講義名: 支那学概論
時期: 昭和15年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ

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支那學概論[brm]
私は昨年東京のある研究会を訪問した。その研究所は最近の情勢に本いて設立された[br]
ものであるから固より支那に関する研究を中心としたものである。その時に研究所の主幹た[br]
る人物に私は支那學者として紹介された。その人はしばらく私の顔を見て支那學つて[br]
どんな學問ですか。聞いたこともない名ですね、と云はれた。或はその人が當代有数の政[br]
治家であるためにわざと客を煙に捲く技術を使用されたのかも知れないが東京の[br]
真中でさういふ挨拶は少からず意外と云はねは(ば)ならない。その實ひとしく支那學[br]
に携つてゐる者のあひだにも支那學と云ふものの正体はあんまりはつきりつかまれてゐ[br]
ない様に思はれるふしもあり時々は自分自身が支那學といふものを一遍とっくり考[br]
へ直して見ることが極めて必要なことでもあり又初めて支那學といふ畑に飛びこんで見られ[br]
て何かしら失望し不満を感ぜられる人も常にあることでもあり一とほりこの學問の[br]
輪郭を画いてお目にかけることは一種の道しるべとしても相當必要なことでもあり又相[br]
當親切なことでもあらうと云ふことを考へたのが抑この講義を試みる様になつた因縁で[br]

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ある。[brm]
日本は支那の新政府は承認しても、厳密な意味で云へば、支那学と云ふものは承認[br]
してゐないとも云へる。何となれば、日本の学問が大学の学制によつて一つの分科の形式を[br]
示されてゐるとして法経文理工農医の各学部のどこを見渡しても、支那学とい[br]
ふ学科は見あたらない。なるほど文学部の支那哲学とか支那文学とか云ふ学科は[br]
かなり古くから設けられ、たとへ支那哲学が学科の名として承認されたのは明治三十年[br]
代だとしても、支那哲学といふ講義があつたのは明治十五年に三宅雪嶺氏が時の[br]
東京大学文学部を卆業された時の卆業証書に支那哲学と頭書きして東京大[br]
学教授従六位島田重礼とサインがしてあるので知ることができる。雪嶺先生の大学[br]
の今昔<(割注)婦人之友十四年五月>によれば「支那哲学や印度哲学はこれぞと云ふほどの未来がない」と云[br]
つてゐるところを見れば、当時の哲学科の中ではあまり学生の興味をひかなかつたものの様[br]
であるが、これは明治初年の時世としてフエノロサがドイツ哲学を紹介したころのことで[br]
あつて見れば何の不思議もないことであるが、そのドイツ哲学が今の様に普及されて来て、[br]

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支那に関する智識が枯れつくさうとする時代になつても依然として支那哲学は「これぞと[br]
云ふほどの事がない」と云ふ状態で文学部の一隅に置き忘れてあるし、支那文学といつ[br]
ても「何だ漢文か」といつた様なさげすみといふか時勢離れしたと云ふかを浴せられる様[br]
な状態である。ちやうどわれわれが一帝にゐた時分に法科志望の連中が「何だ文科か」[br]
といつて、法科に非ざれば人にあらずと云つた驕慢な態度に不快を感じた様に文学[br]
部においても「漢文か」といふ何か一段下等社会みたいな扱いが時によつては[br]
西洋学をやる人たちの間から不用意に洩れないでもない。それには支那哲学支那[br]
文学の本質問題からも考へてゆかねばならないこともあるが、一方から云へばそこは多勢[br]
に無勢と云ふ弱味があるのである。[brm]
元来支那哲学にしても支那文学にしても学問の系統を溯つてゆくと徳川時代[br]
の漢学と云ふものになつて行くのであるがその漢学といふものがこれまではまるで学[br]
問の王座にすわつて学者といへば漢学者の代名詞みたいで日本の国でありながら国学[br]
と云ふものを厭迫して修身の代用までつとめて来た物凄い羽振りが一丹[wr]明治維[br]

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新[/wr]とともに王座から顛落してすでに明治十年には時の東京大学総理加藤弘土[br]
先生が政府に上申書を出して今文学部中特ニ和漢文ノ一科ヲ加フル所以ハ目今[br]
ノ勢斯文幾ント寥々晨星ノ如ク今之ヲ大学ノ科目中ニ置カサレハ到底永久維[br]
持スヘカラサルノミナラス自ラ日本学生ト称する者、唯リ英文ニノミ通シテ国文ニ茫乎[br]
タルアラハ真ニ文運精英ヲ収ム可カラザレバナリ但シ和漢文ノミニテハ固陋ニ失ス[br]
ルヲ免カレサルノ憂アレバ並ニ英文哲学西洋厂史ヲ並収セシメ以テ有用ノ人材ヲ育[br]
セント欲スと話した有様を見て思半ばにすぎるであろう。十年にしてかくも惨めな[br]
状態を現出したことは如何に当時の西洋学に関する熱が□く東洋のことなど顧みる[br]
暇もなかつたことが知られる。大学とは実は西洋学を吸収するための機関であり、たゞ和[br]
漢文の滅亡を救ふ意味においてその一部分の席を分けたと云ふに止まる。もし林語[br]
堂の言葉を借りるならばWhen one is in China,  one is compelled to [br]
think about her,    which compassion always,with despair    sometimes[br]
と云つた様な失望に至らぬまでも憐憫の□□に出でたものである。[br][brm]

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かくして漢学科といふものが考へられて一時は旧体制に復活したけれどもこれはその名の示す通り[br]
徳川時代への継承を意味するもので、もとより十二分に時代と調和する筈もなく、やがて[br]
文学部の哲学文学史学といふ体制にまきこまれて支那哲学支那文学東洋史学[br]
といふ様な鼎立的な形式となつたわけであるが、勿論、支那学自体の要求に出づるもの[br]
ではなくて当時の学問がやはり西洋学を主体としてゐたため自然それに合同して行[br]
くのが生存の道であると云ふ様な一向主意のない行き方に違ひない。しかし制度という[br]
ものは恐るべきものであつて一たびさう云ふ制度ができると恰も支那学そのものが本質[br]
的にこの三つに分かれてゐる様に考へ易いものであつてこれが今日の支那学の致命的欠陥[br]
になつてゐるとは当時の人のむしろ考へ及ばれなかつた点ではあるまいか。[br][brm]
その最も面白い例はかつてある人が支那哲学支那文学だけでは支那学にならない、[br]
東洋史を加へねばならないと云ふ主張をされたことがある、支那哲学支那文学だけ[br]
では支那学にならないと云はれる意味は賛成であるし東洋史を加へねばならにと[br]
云ふこともよくわかるが逆に東洋史を加へたら支那学になると云ふ考へかたは私には理会[br]

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しがたい。つまりこれは酸素と水素と化合したら水になり、酸素と窒素と化合したら空[br]
気になると云つた様な機械的な考へかたで、それを化合するために如何なる化学[br]
的操作が必要であるか、その分量の工合、また空気ならば酸素窒素以外にア[br]
ルゴンがどれだけ含まれねばならないかといふことは忘れられてゐるし、支那学の場合[br]
は、化学方程式の様に機械的にはゆかずに非常に多くの未知数が考へられねば[br]
ならぬのである。[br][brm]
これについて先づ考へるべきことは文学部に設けられた支那に関する三つの学科は今[br]
日の状態では少くとも独立できる性質のものでないことである。つまり支那哲学ならば[br]
支那哲学として與へられた学科過程のみによつて、支那学の思想的方面が了[br]
解できるかと云ふに、私は否と答へざるを得ない。これはちやうど酸素といふも[br]
のを抽象したからとて水の原素となつた酸素、空気の原素となつた酸素[br]
がわからないと同様であつて、実験室で酸素を製造することはできようが酸[br]
素の作用だけでも実験室だけでは到底覚り切れない。むしろ人間が空気[br]

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の中で生存してゐることが一番大切な酸素の作用を知る道である。具体的に申せば[br]
朱子の理気の学説を研究する場合に一々その理に関し気に関し或は理と気[br]
ともに関した説をひろひ出して研究し綜合する方法論に毫も疑はないが、[br]
朱子の理気説をして今日の人が発表するような論文は決して朱子自身が発[br]
表したことはないものである。或は場合によつては朱子と九原より起して見ると、わしは[br]
そんなこと考へてゐないと云ふかも知れないこともあらう。その著るしい例は故小栖博士が[br]
かつて哲学雑誌に兪曲園の哲学といふ論文を発表されたその時、兪曲園がこれを[br]
見て大に驚いて挙世人人話哲学、愧我迂疏未研搉、誰知我即哲学家、[br]
東人有言我始覚といふ詩を作つたといふ有名な話がある。兪曲園はまさか自分[br]
を哲学者と考へる人があらうとは夢にも思及ばなかつたことであつて小柳公によつて哲[br]
学伝中に収められたと云つてゐる。しかも小柳先生は哲学雑誌に之を発表し活[br]
字に組んで世にひろめられたに対し当の哲学者曲園先生は飄然たる詩を作つて之[br]
を木版の春在堂詩論の中に収めて清ましてゐる。哲学雑誌に感想を発表す[br]

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るなんと云ふことすら考へない。そこに小柳先生の見られた哲学者と哲学者と称せ[br]
られた兪曲園との間にすでに越ゆべからざる溝が掘られてゐることを認めねばならな[br]
い。まして小柳先生の論文を読んで兪曲園を哲学者と信ずる人たちは、更に大きな[br]
クリークをへだて、或は大海をへだてて遥に望むと云つた程度である。これで曲園その[br]
人の姿を思い浮かべることは出来ない。朱子にしても朱子の時代もわきまへず朱子の[br]
生活も知らずにただ朱子の思想といふものが都合よくわかる筈もなくある人は朱[br]
子の詩は下手だと云ふ様なことを放言する。朱子の詩がわかるためにどれだけの苦[br]
労を要するのかといふことは考へない。理や気のことを書いた部分だけを抽象しても[br]
そのことを人に話した時々の対手の気持や学問の程度によつてそれぞれ違った言ひ[br]
かたができるのであつて誰にでも同じことを云ふノートの切り売りとはわけがちがふ。し[br]
たがつて甲の表現を乙の表現とは相当矛盾があつたり広狭があつたりして今から機械的に考へれば或[br]
は満たされない気持もしようが、万人むきの学説といふものは結局誰にもわからない[br]
ことで、その当面の人たちに満足を与へていわゆる人を見て法を説きながらしかもその人[br]

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の心の中に一種の統一があつてこそ朱子の思想といふことが抽象されるものに相違ないが[br]
その思考そのものについては格別まとめて書き残さないのが支那の習慣であつてそれ[br]
が炎の様に表れたところを見てその根本に横はる火の強さを知らねばならない。その[br]
炎とは必ずしも理とか気とか云ふ哲学語の形式のみに表れるものではなく、政治的な議論[br]
にもなり、なごやかな詩にもなり、日常の談話にもなり、火花が散るところに人間の[br]
思想が明滅してゐるので、これを今日の哲学といふ物さしをあてて、ちやうど規格[br]
統制でもする様に合格不合格を定めてゆくことの危険を反省しなければな[br]
らない、勿論古人の思想を研究すること自□が何よりも年代の相違のため甚し[br]
く無理なことであり、まして外国人として支那のことを研究するといふ地理的の相違から[br]
来るなやみもあるわけであるが、われわれは何とかして之を克服して朱子らしい朱子を[br]
考へようといふためには先づ朱子の哲学を考へるといふ行き方はしばらく避けなければならない。[br][brm]
支那学の研究趣目には古代に関することが極めて多い。古代の宗教とか古代の思想[br]
とかさながら考古学と云つた様な気持のするものである。何故さういふ方向に流れ[br]

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るかといふ原因の一つはただ今の説明とは逆に古代のことがやりやすいからでもある。つまり[br]
太古のことは極めて□莫として確実な史料もない。二三人のよく使用する史料があつても[br]
たまたま別の観点からこの史料は偽物であるといふ様なことを言ひ出しても格別他[br]
人が必ず然らずとは断定できない。そこに材料の不足がかへつて自由の天地を生む。[br]
韓非子に狗や馬を画くのは難しいが鬼魅を画くのは易いといふ話がある通り空[br]
想の世界を画くことは易いが確実なる証據を立てることは決して楽ではない。そ[br]
こに史料の不足といふなやみよりも思想の自由といふ特権を利用して相当なかせぎ[br]
ができるわけであつて、たとへば孔子のことを論ずるにしてもさまざまの見地からさまざま[br]
の孔子が画き出される。もし少し夢心地にその人の説をきいてゐると孔子が現代人で[br]
あることはさておき孔子が独逸人ではないかと云ふ錯覚さへ起しがちである。その面白[br]
い例は西洋人が孔子の肖像画を書いたもので東洋歴史参考図譜に載ってゐるも[br]
のは1736年DuHildeのDescription de liempire de la Chineの第一[br]
巻の口絵に出てゐるのを採つたのであるがその孔子は西洋の中世紀式の寺院の建物の[br]