。ここに一つの実[br]
例をあげるならば、子弟や臣下が君や親の名を忌むと云う風習は、支那において極めて著し[br]
く発達している。それは儀礼を重んじ装飾を喜ぶ国民性に出づるにしては、なお諒解しがた[br]
き点があって、余はこれを支那語の具体性と関係するということを考えて、この問題を解いた[br]

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ことがある。つまり支那語では、わが国語のように単なる音節としての仮名の如きものが存[br]
在せず、音節は直ちに概念を背負って登場する。君や親の諱に相当する音節は、[br]
単にある音節であるばかりでなく、又君や親の諱と同じ音を持つというばかりでなく、具[br]
体的に君や親になって、忠臣孝子の胸にひびくからこそ諱ということが、かくの如く厳格な規定[br]
となったに相違ない。それはちょうど、「ㄙ(ˇ)」といいさえすれば「死」というものが直に現われ、われわれが[br]
「シ」という音節から感ずるものとは全く違うことを思い、又支那語の辞典にあれほど[br]
同じ音に多数の文字が混雑しているのに、「ㄙ(ˇ)」にはかの忌むべき「死」だけしかない[br]
ことを思えば、私の推測は当らずと雖も遠くないと信ずる。又支那の数について見ても、[br]
零というものはほとんど使用されない。これは西洋の数学が「零の発見」によって長足[br]
の進歩を遂げたのと殆んど対蹠的な立ち場に立つものであって、すべて千とか百とかいう[br]
位どりを以て具体的に数をまとめてしまう結果、これを分析してある基礎から同じ標[br]
準で行く、いわゆる下からの位どりではなくて、頭からとって来る位どりになり、自然、数を云うに[br]
も両千五といえば二千と五ではなくして二千五百となるという行きかたは、諸等数的な考えかた[br]

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として発達したものと云うべきであり、西洋の度量衡がメートル法の如く、一つの尺度が度量[br]
衡にわたって基準となるとは反対に、度量衡その他がそれぞれ違った基準を取る[br]
外に、それぞれの中においても里程や田畝など十進法とは違った複雑なる諸等数を[br]
なしていることも、極めて興味ある現象で、好く云えば、特定のものには特定のものを与える[br]
という支那的とりあつかい、具体的の待遇であると同時に、一面は理論的に物を述べたり事[br]
がらを考えたりする上に、相当な障碍を及ぼしていたことは疑いないと思う。すべて支那人の著[br]
述には、ほとんど体系らしいものが認められない。而して随筆の如き非体系的のものが非[br]
常によく発達している。最近の新しい文学の展開においても、小品文が最も好く伸び[br]
て、小説の如きある体系を必要とするものが仲仲十分に発達しない、あるいは好い小説はほと[br]
んど小品文であるといっても好いのは、やはりこの国の特質を示すものと思われる。もとより、ある[br]
体系なしに人が思考もし、生活もできるわけはないのであるが、支那ではその体系はち[br]
ょうど冰山の水底に没した部分であって、水上に出ているものは即ち体系の見えない随筆で[br]
ある。近世の大思想家たる朱子の如きも、その体系はどこにも描かれていない。今の学者の[br]

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描く朱子の学問的体系は、すべて海上に現れたる文集や語録によって水底の冰山[br]
を想像したにすぎない。その体系を人に示さないということは、一面謙譲の美徳で、水底に[br]
埋(うづ)もるべきものを敢て露出しないことになろうが、同時に、常に埋もれさせておくことは、決してそ[br]
の発展を助長すべきものではないと云える。支那における理論の脆弱性はおそらく[br]
ここに胚胎するであろうし、随筆の如きものが極度に発達したのも、その逆の現象として[br]
十二分に納得できると思う。こういう実例から帰納しても、余は支那文化の特質とし[br]
て、綜合性、具体性をあげるとともに、一面にはそれが、分析において缺くる所あり、理論的方[br]
面においてなお鍛錬されていないことを認めざるを得ない。[br][brm]
次に、支那文化と日本文化を対照して著しく感ずることは、支那を文とすれば日本は[br]
まさに質であることで、苟くも文化というからにはすべて文であること、云うまでもないが、同じ[br]
文にしても日本の文は質に近い文であり、支那の文は文の中でも文なるものということができ[br]
る。それはすべての生活の面において、儀礼の点において殊に著しく表れていることで、いわゆる[br]
繁文縟礼ということは、正に支那の特色といって好いのである。しかし、かかる特色を許容される[br]

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社会は、一面、時間においても、物質においても、極めて豊富なるものを背景に持たねばならな[br]
いこと云うまでもなく、自然、全国民がすべてかかる文化の恩恵に浴することは困難である。こ[br]
こにおいて、過去の支那文化は、その文の特質を特定階級の間に壟断(ろうだん)し、その階級の生活[br]
の安定ということが条件になっている。たとい個個の家族や世族に盛衰はあっても、その階級に[br]
おける安全が保障されているかぎり、支那文化は遂に文の特質を失うことがない。この階級[br]
は、かの世界に比類なき漢字を自由に駆使し、又、世界に比類なき尨大な文献を渉猟[br]
し、三千年前の古文献により古人を尚友する特権を荷(にな)い、しかもその脚下にまったくこの[br]
文化を直接享用できない多数の同胞のあることを忘れてかまわないのである。自然、その文[br]
化は高踏的ともなるであろう。貴族的といわれても好かろう。自ら額に汗して働くことは必[br]
ずしも要求されない社会のこととて、多く精神科学に偏重することも已むを得ないと思[br]
うし、あまりにも悠閑なる境遇は多くの遊戯的份子をさえ伴うであろう。「儒林外史」に、蘧[br]
公子が「父の役所では三とおりの音がしておりました。一は詩をうなる音、一は棋を打つ音、一は[br]
謡をうたう音」(注1)といった、有名なことばを引くまでもなく、「儒林外史」全篇はまさにかかる[wr]悠[br]

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悠閑閑たる[/wr]社会を写していて、かかる社会の状況をかいま見たことのない者には、その中の味を[br]
嘗めることが仲仲むつかしい。而かも「儒林外史」をばかかる社会とその脚下にある人民と[br]
の摩擦を写したものとして読むとき、津津として興味のつきぬものであるが、そこに支那文化の[br]
持つ社会問題が如何に深刻であることが知られ、同時に支那文化が普及性を缺くこと[br]
も反省される。その最も確かな実例として、西洋の書物としては、概論、概説というべきもの[br]
が名著として多く伝えられているに反し、支那の在来の学術的労作は、まったく非概説的のも[br]
のであるのみか概説を作ることは卑しきこととしてさげすまれ、著述の中に歯されなかった。恐[br]
らく近世における梁啓超の名声は、新しく概説を書いて時流に投じたために相違[br]
ない。つまり、むかしの支那の学界では、概説は自得すべきものと定められ、その自得のために必然な[br]
読書という訓練が用意され、又、その訓練を得るまでの長い時間の間、生活の安定が保障されていたのである。ある支那の学者のことばによれば、「昔の学者はみな熟読深思して、久しうして心にその意味をさとる。ここにおいて、その経験から得たものを以て著述をするが、何故そうなったかということ〔所以然〕は、大体自分だけが黙喩してすこしもとり出して人に示さない」と云っている。従って、概説としてまとめることは困難だと[br]
いうよりも、むしろその方の鍛錬を試みなかったのであって、その代わり豊富な資源による長い訓練が、理[br]
論化せざる理論を自然に形づくって、あらゆる学術的労作をその上に支える役目をつ[br]
とめていたのである[nt(050150-0100out01)]。[br][brm]

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論文とか研究とかを尚ぶ時代にとってはよほど違った存在である。 哲学 兪曲園