講義名: 清朝許学 坿説文段注解題
時期: 昭和6年
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倉石武四郎博士講義ノートアーカイブ
清朝許学 坿説文段注解題
昭和六年
清朝許学
本講義は名は大學學制に所謂支那語學の特殊講義なれど其實は支那の小學
の一部門を究求するを以て目的とする。原来小学の称は漢書藝文志に昉まる漢志に
史籀十五篇、八体六技、蒼頡一篇、凡将一篇、急就一篇、元尚一篇、訓纂一篇、
別字十三篇、蒼頡傳一篇、揚雄蒼頡訓纂一篇、杜林蒼頡訓纂一篇、杜
林蒼頡故一篇
以上十家、揚雄杜林の重複を去りて四十五篇 四十五篇の説は八体六技を八篇と計上したものならん。その傍証と して見る可きものは 韋昭の漢書音義(原七 今 顔師古
引)には専ら八体を注して六技を注せざるを ぐかし 但し宋?漢書(大?九年補刊)には三十五篇に作る をもって小學と名づけ之を易、書、詩、禮、樂、春秋、
論語、孝經の最後に附し、この九?をすべて六藝略と立ててある。而してその小學類の末に
古者八歳入小学、故周官保氏掌養國子教之六書・・・漢興蕭何草律亦
着其法、曰太史試學童能諷書九千字以上、乃得為史.
とあり又同じ條に
史籀篇者、周時史官教学童書也
ともあるに據て?に推察?らるる如く小學の學童に對する教科用書を一括して之を小
學と名けてある。然し乍ら?この史籀篇以下?の性?を藝文志の?に?つて考察するに?
?所謂識字之書に過ぎない従て八歳小學に入りて、學ぶ所のものは全く文字に外ならず
四庫提要に
古小學所教、不過六書之類、故漢志以弟子職坿孝經?、而史籀等十家?四十
五篇列為小學
と称してゐるのは[add]大くと?漢志の?類に関しては[/add]的確なる判断と称す可きである。四庫提要は更に
隋志増以金石刻文、唐志増以書法書品、已非初旨、自朱子作小學以配
大學趙希弁讀書附志遂以弟子職之類併入小學、又以蒙求之類相
參並列、而小學益多岐矣、考訂源流、惟漢志根據經?義、要為近古
とて自らは
以論幼儀者、別入儒家、以?筆法者、別入雑藝、以蒙求之類隸故事、
以便記誦者、別入類書
とそれぞれ帰趨する所を?にし、而して小學それ自身?就ては
惟以爾雅以下編為訓詁、説文以下?為字書、廣韻以下?為韻書
の三大別を建て、自ら
體列讀厳、不失古義
と称してゐる。然し乍ら四庫全書の??小學類に著録せられたる典籍は決して漢志の小學
の如き學童の教科書ではない。実に支那の文字音韻学の要?籍に係る。それ故に四庫提要
に?つまで尚ほ漢志の?と?げるものは、その語の淵源?久しくして雅馴なるが為に用ゐたに過
ぎず、漢志の原義と相距ること頗る遠き結果を見てゐる。然しこれが即ち今日に通用?る
小學の解釈であって、余が茲に用ゐる「小學」も亦この意味に外ならぬ
是に於て近年以来尚ほ小學の称を?用することを以て不適當なりとする一派の學者の現は
れたることも毫も異とするに足らざる次第であって章太?の如きこれを文字學と称する
ことを以て門生に誥げたとい云うことである。[add]本来は語言文字學を称す可きであるが??ては[/add]小學の二字に比して五字の名称はあまりにも雅馴ならざ
るが為に[s]普通は[/s]略して之を文字學と云う。但しさればとて決して音の方面を閑却したの意志では
ない。且つ此等の名称は要するに小學と内容に於て全然同一?て従て小學が分類された
の訓詁、字書、韻書の三方面は[s]すべて[/s][add]?つまで[/add]文字學に[s]含ま[/s][add]?通?さ[/add]れ唯だ之を形、音、義?名称を
改めたのに過ぎず、現に北京大学の教科用書?して文字學音篇もしくは文字學形義
篇の書があることでも正しくこの関係を認めることが出来る。但し強いて言へば、四庫の分類は書
籍を中心として?られたるが故に字書、韻書等の辞を用い、章氏の門に於ては学問の類
別に?けて形、音、義の称を採つたといふことは同時に考へ?ることである。
而して此の所謂形音義なるものは要するに一介の文字を?表?て其の構成を要素的に
抽象したるもので、何れの文字も此の三要素を含まざるはなく、亦た此れを具備?せざるものは支那
にては文字の列に歯せられ得ないことになつてゐる。若し之を發?生論的に考?れば最初にある概
念としての義が生じ、之を呼ぶべき音を与へ然る後に之を記すべき形を具ふることになるわけであ
らうが研究の便宜から考?ればその逆に形を具て音を?へ音によつて義を紬ぎだすことが
極めて自然の順序ともなる之を要するに文字の發?達した以後に於てはこの三者は全く不可
分の関係におかれてゐる。然し乍ら小學?字學の用は?に此に止まらぬ即ち一介の文字の